暖かい朝だった。
暖かい朝だった。ほとんど風がない。
普段なら日差しを気持ちよく感じるところだが、今この時だけは、その陽気がむしろ重ったるい。天気がいいためか、まだ通勤・通学時間には早いのに、いつもよりすれ違う人の数も多い。気に食わない。今、この街を歩くのは、自分だけであってほしいのに。
「どこに行こうとしているのですか」
背後で声がした。
振り返ってみるが、誰もいなかった。いや、路地の脇に電信柱があった。その裏側から声が聞こえる。誰なのか、考えるまでもなかった。
「鈴売か」
「御明察にございます」
通行人が途絶えた一瞬をついて、電信柱とブロック塀の隙間から、ぼこぼこと黒いひじきの群体があふれ出す。甘ったるい腐臭を放ち、重なり合い、ひじきの群体は、見る見る小柄で細身の少女のシルエットを形作った。
「どうして、ついてきたんだ。君は、いする美のお付きだろう?」
「だから、いする美さまのかわりについてきました。まさか、今のあのかたに、あなたの後ろを歩かせるわけにはいかないでしょう」
「……。それは皮肉?」
「鈴売は、何か皮肉を言いましたか」
首を傾げる鈴売。おそらく本心から言っているのだろう。やりづらい。
「……。ついてこないでもらえるかな。今は一人になりたいんだ」
はっきり言わないと伝わらない気がして、なるべく率直な言葉を選ぶ。内面の苛立ちが漏れ出ないよう気を付けるのは骨だったが、早くどこかに行ってもらいたい気持ちが勝った。
「嫌です」
けれど、鈴売は首を振る。はっきり言っても伝わらなかった。何なのだ、この子は。
「私は、あなたに言いたいことがあって来ました。だから、嫌です」
「……。泣き虫で空気の読めない鈴売ちゃんが、俺に何を言いたいのかな」
もう声ににじむ不機嫌さは隠さない。怯んだ鈴売が自分から身を引いてくれる可能性に、少し期待した。今までの彼女の態度からして、それは決して無理のある期待ではなかったはずだ。
なのに、彼女は退かなかった。
どころか、こんなことを言う。
「かっこ悪いですね」
「なに?」
「いする美さまに聞きました。守ってあげると言ったらしいじゃないですか。なのに、今になって発言を翻すなんて。最初思っていたのと違ったとか。こんなはずじゃなかったとか。そういうの、後から言うのは見苦しいと思います」
「うるさいよ」
「うるさくありません」
「黙れよ」
「黙りません」
彼女の視線が、真っ直ぐとこちらを射貫いていた。
何なのだ。どうして、そんなことを言うのか。こちらがうるさいと言っているのに。黙れと言っているのに。何故一人にさせてくれないのか。
イライラする。
「……。言うこと聞けよ」
「聞きません」
「聞けっつってんだろ!」
滅多に使わない汚い言葉遣いで、彼女に詰め寄った。
本気じゃない。
これは彼女を怯えさせるための方便だ。
そうして今までのように彼女が涙を溜めて、ごめんなさいごめんなさいと謝りながら去ってくれればいいと思っていた。それが一番お互いに傷が浅くて済むだろうと。
けれども、本気じゃないはずの怒声は、本人が思っている以上に、大きな声になった。演技のつもりだったのに、舌が言うことを聞いてくれない。予想以上に、感情がざわついている。
さっさと泣いてくれ。
そうすれば、この感情も、口汚い舌も、少しは自分の言うことを聞いてくれる。誰に対して何に対して怒っているのかもわからないまま、気持ちだけざわめき続けるのは、辛い。その矛先を、なし崩し的に眼前の鈴売に向けてしまっている今の状況もだ。だから、早く。
けれど、やっぱり鈴売は泣かない。
「聞きません。黙りません。どこにも行きません。私は、ここにおります」
こちらを見つめる目は全てを見透かしているようで、口元には微かに笑みさえ浮かんでいた。
「だって、あなたがそんなかっこ悪い男だと、私ががっかりなんです。私の知る石動さまは、もっとかっこいい殿方のはずなんですから」
「……。どうせ、俺は黄泉の王みたいにかっこよくはないよ」
「どうして黄泉の王の話なんてするんです?」
どうしてって。
そんなのは決まっている。いつも、いする美から聞いていた。向こうでの自分がいかに強かったか、いかにかっこよかったか、そんな自分をいかにいする美が愛していたか――滔々と続く彼女の熱弁に、強くもかっこよくもない石動は、曖昧な相槌を返す。突っ込んだ話をして、自分と半身とのギャップに彼女が気付くのは嫌だから。そうして、深い話を避けてきた。
「『王』ではなく、『石動さま』と言ったでしょう? 私は、現世でのあなたの話をしているんです」
「君は、黄泉の国で、王に稽古をつけてもらってたんじゃないのか。だったら、知っているはずだ。今の俺が、どんなにかつての俺と違うか」
言っていて、悲しくなる。どうして、わざわざ自らの傷口を広げるような言葉を選ばなければならない? 己のかっこ悪さ、無力さを声高に主張するようなまねを。
「たしかに、よく手合わせしていただきました。手頃な強さだったようで、随分気に入っていただけました。でも、黄泉にいた頃の半身はなんだか怖かったです」
「怖かった?」
「自信満々で、常に不敵で。いつかとんでもない粗相をして斬り捨てられるのではないかと、鈴売は常にびくびくしていました。だって、黄泉の王は最強で、私程度が逆らって生きていられる道なんてないのですから」
鈴売は、少し悪戯っぽく笑った。
「私は、今のあなたの方が好きです。一つには、私よりあなたが弱いからです。私にとって脅威になりえないのであれば、鈴売の未来は安泰です。でも、他にもある気がします。うまく言えませんが。黄泉にいた頃の半身は、泣いている私の顔を袖で拭ってくれたりはしませんでした」
「俺が――」
黄泉で十年を過ごしたという自分の半身との間に、ギャップが存在することには気付いていた。でなければ、そもそもいする美から聞く半身の話が、これほど胸に苦しく響くこともなかっただろう。自分とは違うからこそ、これほど隔たりを感じる。追いつけない引け目を感じる。
(ああ、そうか)
今まで何度かそう感じる場面はあった。でも、こんなに素直に、すっきりと自覚できるのは初めてだ。鈴売が現世の自分を好きだと言ってくれたからかもしれない。
(俺は嫌いなんだ、黄泉の俺が)
強くて、かっこよくて、いする美の愛を一心に受けて。
でも、断片的に聞く半身のイメージはどこか傍若無人だ。ずっと一緒だといする美に約束しながら、むざむざ殺されている点も気に入らない。最強のくせに。全てを現世の半身である石動に押し付けて、何様のつもりだ。そんな自分を好きになれるはずがない。石動の一部だと思えるはずがない。
「石動さま。差し出口ながら、聞いてください。あなたは、もっと自分に自信を持つべきです。黄泉の王のように力で解決できないのであれば、あなたはあなたのやり方で、ことを解決すればいい。それがどういうやりかたであるか、私の拙い頭では思いつきませんが」
「……」
「石動さま? 石動さま、どちらへ?」
鈴売の言葉を聞きながら、石動の足は既に歩き出していた。




