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 ごろりと。

 ごろりと。

 何かとても飲み込みにくいものが、舌の付け根あたりでつっかえていた。口の奥がそいつでほとんど占領されて、すごい異物感。なんだこれ。苦しい。

 反射的にえずきそうになるが、できない。上の歯と下の歯をこじあけるようにして、何かが、異物を、喉の奥へ奥へと強引に押しこんでくる。


(息、が――)


 危うくそれが人生最後に考えたことになりそうだった。

 幸いにも、寸前で生存本能が勝つ。不随意筋的に喉が収縮し、口腔を圧迫する異物を無理矢理飲み込む。

 同時に、石動(しうご)の意識は急速に浮上を始める。


「あ、起きた」


 目を開けると、三十センチと空かない近距離に、こちらを覗きこむ二つの瞳があった。

 ぱちぱちと、超至近距離からのまばたき。

 そのたびに、長い睫毛が上下に揺れる。

 ちょっと傾げた小首の後ろでは、短いポニーテールも揺れている。


 いや、近い近い近い近い。


「くひうぃ」


 久霧(くきり)

 眼前の妹の名を呼ぼうとして、失敗する。

 原因はすぐにわかった。


 指だ。


 口の中に、強引に指を突っ込まれていた。

 より具体的にいうと、挿入されているのは、親指と人差し指だった。指笛を他人の手を借りてやろうとしたら、こんなかんじかもしれない。そんなシーンがあるのかどうか謎だが。いや、むしろ、どんなシーンだろうと、指を口に突っ込まれる状況は謎だろう。わけがわからない。

 指の持ち主であるところの妹の久霧が、鼻先三十センチの距離で、悪戯っぽく笑っている。


「どう? おいし?」

「あやく、ぬいへ」

「ん?」

「あやく、ぬいへ。あお、もうひょっほ、はなえへ」

「あ、ごめーん。つい、うっかり」


 全然うっかりじゃない口調と共に、突っ込まれていた二本の指が引き抜かれる。

 久霧は、そのまま数歩後ろに下がり、近場の机に腰を下ろした。制服のスカーフとプリーツスカートが控えめに揺れる。


 そんな少女の横には、やはり机に寄りかかるようにして、男子生徒の姿があった。


「ほん――」


 脱色した前髪と赤フレームの眼鏡の奥で、こちらを見下ろす目が呆れたように細められている。


「――っとにこれで起きるんだよなー、石動って」

「一条、か」


 酸素不足の脳みそから、のろのろと級友の名前を引き出す。


「他の誰だよ。俺の顔がマイケル・ムーアにでも見えるか?」

「いや、それが誰だよ」


 会話と共に、やっと頭に血がめぐってくる。


 久霧と一条。そして、自分。


 教室に残っている生徒は、これで全員のようだ。窓から差し込む日差しはまだ充分に明るかったが、教室に並ぶ机から皆の鞄が消えている。いつの間にか、放課後を迎えていたらしい。

 たしか、四時限目の授業が妙に眠くて――そのまま、寝落ちしてしまったようだ。朦朧とした意識の中で書いたのだろう、机の上のノートには、謎の幾何学模様がのたくっている。


「ね、だから言ったっしょ。兄貴って、こうしたら一発なんだから。すぐ起きたっしょ?」


 どこか自慢げに言いながら、ハンカチで指をぬぐう久霧。


「いや、知ってっけど。初めて見たわけでもないし」


 でもさー、でもなー、と腕を組む一条。


「なにさ」

「や。起こすよう頼んでおいてアレだけど、全体的に危ないよね。絵ヅラが危ない。兄妹同士でなんで指チュパってるの? 趣味なの?」

「えー、このくらいせふせふでしょ」

「せふせふかなあ」

「エロいと思って見る人の目がエロい」

「と妹さんは申しておりますが?」

「全然エロくないよね?」


 二人にじっと覗きこまれる石動。コメントをどうぞ、みたいな。息の合った二人だと思う。


「……。まあ。俺も、ちょっとびっくりした」


 先ほどの異物感の正体はまだわからないが、自分が何をされたのかはおおよそわかっていた。


 つまり、何か()()を食べさせられたのだ。


 妹の生指で。寝ているところを。口を無理矢理こじ開けて。気道を塞ぐのもおかまいなしに。ぐりぐりと食べ物を喉に押し込まれた。

 それが先ほどの呼吸困難の正体だ。


 もっとも、妹にこの方法で起こされるのは、初めてではない。

 石動は寝起きが悪い。寝起きが悪いの一言で片づけては、周囲から苦情が来るかもしれないくらいに悪い。授業中に寝落ちした日には、教師がいくら怒鳴ろうが喚こうが絶対に起きない。勝手知ったる友人たちは、そういう時、一学年下の教室から久霧を呼んでくる。それが最も手っ取り早く石動を起こす方法だと、皆が知っている。


(兄貴を起こすなんて簡単だよ。とにかく何か食べさせればいいんだ)


 と、おそらく今年最も二年教室に出入りしている後輩女子は、かく語る。


 まさしくその通りで、てこでも起きない石動を起こすのは、実は簡単だ。口に食べ物を突っ込めばいい。それで確実に目が覚める。石動自身、何故この方法で自分が目覚めるのかよくわからない。やはり、死の危険を感じるからだろうか? とにかく覚める。

 とはいえ、好きこのんで野郎にあーんしたい人間がいるわけもなく、今のところ、この起こし方を躊躇なく実践できるのは、妹の久霧だけだ。いっさい迷いなく寝ている人の口に食べ物をぶちこんでくるので、その内窒息死させられるのではと、ひやひやしている。しかも、今までは、一応フォークやら爪楊枝やら文明の利器っぽいものを使ってくれていたのに、今日にいたってはとうとう指だ。指って。


