「女のにおいがする」
「女のにおいがする」
夕方、帰ってきた久霧は、リビングに入るなり、そう言った。両手にスーパーの買い物袋を提げたまま、石動に詰め寄ってくる。
「気のせいじゃないかな」
「……。言い直す。私じゃなくて、兄貴でもないにおいがする。増えてる。ねえ、どういうことなの? LINEにも全然反応くれなかったし。まさかと思うけど。私がいない間に、私に言えないような、やましいことをやってたりしないよね? あと、その首の包帯は何?」
「何を言って」
兄の言葉を待たず、久霧は買い物袋を床に置き、ソファの座面にてのひらを当てる。そのまま、目算三十センチ間隔で横にずらして、ぽすぽすとてのひらを当てていく。
「湿ってない」
「何を確認してるの」
「くずかごのゴミも増えてないし、ティッシュも減ってない。取り越し苦労だったみたい」
「だから、何を確認してるの」
突如始まった妹の抜き打ちチェックに、石動は脱力する。
そういえば、部室で話した時、畳ヶ崎も言っていた。「久霧ちゃんがいなければ、君達はとっくに昨夜そういう事態になっていただろうよ」と。どうも石動の周囲の女性陣は、いかに石動が紳士であるかをあまり信じてくれていないらしい。
「それで、あの電波女は?」
「風呂場だよ。服を洗ってる。洗濯機の使い方がわからないからって、手洗いで」
ボタンを押すだけだと何度も言ったのだが。どうも、放っておけば勝手に洗濯されるというイメージが湧かないらしい。ユーフォ―キャッチャーは知っていたのに。
「はっ。ばっかみたい」
吐き捨てるように言う久霧。
「でも、あいつがいないならチャンスだね。着替えたら、さっさと夕飯作っちゃうから。兄貴、悪いけど、私が二階に行っている間、リビングの入り口見張ってて。あの女、通しちゃダメだからね」
「あ、久霧――」
言うや早く、ぱたぱたと久霧はリビングを飛び出していった。もとからそんなに落ち着きのある子というわけではなかったが、いする美が来てからというもの、慌ただしさに磨きがかかっているような気がする。
「元気な妹さんですね」
ソファから声がした。
久霧が調べてくれたのが座面側でよかった。たとえば、床に頬をつけ、横から覗きこまれていたら、ひょっとしてばれていたかもしれない。
ぼこぼこと。
ソファの下から、腐臭が漏れる。果実が腐ったような甘ったるい匂いだった。同時に床にどろどろした――ペースト状の柿みたいな――液体が広がる。その液にからまって、ひじきの群体が蠢いていた。それがだんだんと積み上がり、人の形を成していく。
鈴売だった。
どういう原理か、ちゃんと服も着ている。あいかわらずサイズの合っていないちぐはぐな黒づくめだったが。
「君は自由に姿を変えられるんだね」
「別に、私が特別というわけではありませんけれど。ただ、いする美さまは、王の前では、人の形でありたいのでしょう。なにせ、初代イザナミさまとイザナギさまの仲たがいの原因は、そこなのですから」
独り身の私にはわからない苦労ですが、と鈴売は気のないふうに言う。
あの後、すぐ久霧が帰ってきたものだから、鈴売にはひとまず隠れてもらった。ただでさえ妹はいする美の存在を快く思っていない。この上、更にややこしい存在が増えたとあっては、とりなせる自信がなかった。
ちなみに、いする美が洗濯をしているのは本当だった。ゲームセンターの一件で汚れた石動の服を洗ってもらっている。彼女も、妹と積極的に顔を合わせたいわけではないらしく、石動が服を脱ぎ与えると、うれしそうに顔を埋めて、風呂場の方に去っていった。
「まだ隠れていた方がいいよ。多分、すぐ戻ってくるから」
「一言お礼を言おうと思ったのです」
「お礼?」
「先ほど、たまわったご温情についてです。まことに、ありがとうございます」
