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(何が)

(何が)


(何が、何が)


 いする美の頭の中では、さっきからその一節(フレーズ)だけが割れ鐘みたいにぐるぐる響いている。続く文章はない。どことも結びつかない、何の意味もない、ただの一節(フレーズ)。頭の中がからっぽになることが怖くて、とにかく呟き続けているだけだ。


 彼は先ほど何と言っただろうか。


 とても衝撃(ショック)なことを言われた気がする。胸が締め付けられるほど悲しかった気がする。でも、よく思い出せない。ひょっとして、夢だったのかもしれない。そうだったら、どんなにいいだろう。


 でも、じゃあ何故この胸の悲しさは消えないのか。


 目の熱さも、口の中のねばつく気持ち悪さも。まだ震えて思うように動かない唇も。どうして元通りになってくれないのか。


 どうして、こんなことになったのだろう。何がいけなかったのだろう。

 自分はどこで間違ったのか。


 いや、間違っていることなんてたくさんある。もともと、自分のわがままが招いたことだ。だから、それ以外のすべてを捨てて、たったひとつ、ただそのわがままのためだけに生きることにした。なのに、すべてを捨ててもまだ釣り合わないのだろうか。あるいは、だからこそ自分は間違ってしまったのか。


 だとすれば、どうすれば。


(皿)


 どれだけ経ったか、耳に残っていた誰かの言葉が思い出される。誰に言われたのか、どういう文脈で言われたのかは、もうおぼろげであやふやだ。


(皿を、皿を片付けないと)


 ふらふらと椅子から立ち上がり、床の破片に手を伸ばす。

 拾う。

 海辺の小石みたいに小さな破片だった。


 拾っている最中、この皿に料理を盛りつけた時のことを思った。

 会心の出来だった。前々日に出したおかずが好評だったから、自分なりに工夫して少し変化をつけた。だから、絶対にあの人の舌に合うはずだった。美味しいと言ってもらえる確信があった。料理を口に運ぶ彼の顔を、横からずっと眺めていられるはずだった。


「う、く」


 あんなにこらえたのに。彼の口から告げられた、多分この世で最も辛い一言にだって堪えてみせたのに。たかが、こんなことで涙をこぼしてしまうのか。でも、その「たかが」は、自分にとって予想以上に重かったらしい。だって、絶対に美味しいと言ってもらえるはずだったのだ。


 一度溢れたら、止まらなかった。


「うううう――うあ、うああ、うううううううう」


 視界がべしょべしょで、床がよく見えない。

 割烹着でぬぐう。

 皿を拾う。

 また溢れてきて、またぬぐう。

 皿を拾う。


(床も拭かないと)


(きっと気に入らなかっただけ)


(ありもので別の料理を)


(今度こそ、気に入ってもらえるような)


(だって、これくらいしか)


(私は。だって。これくらいしか)


 歯を食いしばって、涙をこらえる。それでも溢れてきて、またぬぐう。あらかた拾い終わって、台所の奥にあるごみ箱へと走る。

 動け。できることをしろ。まだやれることがたくさんある。

 昼食までは、あと数時間ある。

 きっとあの人も帰ってくる。


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