道玄坂石動には四年間の空白がある。
道玄坂石動には四年間の空白がある。
小学五年生の時だ。下校途中、通学路で信号無視のタクシーに撥ねられたらしい。
奇跡的に体に障がいが残るようなことはなくて済んだが、意識が戻らず、そのまま病院での寝たきり生活が続いたらしい。
幼い息子が少しでもいい治療を受けられるよう、両親は随分無理をして入院費を捻出してくれたらしい。
全部、らしいがつく。
これらは、どれも後になって聞いた話。
石動がおぼえているのは、自分が明らかに自室ではない真っ白な天井を眺めているところからだ。
前後の記憶はない。
気が付くといきなり病室で寝ていた。
ベッドの脇には見知らぬ(でも、どこか見覚えのある)おねえさんが座っていて、石動の口にスプーンを突っ込んでいた。
舌の上でざらつく食感は、摩り下ろした――あれも、確か桃だったと思う。
はじめの内、思考が追いつかなかった。なにせ「起きたら口の中にスプーン」だ。その後何度となく似たような経験をすることになるのだが、なにごとにも最初の一回目があるものだ。
(起きた)
(やっと。やっと起きたんだね)
大粒の涙をこぼして微笑むおねえさんが、妹の久霧なのだと知るのは、だいぶ後のことだ。いや、この直後に説明されるのだが、納得するまで時間がかかった。石動の記憶では、久霧はまだ小学校の低学年で、真新しい社会の教科書に落書きをして遊んでいるガキんちょのはずだった。ましてや、自分が四年間も寝たきりだったなんて。そうそう信じられるものではない。
でも、事実は事実だ。
自分の記憶にあるより、だいぶ伸びた手足。
喉から発せられる、聴き覚えのない低い声。
トイレに立ってズボンを下ろした時のぎょっとする光景。
どれも、気付かない内に消費された石動の四年間と、これから先おそらくしなければならない人生の回り道を、如実に示していた。
そして、事故の後遺症らしきものも。
四年間、誰にも言っていないことだ。別に日常生活には何の支障もない。言えば、皆、心配するだろう。だから、医者にも黙ってきた。ただ、病室で目覚めた時には既にそうだった気がする。
石動は夢を見ない。
眠りに落ちたら最後、ぶつっと意識が途切れる。次の瞬間には、口の中にスプーンやらフォークやらが突っ込まれている。そして、こちらを覗き込む妹の顔だ。これを、もう何年も続けている。
だからこそ、気になる。
あの暗闇で会った少女、白っぽい灰色の世界――あれが夢だとするなら、何故今更?
***
「ここ、ここ」
一条に連れられてやってきたのは、高校近くにある橋の下だった。
川原が土手になっていて、下りれば、簡単に橋桁の裏側に回りこむことができた。
薄暗く、空気が少し湿気っている。
辺りには、ビニール袋に入った生活ごみや、ふやけたダンボールが散乱していた。ある一角だけ局所的に雑草が少なく、何かの建造物の撤去跡といったかんじだった。
「こんなところに?」
「かつては、ここに神がいたんだけどな。市がダンボールハウスを強制撤去しちゃってさ。神去ってしまわれたんだ……」
伝説を語るように、遠い目をする一条。
そういえば、この橋を根城にしているホームレスの噂を聞いたことがある。古本屋にも出回らないような希少なエロ本を収集しているため、一部の中高生の間では仙人と崇められているとか。通学路から大きく外れたこの場所と一条との接点が見えた気がした。
「帰る」
「おい、石動」
肩を掴まれた。止めてくれるなと思う。
「一条も知ってるだろ。表紙の肌色率が三割越えてる本持って帰ると、久霧の機嫌が悪くなるんだぞ。おかげで、俺はヤング系雑誌だってほとんど買えないんだぞ」
「違う。帰んな。大丈夫だから。そういう話じゃないから。見せたいのは、柱の反対側の方だから」
「柱?」
「こっち」
言われるまま、友の背中についていく。散乱するごみとダンボールをまたぎ、コンクリート製の橋脚の反対側へと回り込む。
(なんだ、これ)
一条のいう「見せたいもの」が何なのかはすぐにわかった。
穴だ。
橋脚がえぐれるように陥没して、大きなくぼみができている。
くぼみは、地面を半ば巻き込むようにして、斜め下向きに穿たれている。そのため、見ようによっては動物の巣穴に見えなくもなかった。しかし、コンクリートを問答無用で削り出すことができ、かつ、人間が屈んで入れそうな大きさの穴を掘る動物が、現代に存在しうるものだろうか。
――でも、じゃあ、これは生き物じゃないのか?
