この久霧を、きっと石動は知らない。
この久霧を、きっと石動は知らない。
この久霧を、きっと一条は知らない。
だって、久霧本人でさえ、そうなのだ。自分がこんな状況で、こんなに愉快な気持ちになれるなんて知らなかった。
時刻は、少し巻き戻る。朝食での愉快な一幕があって、兄が家を飛び出した直後くらいまで。
「ぷ、くく」
ざまあ見ろ。久霧は、リビングの壁際に立ち尽くし、そう思っていた。
朝食の間は、笑いを噛みつぶすのに必死だった。最後まで鉄面皮で通してやろうかと思ったが、限界だった。救急箱を兄に渡すまでは、我慢できた。でも、彼が玄関の扉を閉める音が聞こえたら、もう駄目だった。口から笑い声が漏れる。
「くく、ふふふ、あはっ、あはははっ、あははははははははははははははっ」
こらえきれない。だって、ずっとこの時を待っていたのだから。
兄が皿を払い落とした時のあの女の顔。出ていってくれ――ずっと言ってほしかった台詞をついに言ってくれた兄。すぐに発言を撤回してしまったのは残念だけれど。兄が皿の破片で怪我をしてしまったことには、胸が痛んだけれど。それさえ抜かせば、状況は最高に近かった。
「ざまあ見ろ、ざまあ見ろ、ざまあ見ろ!」
口に出してみると、ますます喜びが増す。
「兄貴に嫌われてやんの、兄貴を怒らせてやんの、当然だよね、おまえが全ての元凶なんだから。なのに、にこにこ兄貴にご飯なんてよそってさ。兄貴がどんな気分だったと思う? 好かれていると思ってた? 守ってもらえると、許してもらえると思ってた? あはは、ばっかみたい、ばっかみたい!」
女は、返事をしない。ただ、茫然と椅子に正座したまま、床に散乱した皿の破片を見つめている。そうしていると、銀髪金瞳の少女は、それこそまるで人形のようだった。似合いの姿だと思う。等身大の人形なんて、存在が既にごみみたいなものだ。
(このまま、本当にごみに出せたらいいのに)
今の彼女だったら、抵抗しないかもしれない。醜い異界のバケモノを粗大ごみに出すには、市のごみ処理券を何枚貼れば足りるだろう。一枚? 二枚? それとも、三枚以上は必要だろうか? 楽しい想像だった。
「おまえなんか出てけ」
吐き捨てるように、久霧は言う。
「さっさと、今すぐ、出てけばいいんだ、どこへなりとも行って、勝手に野垂れ死ねばいい。そうするしかないよね、普通はそうするよね、常識ってものが一欠けらでもあればさ、だって兄貴に嫌われたんだから! 兄貴のお情けでいさせてもらっていたのに、もうそれだってないんだから! ほら、出てけよ、早く。早く早く早く早く!」
いする美は、返事をしない。ただ、茫然と椅子に正座したまま、床に散乱した皿の破片を見つめている。
「だんまり、か」
微動だにしない少女を見ていると、徐々に気持ちが冷めていく。
いいだろう、ずっとそうして巨大な置物を気取っているなら、それもいい。こちらも相手をしなければ済む話だ。なにせ、今は気分がいい。
先刻石動が消えたリビングの扉を、久霧もまた開ける。
今日は、もう学校を休もう。こんな素晴らしい日を授業でつぶすなんて、ばかげている。どの道、兄がいない高校なんて、無理をしてまで行く価値もない。
そうだ、このまま二階にあがり、兄の部屋に行ってみるというのはどうだろう。そうして、彼のベッドで二度寝と洒落こみ、彼の帰りを待つというのは? きっと、彼が戻ってくる頃には、世界はすっかり久霧の知る日常に戻っているはずだ。呆れたような、困ったような表情を浮かべながら、自分を見下ろす兄の顔が目に浮かぶ。
(あは)
飛ぶように軽やかな足取りで、扉の間に体を滑り込ませる。
後ろ手に扉を閉めようとしたところで、食卓に座ったままの人形が視界に映る。
人形は、相変わらず床に散らばる皿の破片を見下ろしていた。
久霧にとって、壊れた食器に特別な思い入れはなかったが、飛び散る汁や実は、あの人形の手が作ったものだ。卓上にも、久霧が作ったわけではない朝食が、はんぱに手をつけられた状態で残っている。
邪魔だな、と思った。
「おい、そこの」
名は呼びたくなかったから、結局そんな言い方になった。自分とこの女しかリビングにいないのだろうから、これで充分だろう。
「ねえ、聞こえてるんでしょ? 兄貴が来るまで、皿片付けとけよ。床のごみも全部。自分で作ったものは、自分で片付けないとね? 汚いんだからさー」
人形は、反応しない。
また笑いが込みあげてきて、久霧は今度こそ扉のノブを閉めた。




