到着した学校は、人の気配がない分、街よりもずっと寒く感じた。
到着した学校は、人の気配がない分、街よりもずっと寒く感じた。
まだ登校するには早い。運動部の部活だって始まっていない。朝の空気だ。
「ここで待っていて」
渡り廊下の自販機の前で、石動はそう言った。ここからB棟に入って目の前の階段を上がれば、それが部室までの最短距離になる。本当は非常階段からの経路がより近道だが、おそらく鍵がかかっているだろう。それに、心理的に使いにくい。あの非常階段には、巨大ひじきをめぐっての嫌な思い出がある。
「ここでですか」
「外で待っていてもいいと言ったでしょ?」
「それは、最悪の場合の話です」
少し頬を膨らませて、いする美は言う。
しかし、石動としても、ここを譲るつもりはなかった。畳ヶ崎と彼女を会わせたいとは思わない。単純に面倒な事態になりそうだというのがひとつ。これ以上畳ヶ崎を巻き込んではいけないという気持ちがひとつ。もちろん、そんなこと、いする美にとっては知ったことではないだろうが。
「残念です。心外です。おまえさまと腕を組んでいるところを、その何某という女に見せつけたかったのに」
どうしてそんなに――と再び思う。
何故彼女は、それほどまでに自分と離れまいとするのか。それは、自分の死因にまつわることだろうか。鈴売が教えてくれた、あの意外な死因に。
辺りには、誰もいなかった。
吐く息は、白く溶けて、校内の空気に拡散していく。
聞くには、いいタイミングであるように思えた。
「いする美」
「? はい」
素直に応えるいする美。だから、石動も素直に言った。
「俺は、殺されたんだね」
「……」
「どうして黙ってたの?」
「教えたのは――鈴売ですね」
いする美は、壁を背にして、その場に膝を折る。汚れるよ、と石動は自分の上着を彼女に差し出し、同じく隣に座った。背中に当たるコンクリートの感触が冷たい。
「あの子ったら。よけいなことを」
「このことで鈴売を責めないでほしいんだ。俺にとっては、知る必要のあることだから。黄泉の国で俺は死んだ。殺されたんだ。合ってる?」
「そうです。おまえさまは殺された」
かすれるような声で、いする美は言う。
「ある朝のことです。その日は、私にとってはいつもと同じ一日に見えました。でも、蓋を開けてみたら、最悪の一日になりました。私はいつもどおりおまえさまを起こしにいった。でも、いなくて。もう起きたのかなと思った。それで展望台の方を見にいった。おまえさまは、そこから城の外を見下ろすのが好きだったから。そこでおまえさまを見つけた。血まみれで。ぐったりとして。深々と剣の刺さったおまえさまを」
そう話すいする美の目は、ここではないどこかを見ていた。多分、石動も同じものを見ていたのだと思う。ゲームセンターで一瞬浮かんだ記憶と符合する。白亜の塔。テラスの柵に腕をもたれて、眼下を見下ろす自分ではない自分。黄泉での王。
自分は、あの場所で死んだのだ。何者かに殺されて。
「犯人は?」
いする美は、無言で首を振る。
「誰も。王の住む部屋に入れる人間は限られていました。でも、我々には、神としての権能がありますから。展望台からの侵入も不可能ではなかったでしょう。でも、そんなことはありえません。経路は問題にはならないんです。おまえさまが殺されるなんて。だって、黄泉の世界でおまえさまに敵うほどの力を持った者なんていないのですから。私にだって、無理です。それは誰にとっても不可能なことだったはずです」
「……。どうして話してくれなかったの」
何故、そんな大事なことを今まで黙っていたのか。それを事前に知っていたら、自分はもっと――もっと? 何ができただろうか。いざ考えだすと、わからなくなる。
隣に座るいする美は、薄く笑う。
「……。私にとって、あまり楽しい話ではないですから。いいえ、あまりではなく、大いに。どう語れというのです? 私は――私の――あの、腕の中で冷たくなっていくおまえさまの感覚を、地に広がっていくおまえさまの血を、どんな顔で」
「いする美」
喋りながらも、彼女の唇はわなないていた。
石動は、彼女の瞳にたまる涙をぬぐおうとした。が、できなかった。伸ばした手をとられ、強引に引き寄せられたからだ。気付いた時には、抱きしめられていた。
