こぽこぽこぽ。
こぽこぽこぽ。
いする美が急須にお湯を入れる音が、妙に際立って聞こえた。誰も喋るものがいないからだ。リビングを占めていたのは、気まずい沈黙だった。
(なんだろう、この空気)
石動は首に巻かれた包帯を撫でる。
まさか、つい先ほどまで自分を殺しにかかってきた相手と、仲良くテーブルを囲むことになるとは思わなかった。
鈴売は、石動の斜め向かいのソファに座っていた。
二本の細剣をたくみに操っていた両手は、今は膝の上。その拳を、時々、居心地悪そうに開いたり握り直したりしている。
石動がいする美の手当てを受けている時からずっとそうなのだが、いっこうに喋る気配がない。時折目が合ってもふいと視線をそらされてしまう。いする美もいする美で、彼女に話しかける素振りがないので、石動もなんとなく話を切り出しにくかった。
結果、誰も喋らない状況が続いている。
あのゲームセンターでの一戦は、いする美の登場と共に、終幕を迎えた。
あとは、ほとんど彼女の独壇場だった。言われるままに、石動は、彼女に肩を借りて家路についた。同じく言われるまま、鈴売も、項垂れながらその後をついてきた。どうするつもりだろうと思ったが、そのまま、あっさり鈴売を家にあげてしまったのには驚いた。
(増えてしまった)
狭いわけではないが、さして広くもない一軒家に、黄泉の住人を自称する女性が二人もいる。久霧がまだ学校から帰ってきていなくて助かった。いたら、衝突は避けられなかったろう。
「はい、おまえさま」
「あ、うん」
湯呑を受け取る。
いする美は、そのまま石動の隣に腰を下ろし、自らもお茶をすすった。
テーブルの上に出されているのは、石動といする美の湯呑が計二つ。肝心な客人の分がなかった。そして、隣には、やたらにこにこしているいする美がいる。その笑顔がかえって不安を誘った。
出されない湯呑。
やたら笑顔のいする美。
気まずい沈黙。
それぞれは単体ならなんということのない些末なワンピースにすぎないが、蓄積すれば、一つの回答を導き出す。
ひょっとして、いする美さん。ちょっと、おこだったりしますか?
「……。謝りませんよ、私は」
ぼそりと、声が漏れる。鈴売のものだった。目をそらし、額にはうっすらと汗がにじむ。
にっこり、といする美が言った。
笑ったのではない。わざわざ声に出して、にっこりと口で言ったのだ。斬新な追い詰め方だった。傍で聞いている石動まで、心臓が締め付けられる気がする。
「私は、まだ何も言ってませんけれど?」
「……。謝りません。謝りませんから。大体、謝るべきなのは、道理からいえば、いする美さまの方ではないですか。黄泉の国を放って、現世にやってくるなんて。我々がどれだけ心配したか。おかげで、向こうの世界はてんやわんやです。私はあなたを連れ帰りにきたのですよ? お叱り申しあげる立場なのですよ? だのに、どうして、私の方がこのように糾弾されねばならないのです」
「そういう話をしているのではありませんよ、鈴売」
例によって、欠片も悪びれる様子を見せず。いする美は、平然と、鈴売の正論を切り捨てる。
「道理なんて。そんなものは、どうでもいいことではありませんか。私は、私の怒るべきことを怒っているにすぎません。おまえは、私の夫を殺そうとした。私の逆鱗に触れた。私が怒る理由は、それで充分。そうでしょう?」
「違うのです」
「違うのですか?」
「あ、いえ、そういう意味では、違わないのですが」
「どちらです」
にっこり、と口で言ういする美。
だから、怖いって――と石動は声に出さずに呟く。
あたふたと、鈴売は、目に見えて慌てる。
「そ、その。おっしゃるとおり、私はそこにいる王――現世での名は石動というそうですね――を殺そうとしました。でも、それはなにも、考えなしにとった行動ではないのです。たしかに、私の役目はいする美さまを黄泉に連れ戻すことで、そのためには現世の王は邪魔な存在ですが。それならそれで、いする美さまが一人でいる時を狙えばよい話。違うのです。わざわざ王を襲ったのは、それ自体に目的があったからです」
「……」
「あの、いする美さま?」
怖々とした様子で鈴売が言う。まるで、体にダイナマイトを縛り付けられた状態で、導火線の長さを確認しながら喋っているみたいだった。
対して、いする美は、気のないふうに茶をすする。
「続けて」
「……。はい。つまり、てっとりばやく済ませようと思ったのです。いする美さまはこうと言ったら聞かないおかた。仮に一人でいるところを狙って、黄泉にお戻りくださいと私が進言したところで、一度再会した王のもとをそう簡単に離れるとは思えません。であれば、いっそのこと、王ごと黄泉にお連れしようかと」
「ってことは――」
いする美と鈴売の顔がいっせいにこちらを向いた。
本当は口を挟むつもりもなかったのだが。鈴売の言わんとしていることが理解できてしまい、つい我慢できずに口を出してしまった。
「あ、ごめん」
「いえ、おまえさま、どうぞ何なりと」
「じゃあ――ええと、つまり鈴売さん、君は俺を殺すことで俺の現世での楔を引き抜こうとしたんだね」