 久霧は何故か照れた様子で頭を掻く。


「やー。あんまりいっつもワンパでもさ、その、倦怠期? みたいな」

「……俺、この起こされ方に意外性とかバリエーションとか求めてないよ?」


 マンネリ化を気にしていたらしい。

 いらない探求心だった。


「聞きました奥様、倦怠期って、倦怠期って言いましたよ、この子」

「うっさい、アホ一条、エロ、死ね」

「アホっていう方がアホなんですー」

「はああ? っていう方が百倍アホだし!」

「っていう方が千倍アホだしー?」

「はああ? はああ?」


 目の前で繰り広げられるアホアホしいやりとり。世界は平和だ。


「……ちなみに、今日、俺が食べさせられたのは何?」

「えっとね。今日のメニューは桃だよ。一口サイズの。お弁当に入れてきたんだ」

「桃?」


 なんだか既視感。

 でも、そのひっかかりの正体がわからない。


 隣で、一条が笑っている。


「どした。怖い夢でも見たんか。巨大桃に追いかけられるとか」

「……そうじゃ、ないけど」


 脳裏に残っているのは、漠然としたイメージだけだ。真っ暗な世界、灰色の自分、泣いている女の子、そこで何かを交換した。

 あれが夢?

 そんなもの、久しく見ていない。()()()()()()()()。夢を見る感覚がどういうものかすら、もう忘れてしまっている。


「あ、ちなみに、まだ桃残ってるよ?」


 久霧は、鞄の口をいそいそと開けだす。


「結構多めに入れてきたんだー。こんなこともあろうかと。準備いいでしょ。もう一個くらい食べる? 食べるよね? 兄貴、桃好きだもんね? 待ってて、今――」

「ほい、そこまで」

「ひゃぶっ」


 一条のてのひらが、久霧の背中を叩いた。座っていた机から突き飛ばされ、久霧は、たたらを踏んでつんのめる。


「っの、馬鹿! 一条のマジ馬鹿。床に鼻ぶつけるかと思ったでしょ」

「石動が起きたので、目覚まし時計はもういらないでーす。妹さんは速やかに退場してくださーい」

「はああ? なにそれ。うざ」

「石動は、俺と帰るの。そういう約束なの。つか、お前、委員会があるって言ってたじゃん」

「――そうなのか?」


 石動は久霧に訊く。「委員会を途中で抜けてきたのか?」という意味だ。


「うー。うん。まあ。そうだけど。そうではあるんだけど」


 歯切れの悪い言い方をする久霧。


 記憶が正しければ、彼女が所属しているのは、体育祭実行委員会だったはずだ。活躍どころは年に一回、体育祭のある六月周辺に限られる比較的楽な仕事だが、まさに今がその六月なので、忙しいことだろう。自分の寝起きが悪いばかりに、妹の委員会活動にまで悪影響を与えるようでは、兄として少々面目ない。


「行ってこいよ。俺ならもう大丈夫だから」

「そういうことじゃなくてさー」


 引き止めてほしいっていうかさー、とかぶちぶち言いつつ、久霧はしぶしぶ鞄を肩にかける。委員会をサボるという発想がない辺り、真面目な奴である。

 相当後ろ髪を引かれた様子ながら(本当にポニーテールが宙に浮き上がりそうなくらい、未練たらたらだった)、久霧はそのまま教室を出ていこうとする。

 扉を引き開けるところで、その手が一度止まった。

 振り返った久霧の顔に浮かぶのは、意外なほどに不安げな表情。


「ねえ、アホ一条」


 声をかけられたのは、自分ではなく、一条の方だった。


「兄貴に何かあったら、すぐLINE入れてよ」

「わかってるって」

「メールでも電話でもいいから。本当すぐだよ。絶対だからね」

「一条先輩♪って呼んでくれたら、超本気出すよ」

「馬鹿」


 べーっと舌を出しつつ、久霧の姿が扉の向こうへと消える。

 残ったのは、男二人。

 最も喋る人間がいなくなり、自分に割り当てられる教室の空気量が、急に増したように思えた。


「……」

「……」

「……」

「……」

「女子が消えた途端、会話が途絶えるパターン?」


 扉をぼんやり眺めてしまっていたらしい。一条が茶々を入れてくる。


「女子っていうか、妹だけどな」

「久霧ちゃん、あいっかわらず過保護なのな。献身的っつーか。実の妹で、あのかいがいしさは天然記念物級だわ。特にさっきの指チュパ、あれなんなの。イメージビデオの撮影か何かなの」

「心配なんだろ。俺のことが。うちは特殊だから」

「いや、ま、知ってっけどね。……ほいじゃ、まあ、行きますかー」


 友人の一言に、のろのろと立ち上がる。

 過保護、か。

 違うのだ、と言いたい気持ちは少しあった。でも、わざわざ反論するほど間違ってもいない。ただ、過保護とか、献身的とか。久霧があそこまで自分を心配する理由は、きっとそんなものではないだろう。

 多分、単純に妹は恐れているのだ。

 兄がまた死んでしまうことを。


「……ところで、俺、一条と帰る約束なんかしてたか」

「あー。でも、ああ言わんと久霧ちゃんも委員会に戻れなかったでしょ?」


 つまりは、嘘ということか。


「悪い奴だな」

「ついでにいうと、実は、真っ直ぐ帰るってのも違うんだわ。ちっと石動に見せたいものがあってな。今から行くのはそこ」

「見せたいもの?」


 一条は意味深に笑う。


「巨大ひじき」

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