何のことか一瞬わからなかった。
が、すぐに、先ほどいする美を制止したことへの礼だと気付く。石動が「ストップ」と言わなければ――どれほどいする美が本気だったかはわからないが――鈴売は死んでいた。
でも、それを言うならば、鈴売を許せないと断じたのもまた石動だ。いする美は、石動の言葉を実行したにすぎない。
「俺は何もしてないよ」
卑怯な言い方だった。何もしていないどころか。あの時、眼前の少女の命を握っていたのは、自分であったはずだ。
しかし、鈴売は首を横に振った。
「でも、でも、助け起こしてくれました。涙も拭いてくれました。あの袖は――やわらかく、温かったです」
「鈴売?」
「……今のは、いする美さまには内緒です」
鈴売は己の唇に人差し指を押し当てた。
妙な空気だ。
話題を変えたくて、石動はわざとらしく咳ばらいをする。
「それにしても、本当に鈴売には心当たりがないの」
「先ほどの話ですか」
鈴売は現世に単身やってきたという。一人の供も連れずに。
となれば、あの屋上で石動たちを襲ったひじきは誰だったのかという話になる。
「わかりません。私の知る限り、いする美さまを追って現世にやってきたのは、私だけのはずです。部下たちには待機を命じてきました。でも、黄泉軍どもはとにかく馬鹿ですから。命令を無視して、一匹くらい暴走している子がいたとしても、それほどおかしくは思いません。ただ、あの子たちに、私なしで現世にたどりつけるだけの知恵があれば、という話ですけれど」
「……」
巨大ひじきが巨大ひじきであったことが、また問題をややこしくしている。
鈴売は、黄泉の軍団を束ねる長であり、その鈴売が知らない黄泉軍の個体がいるとは考えにくい。だが、あの不定形の巨体は、あくまでアンカーが不確かな現世での姿なのだ。鈴売の知る、黄泉の国での姿とはかけ離れている。つまり、おいそれと照合できない。
(わからない)
今まで、あの巨大ひじきは、いする美を黄泉に連れ戻すためにやってきた刺客だと思っていた。だが、実際にその役割を担っていたのは鈴売で、彼女は学校を襲撃していないし、そもそも一人でやってきたという。であれば、あのひじきが石動たちを襲った目的は何だ?
気付けば、じっと、鈴売がこちらを見つめてきていた。
「痛みますか」
「ん。いや」
考えをめぐらす内、無意識に手が首へと伸びていたらしい。
巻かれた包帯をさする。いする美の治療が適切だったのだろう。ほとんど痛まない。が、包帯をとれば、そこには眼前の少女に傷つけられた刀傷がなまなましく残っているはずだ。
「……」
すっと、鈴売の頭が深く下がった。
細い黒髪が重力に従い、頭の動きを追従する。露わになったうなじから首の付け根にかけては、やはり折れそうなほどの細さで、浮き上がった骨の形が見て取れるほどだった。
「申し訳ありません。ここまでの非礼、あらためてお詫び申し上げます。でも、誓って言いますが、悪気があったわけではないのですよ。いする美さまにはああ言いましたが、まずもって成功するとは思っていませんでしたから」
「どういうこと?」
「黄泉での王は最強でしたから。あのげーむせんたあでの一戦でも、戦いながら、内心驚いていました。本来であれば、私があなたを追い詰めるなど、できるわけがないのです。殺すつもりで向かいました。でも、本当に殺してしまえそうな状況になるとは思っていませんでした」
やっぱり、と石動の中の冷静な部分が、胸中で首肯している。
(弱いのか、俺は)
もちろん、まだ全ての力を使いこなしているとは、到底言えない。八雷神の中で、自分が自覚的に使ったことがあるのは土雷だけだ。
けれど、ならば全ての八雷神を自由自在に使えた時、自分は鈴売を組み伏せられるのか?