穴は、ただ穴であるだけではなかったのだ。砕かれた土やコンクリートの上を這うようにして、そいつはいた。
うじょろ、うじょろ。
擬音にすれば、そんなかんじだろうか。黒い粘状の何かが穴の中に溜まっている。ただ溜まっているだけではなく、蠢いていた。これをなんと呼ぶべきか、石動はもう一条から答えをもらっていた。でも、あまりにも的を射すぎていないか?
「な、言った通りだろ」
「これは――たしかに巨大ひじきだな」
徳用パックのひじき数十個分に、上からコールタールをぶちまけたような。あるいは、半溶けのかりんとうの集合体が宇宙意志に目覚めれば、こんな風に蠢くかもしれない。
とにかく、それは今まで石動が見たことのない何かだった。
(本当に?)
頭の中で、ちりちりと何かが囁いている。まただ。寝ている間に見たあのイメージといい、今といい、今日は何なのだ。既視感が多すぎる。
「すごいべ。グロいべ。この前、偶然見つけたんだわ。たしかに仙人秘蔵の黒いもじゃもじゃを探し求めてはいたけどさ。まさか、こんなスケールのでかいもじゃもじゃを発見することになるとはなー。もじゃもじゃ違いだわー」
「……いや、たしかに、すごいけど。グロいけど」
他に言うことはないのかと思う。
一応ある程度心構えができていたからよかったものの、こんな物体、夜中に一人で不意に遭遇したら、悲鳴をあげない自信がない。「ひじき」という響きこそ間が抜けているが、石動の常識では、ひじきは蠢かない。こんな不吉に蠕動を繰り返したりもしない。つまり、これはひじきではない得体の知れない何かだ。
「……これ、いったい何」
「それを石動に訊こうと思ったんだわ」
「俺?」
「だって、お前、オカ研じゃん」
「ああ、それで」
所属している部活動の名前を出され、この場に連れてこられた理由を大体察する。
たしかに自分がオカルト研究会に席を置いているのは事実だ。が、ほとんど勢いで入部したようなもので、その方面における石動の知識量はないに等しい。そもそも、総部員数二名の弱小クラブに、部活動としての有為性を求められても困る。
(いや、でも)
たとえば、オカ研の石動としてではなく、素の自分としてはどうか? あるいは、事故にあって、四年間の死んだ時間を過ごしていた道玄坂石動としては?
「どう思う? 俺、これ写メって、どこかの雑誌に投稿したらヒーローになれる? 2chでスレ立てたら神降臨?」
「いや、後者はぼこぼこに叩かれると思うけど。前者もどうかな……」
UMAブームなんて去って久しい。それに、画像にしてしまったら、ますます「コールタールをぶっかけたひじき」っぽさが際立ってしまう気がする。それでなくとも、今のWEBには、フォトショップで加工された本物以上に本物らしい偽物が溢れているのだ。
「んー。まあ、そうか。石動なら何か知ってる展開、あると思ったんだけどな」
ヒーローの道潰えるかー、とうなだれる一条。
無茶ぶりするなと思うが、そう落ち込まれると、反射的にごめんと言いたくなってしまう。
「んじゃ、ま。そゆことで。帰りますか」
しかし、顔をあげた一条の表情は、意外にも晴れやかだ。
「え?」
「何が『え』よ」
「いや、だって……これは?」
石動は、足元のうじょろうじょろに視線を落とす。
「や。だって、俺ら、何なのかわかんないし。で、投稿しても何にもならないし。したら、他に何するっつの?」
「警察に連絡、とか」
「それ、信用されなかったら、親や学校に連絡が行くパターンじゃね?」
たしかに、そうかもしれない。
一条の切り替えの早さに、感嘆する。わからなかったから友人を呼ぶ、その友人もわからなかったからもう帰る――直感的だが、合理的だ。では、何故自分は反射的に異を唱えてしまったのだろう。
残りたがっているのか、この場に。
何故?
