「おまえさま、学校に行かれるのですか」
「おまえさま、学校に行かれるのですか」
朝、玄関を出ようとしたところを、いする美に見つかった。久霧の方は、起こさずにベッドから抜け出すことができたのに(いする美が来てからというもの、ベッドに妹が忍び込んでくるのは通例となりつつあった)。油断していた。
時刻は、初めていする美の味噌汁を飲んだあの朝よりも更に早く、まだ五時を過ぎたばかり。今日も朝餉の準備をしてくれていたらしい。廊下を歩くいする美は、あの日と同じ割烹着姿だった。
いや、正確にいえば、そのいでたちにはいささか差異があったのだが。
「その上から割烹着なんだ」
いする美の着ている服は、昨日と変わらない。石動の買ってやった森系ファッションだ。ただ、そのふわふわ増し増しの服装の上に割烹着がかぶさると、どうにもちぐはぐな印象をおぼえてしまう。
決して似合っていないわけではない。そのちぐはぐさが、かえって可愛くも感じる。
が、素直にエプロンをつけたらいいのにと思わなくもないのも、事実だ。
「変ですか」
「いや。着替えないのかなと思って。他にも服何着か買ったでしょう?」
「ようふくというのは、毎日着替えるものなのですか」
「え? ああ、そうか」
和服に慣れていると、そういうことになるのか。文化の違いを感じる。
いする美が、うれしそうに笑った。
「はぐらかしましたね? 今わかりましたよ」
こちらの考えを読み取れたことの、何がそんなに楽しいのか。石動にはよくわからない。
「しばらく学校には行かないとおっしゃっていたのに」
「授業には出ないよ。ただ、部室に顔を出すだけ」
「『せんぱい』に会いに?」
「まだ謝っていないんだ」
畳ヶ崎とは、保健室に彼女を連れていって以降、会っていない。メールアドレスも、LINEも交換していないから、本当にそれが最後だ。さすがにあそこまで巻き込んでおいて、詫びの一言もなしというのは気が引けた。
それに、彼女には相談したいこともあった。
ふうん、といする美の探るような視線が、石動を覗きこむ。
「少々お待ちを」
ぱたぱたと、割烹着IN森系ファッションの背中が、リビングの向こうへと消えていく。また、弁当でも持たせてくれるのだろうか。部室に顔を出した後はすぐに帰るつもりだから、それほど荷物も必要ないのだが。
「お待たせしました」
数分ののち、再びぱたぱたと戻ってきたいする美は、割烹着を着ていなかった。
どころか、服も変わっていた。
今日は、シックなブラウスに紺のロングスカートをシンプルに合わせている。それと、朝の肌寒さへの対策として、上にゆるゆるカーディガン。これも昨日一緒に購入した服の一部だった。頭には、やはり昨日石動が買い与えた帽子もかぶっている。
良いセンスだ。
わずか数日で、いする美は驚くほど現世の感覚を身に着けつつある。
「って、ついてくる気なの?」
「はい。かまわないでしょう? おまえさまは、部室とやらにちょっと顔を出すくらいだというのですし。なんとなれば、建物の前で待っているのでもかまいません。とにかく、少しでもおそばに」
「なんで、そんな」
昨日、鈴売の話を聞いた時に思ったことが、頭をよぎる。
すなわち、いする美は石動を守るためにここにいるのではないか――という疑念。
「お気づきになられませんか」
いする美の言葉にぎくりとする。内心を読まれただろうか。しかし、その心配は杞憂だったらしい。いする美は少し拗ねたように口を尖らした。
「他の女に会いに行くなんて。妻にとって聞いていてうれしい話だと思われますか」
「……そういう意味か」
「どういう意味だと?」
「先輩と俺はそういう関係じゃないよ」
「どういう関係であっても、同じことです。私が嫌なのですから。私がついていきたいのですから。ダメですか?」
こうと言ったらいする美は聞かない――そういったのは鈴売だった。でも、石動が強い口調で命令すれば、聞くような気もする。多分、自分はそれができる唯一の人間なのだ。ついてくるなということもできただろう。
「わかった。おいで、いする美」
でも、実際に石動の口から出たのは了承の言葉だった。あまつさえ、彼女に対して腕を差し出していた。いする美が、うれしそうに石動の腕に自らの腕を絡めてくる。
「朝デート、ですね」
昨日は『逢引』と言った唇が、忍び笑いと共に今日はそんなことを、耳元で囁く。
毒されてきているのかな――と石動は思いつつ、悪い気分ではなかった。




