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 リビングに続く扉を、かつてこんなに重く感じたことはなかった。

 リビングに続く扉を、かつてこんなに重く感じたことはなかった。

 実際にノブを回すには、何度かの深呼吸が必要だった。

 この扉の向こうには、石動が数時間前に逃げ出してきたばかりのツケが残っている。今朝自分がしたこととその結果を、もう一度正面から受け止めなければならない。でなければ、また同じことを繰り返すだろう。


 意を決して、ノブを握る手に力を込めた。


(――?)


 広がるリビングの光景が、朝の記憶と少し食い違う。


 食卓は既に片付けられていた。

 床に飛び散っていた皿の破片や料理の残骸も、綺麗に姿を消していた。

 水拭きまでしたのか、フローリングの表面はまだ少し濡れている。


(どうして)


 つい数時間前の惨状が嘘のようだ。

 リビングはいつも通りだった。


(誰も、いない?)


 一瞬そう思った。けれど、室内に足を踏み入れれば、すぐに違うと気付く。


 音がした。


 トントントンと、リズミカルで。それでいて控えめな音。

 ついで、くつくつと何かが煮立つような音も。

 何の音かはすぐにわかった。ここ数日の間、朝、階段を下りるといつもこの音を聞いていた。それは日常の記号だ。色あせない生活の一欠片だ。


 誰かが包丁を使っている。

 誰かがコンロに鍋をかけている。


 台所には、少女の後ろ姿があった。


 背中には、首と腰部分に割烹着の白い結び目。割烹着の下には、石動の買ってやった洋服の柄がちらりと覗く。規則的でリズミカルな音と共に、わずかに上下に揺れる彼女の右肘。きっとその右手は包丁を握っている。その左手は、清潔なまな板の上で長ねぎか何かを押さえている。横には、火にかけられた鍋だ。蓋から漏れた湯気が、天井に向かってささやかに伸びる。湯気は拡散し、換気扇に辿り着く前にごく自然に立ち消える。


 窓から差し込む陽光が、そんな彼女と鍋と台所の風景を、斜めに照らしている。


 なんてことのない光景。食事を作るいする美。昨日の昼も見た。一昨日の朝も見た。

 なのに、どうしてだろう。胸が詰まった。

 美術の教科書で見るどんな絵画よりも、この光景を神々しく感じる。


 そこには、石動の知る限りの完全さがあった。

 完璧で揺るぎない、帰るべき場所としてのひとつの原風景。

 壊してしまったと思ったのに。いや、実際、それは壊れたのだ。誰かがかわりに水を注いだ。石動が目を背けた後も、ずっと。


「いする美」


 彼女と出会ってから、まだ一週間と経っていない。少なくとも、石動の主観ではそうだ。この台詞だって、そう何度も言ったわけではない。でも、今はひどく唇に馴染む。それこそ、十年間を連れ添った夫婦のように。自分が、今しがた仕事を終え、彼女のもとに帰ってきた夫であるかのような気がしてくる。そんなストーリーさえ、すんなりと信じられる気がした。


「ただいま」


 声に反応して振り返った彼女の顔。

 どれだけ泣いたのだろうか、目と鼻のまわりは赤く腫れ、頬にも涙の痕が残っている。

 少しの間があって、その顔がまず驚きに染まった。

 更に少しの間があって、その唇が震えながら、徐々にほころぶように笑みの形をつくる。


「し。信じ。信じて。私。信じてました」


 もう充分すぎるほど涙を流したはずの瞳が、また潤んで、光沢を宿しだす。


「おまえさまが。おまえさまは。きっと帰ってくるから。今度こそ。お気に召す料理で。お迎えしようと。私」


 磁石にひきつけられるみたいだった。

 どちらともなく歩み寄っていた。

 ごく自然と、彼女の背中に手が回り、彼女も石動の背中に両手を回していた。石動の肩口に、あつらえたように彼女の目元が来る。そうしていると、自分の右肩は、彼女の涙を吸うために存在しているのではないかとさえ思えてくる。


 ――どうして避けるんです?

 ――謝らなきゃいけない相手がいるでしょう?


 鈴売の言葉を、あらためて噛みしめた。馬鹿だった。そのとおりだ。一刻一秒でも早く、彼女をこうして抱きしめるべきだった。

 言うべき台詞は、驚くほど自然に口をついて出る。


「ごめん」


 ふるふると、彼女は、石動の体に顔をうずめたまま、首を横振る。


「ごめん、いする美。本当に。俺は君を――」


 その後が続かなかったのは、腕の中の彼女の声を聴きとるためだった。


 お帰りなさい。

 

 お帰りなさい、おまえさま。


 石動にだけ聞こえる声で、微かな囁きが耳朶をくすぐるように響いた。



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