「先に帰っててくれないか」
「石動?」
「一応。一応だけど。調べてみる。何かわかったら、明日教えるから」
「マジか。どしたん。めっちゃ積極的じゃん」
「あんま期待はすんなよ」
「それ、むしろ『すまーん、わかりませんでしたー!』待ちだわ。超楽しみ」
「るせ」
じゃ、お先するわーと手をひらひらさせながら、一人、一条だけがその場を去る。
土手を登る友人の背中が視界から完全に消えるのを待って、石動はあらためて足元のひじきに向き直った。
「……。さて」
うじょろうじょろ。
相変わらず、奇怪に蠢くそれ。
見た目は、コールタールをかぶったひじきだが、動きはまるで熱した鉄板の上で踊る鰹節のようだ。生き物ではない見た目で、生き物じみた動きをし、生き物とすら断定しきれない何か。気味が悪い。
調べるとはいったものの、どうするか。
試しに、その辺のダンボール片を手に取って、目の前のUMA(仮)を軽くつついてみる。
ふしゅるるるる――。
「っ!」
ダンボール片の先で、コールタールの泡が弾けた。
瞬間、かつて嗅いだことのない濃度の腐臭が鼻をかする。
「くっ、かはっ、げほげほ」
だめだ。まったくだめだ。この調べ方はよくない。実りがなさそうな上に、こちらの精神にも肉体にもダメージが来る。
何か他に方法はないだろうか。
(……。たしか弁当に入れたって)
ふと教室での久霧の言葉が思い出された。寝落ちしたのは、午前中だった。そのまま放課後までノートに突っ伏して過ごしたのだとしたら……そうだ、今日は昼飯を食べていない。なら、そのまま残っているはずだ。
鞄の中を漁り、弁当箱を取り出す。包みをほどいて蓋を開けると――予想通りだ。手つかずのご飯やおかずに混ざって、さっき教室で食べさせられたと思しき桃の姿が、ここにもある。
カラフルな爪楊枝の刺さったそいつを、石動はつまみあげる。
そのまま、うじょろうじょろの中に投げ入れた。
ただの思いつきの行動。深い意味はない。
もし、このうじょろうじょろが生き物であるなら。そういうシンプルな発想。
もし、生き物であるなら――こいつは、腹を空かせているかもしれない。
ぶくぶく、と。
不吉な音をたてて、コールタールをかぶったひじきの塊が泡立つ。
「――っ!?」
さっきつついた時の比ではない。泡がはじけるたびに腐臭が襲ってくる。とっさに口をふさぐ。まともに目も開けていられない。すぼまった視界の中で、巨大なひじきが、急激に収束する、厚さを増す、不規則に形を変えながらも、特定の輪郭を成していく。
――おまえさま。
――おまえさま。
――ねえ、おまえさま。
一瞬、頭の中を声がよぎった。女の声。懐かしいような初めて聞くような。イメージが強い。でも、思い出せない。思い出すという工程が必要ということは、これは夢ではない。既視感でもない。
これは、かつて確かに体験したこと。
その残滓。
記憶だ。
「お、ま、え、さ、ま」
ぼこぼこと泡立つ音が、ごろごろとひび割れた声になり、一語、一語、発音を経るたびに若い女の声になっていく。
起き抜けの眠たげな声のような、どこか甘えた、はっきりとしない喋り方で。
それは誰の声か?
理解するまでもなく、答えを知っていた。音の発生源は、ひじきだ。いや、その頃には、既に眼前にあるのはコールタールをかぶったひじきの塊ではなくなっていた。もちろん、かりんとうの群体でもない。
白磁のようななめらかな肌。
長い銀の髪が、胞衣のように体を包む。
まるで赤ん坊のように体を丸め、生まれたままの姿で眠る彼女。
人間だ。
穴の中には、ひとりの少女が、裸で横たわっていた。