戦術の幅は、本質ではない。きっと、単純に出力が足りないのだ。石動の力は、黄泉の王たるもう一人の自分よりずっと弱い。
「いする美は、俺を最強だと言った。君もだ。でも、実際の俺はそうじゃないみたいだ。足りないのは、何だと思う?」
「お強くなりたいのですか」
「守ると約束したからね」
それに、自衛としての意味もある。毎度、あんなふうに殺されかけていたのでは、文字通り命が持たない。
「いする美から聞いている。黄泉で、俺と君は、よく手合わせをしていたらしいね。何でもいいんだ。黄泉で生きていた頃の俺と、今の俺と、戦い方に何か差はないかな?」
「そんなことは自明かと思いますが」
「君にとって自明なことがね。いつも俺にとって自明とは限らないんだよ」
薄々気付いていたが、どうも、この子は、自分と他人の常識の違いに、あまり頓着しない性格らしい。
こんなやさしい、教え諭すような喋り方、久霧にだってもう何年もしていない。
しかし、そんな石動の思いとはうらはらに、鈴売の目は再び宙に泳ぎだす。
「怒ってますか。あなたは、私を怒ってますか」
「怒ってないよ」
辛抱強く言う。ここで泣かれたら、面倒だった。
「ただ、俺には、黄泉で暮らしていた頃の記憶がないんだ。だから、俺は鈴売の常識がわからないんだ。俺に教えてくれるかな。鈴売――鈴売ちゃん」
「記憶がない?」
「何にもね」
「そう、それで――」
石動の耳は、鈴売の小さな呟きを正確に捉えていた。
「何故剣を使わないのかと思っていたのです」
「剣? 黄泉での俺は、剣を使っていたの?」
「少なくとも、私と手合わせしてくださる時は、いつも。ただ、剣は王の死と共に失われたと聞きました。てっきり、現世のあなたがお持ちかと思っていたのですが」
「剣を――」
初耳だった。いや、初感触だった。石動の記憶と実感の中には、自分が剣を握っているシーンはない。
が、それほど意外にも感じない。
たとえば、朝、家を出る時どちらの足から踏み出したか?という問いのようなものだ。右足から踏み出したと言われればそんな気もするし、いや左足からだと言われればそんな気もする。石動の足は二本しかないのだから。どちらもありうる。
自分が黄泉で剣を握っていたか否かについても、同じだ。持っていた自分、いなかった自分、同じ程度にしっくりくる。
己のてのひらを見る。この手は、八雷神を放つと同時に、剣の柄を握る手だったのだろうか。
(剣がないから、俺は弱い?)
剣があれば――そうすれば、自分は、かつての半身に追いつけるのだろうか。全ての負債を自分に押し付けていった、いけ好かないもう一人の自分に。
「だとすれば、その剣はどこに行ったんだろう。何故なくなったんだろう」
「知りません。鈴売のあずかり知らぬところです。でも、そうですね」
鈴売は顎に手を当てて、考え込むしぐさをする。
「もしかして王を殺した下手人が持っていったのかもしれませんね」
「え?」
思わず、聞き返してしまった。
今、彼女は何と言った?
王を殺した下手人。そう聞こえた。
「ごめん。もう一回いいかな」
「ですから。王の死と共に剣が消えて、あなた自身も剣を持っていないというのであれば。それは王を殺した下手人が持っていったのかもしれませんね――そう言ったんです」
「待って。待って。待って」
いけない。混乱している。
王を殺した下手人――その意味は、明らかだ。けれど、おかしいではないか。そんな話、あの黄泉のお姫様が一度でも話題にあげたことがあったか? つじつまが合わない。今までの前提が崩れていく。
だって、そうなると話が違ってくるではないか。
いする美を守るという意味が変わってくるではないか。
いや、そもそも自分は本当に彼女を守っているのか?
逆なのではないか。その話が本当なら、鈴売の言葉が全て事実なら。いする美は石動を守るためにここにいるということにはならないか?
「俺は。俺は殺されたの?」
鈴売は、やはりきょとんと首傾げて言う。きっと、彼女にとっては自明の事実なのだろう。
「いする美さまから聞いていませんか?」