朝の校庭、渡り廊下の隅、自販機の陰に隠れるようにして、壁にうずくまって座る二人の身体が重なる。
不自然な体勢となった石動は、とっさに彼女の腕を引きはがそうとする。けれど、できない。いやいやするように、首の横で彼女の頭が震えるのがわかる。
抱きしめられる。強く。
この細い体のどこにこれほどの熱量が眠っていたのだろうと思った。
「いする美?」
「どうして。どうして死んでしまったの。おまえさま。私を残して。約束したのに。ずっと。ずっと一緒にいてくれると。信じていたのに。どうして」
しゃくりあげるように彼女は言う。
いする美。常に自分勝手で、一連の事件の中心人物で、道玄坂家に突如飛び込んできた台風の目。自分のエゴに肯定的で、でもその裏には彼女なりの覚悟があって、堂々と胸を張っていた彼女。ぎこちなくあざとく、妙なところで恥ずかしがる。石動の妻を自称する、違う世界の女の子。
でも、その女の子は、石動の中でこんなふうに泣く。こんなふうに嗚咽を漏らす。
じくり、と胸が痛んだ。
彼女が自分の名を呼ぶたびに、彼女が離れていくように思えて嫌だった。彼女が語る「おまえさま」は自分ではない。抱きしめられる力が強ければ強いほど、その事実を切なく感じる。
同時に、黄泉での半身に対する憤りも。
残した負債がどうこうどころの話ではない。
彼を殺したのが誰で、最強の称号を冠した彼が何故死んだかもしらない。
石動は、もうひとりの自分自身について何も知らない。
石動は彼よりも全然弱くて、今腕の中で泣く少女の想い人は、自分ではない。
それでも、と石動はもう一人の自分に向けて思う。
(それでも――おまえは、死ぬべきじゃなかったよ)
「いする美」
石動は、いする美の背中をぽんと叩いた。赤ん坊をあやすように、何度も。そうしていくと、腕の中の少女は、どんどん幼くなっていくように感じる。
「俺は死なないよ。ここにいる。生きてるんだ。だから、離して。行かなくちゃ。早く終わらせて戻ってくるよ。そして、また一緒に帰ろう」
「本当ですか?」
「黄泉の俺がどうだったかは知らないけれど。もし、あっちの俺が君との約束を守らなかったというなら、君に一番ついちゃいけない嘘をついたというなら、俺は嘘をつかない石動になるよ。君を悲しませるようなことはしない。部活の先輩に会うくらいは許してほしいけれど」
「……。それは承服できかねますね」
くすり、といする美が小さく笑った気配がした。
強く抱きしめられていた彼女の腕がほどけ、彼女の頭部が自分の肩から去っていく。自分からどいてほしいと言ったのに、いざ彼女の体温が遠のくと、少しさびしく思う。
手を引いて彼女を立たせる。
目の端を赤くして、いする美は少し照れたように微笑んでいた。
「早く戻ってきてくださいね。身体が冷え切ってしまいますから」
「わかってる。……ああ、ちょっと待って」
石動は、すぐそばにある自動販売機の前に立って、硬貨を投入した。下段にある『あたたか~い』のボタンの中からおしるこ缶を選ぶ。いする美が違和感なく飲めそうな飲料が、それしかなかった。
出てきた細長のスチール缶を、はい、といする美に手渡す。
反射的に受け取ったいする美は、思いの他温度が高かったのだろう、小さく「あつっ」と叫び、慌てて袖を使って持ち直す。そのさまが、少し可愛かった。
「……。おまえさま、これは?」
「温かいでしょ。待っている間、飲んでいるといいよ」
「飲み物なのですか? でも、どこから開ければ……」
底をひっくりかえしたり、横から眺めたり。
その所作に、思わず笑ってしまう。こういうところは、やはり黄泉の国のお姫様なのだ。
「そうだね。宿題にしよう。待ってる間、どう開けるか考えてみて。わからなかったから、カイロがわりに抱いてればいいから」
「わかりました。その。あまり自信はないですが」
宿題を片付けていこう。解決しなければいけない問題が多すぎるから、こうして積みあがっていく。ひとつひとつ、紐解いていくしかない。当座は、目の前のことと向き合わなければ。
行ってくるね――石動は、そう言って、渡り廊下から続くB棟の扉を開いた。