「御名答です」
いする美と出会った日、彼女が説明してくれたことだ。現世と黄泉は流れる一本の川のようなものだと。そして、肉体は岸辺に打ち込まれたアンカーのようなものだと。
現世で死んだ人は、川をくだり、次の世界である黄泉へと至る。
だから、鈴売は石動を殺そうとした。
正確には、黄泉に連れ戻そうとした。肉体がなくなれば、人は黄泉に流れ着く。石動が再び黄泉の住人となれば、いする美が現世に留まる理由もなくなる。将を射んとすれば、まずは馬からというわけだ。
「説得して黄泉の食べ物を食べてもらうより、話が早いと思ったのです」
「いや、そんな理由で殺される側は、たまったものじゃないんだけど」
「何故です? 現世など、所詮借宿ではありませんか。別に死ぬわけじゃなし」
「死ぬって。思いっきり死ぬ」
鈴売は、きょとんと首を傾げる。
――私たちとは世界が違う。感覚が違うんだよ。人の死なんて、なんとも思ってないのかも。
(なるほど、こういうことか)
今朝の妹の台詞が思い出される。
とぼけているわけではないのだろう。彼女にとって、現世での死は、まさしくアンカーを岸から引き抜く行為――下流の黄泉へ至る移動手段でしかないのだ。きっと、彼女の恐れる死は、あくまで自分にとっての現世、つまり黄泉で訪れる死だけなのだろう。
人の死に全く無関心というわけではない。
ただ、死に対する感覚が一階層ずれている。
もちろん、そんなことで殺されてはたまったものではないのだが――などと思っていると、隣で、いする美が溜息をつく。
「鈴売。おまえ、馬鹿ですか」
「と、と、申しますと」
鈴売の目が、うろうろと落ち着きなく左右に揺れる。
これは、石動のかわりに鈴売をとりなしてくれる流れだろうか。ちょっと期待する。
しかし、いする美の台詞は、石動の予想を超えていた。
「そんなこと、私が考えつかないとお思いですか。とっくに考慮済みです」
「考えたことがあるの!?」
しれっとカミングアウトされ、石動の方がおののいてしまう。「あなたの殺人計画を練っていたことがあるんですよ」なんて。デートした相手から、そんな告白を受ける男がどこにいるだろうか。ここにいた。混乱している。
「落ち着いて、おまえさま。実際に、私がおまえさまに危害を加えようとしたことが、今まで一度でもありましたか?」
「それは……そうだけど」
間接的な危害だったら、たくさんこうむっているのだが。それは言わないでおくことにした。
「そもそも、無理がありすぎるんです。現世でのおまえさまは、半身だけの存在。つまり、肉体自体がとても不確かなんです。そんな状態で、寄る辺をなくしたら……。本当にきちんと黄泉に流れ着けるのか、わかったものではありません」
重量が半分に減った舟のようなものです、といする美は続けた。
普通の船なら、現世の次の停留先は黄泉になるだろう。でも、軽い舟はその分だけ川の流れに乗り、スピードが出てしまう。結果、次の停留先である黄泉を無視して、もっと下流へ行ってしまうのでは? そういう懸念だ。
なるほど、一理ある。一理あるとは思うのだが。別の部分が気になって仕方ない。
「その言い方だと『きちんと黄泉にたどりつけるのなら殺していた』と言っているように聞こえるんだけど」
「いやです、おまえさま。そんな大きな声で。恥ずかしい」
「どこ!? 今の会話のどこに恥ずかしがるポイントがあったの!?」
あいかわらず、恥じらうツボがどこにあるのか全然わからない――などと思っていたら、彼女の口から、ちろりと可愛らしい舌が漏れた。
「冗談です」
「……なんだ」
「私がおまえさまを手にかけるなんて。たとえ、その死が現世だけでのことであっても、私、堪えられる自信がありません。腕の中で冷たくなっていくあの感覚をもう一度味わうだなんて――想像したくもないことです」
静かだが、はっきりとした口調だった。
そうだ。ごく普通に石動を「おまえさま」と呼んでくれるから、失念しがちだが。彼女は未亡人。夫との死別を経験している女性なのだ。
彼女の怒りの構造がわかった気がした。
鈴売は、未亡人たるいする美に、二度目の夫との死別を体験させようとしたのだ。だからこそ、彼女は怒っている。
いっそやさしげな口調で、いする美は、黄泉から自分を追ってきた従者に声をかける。
「鈴売。おまえは浅はかなことをしましたね。たとえ、現世のことだろうと、私の夫を殺そうとした者を私は許さない。おまえは、私のことを、こうと言ったら聞かない女だと言いました。なら、この言葉が私の真意であることがわかるでしょう。――その罪、万死に値します」
「ひっ」
とっさに身をよじろうとしたのだろう。手が滑り、鈴売の体が、転げるようにソファからずり落ちる。
「お許しを。何卒、お許しを」
「頭を下げる相手が違うでしょう?」
楽しげに見える笑みを浮かべながら、いする美の目がこちらを向く。
突然水を向けられて、戸惑う。
「俺?」
「襲われたのは、おまえさまですから。王はおまえさま。おまえさまこそが、唯一の王。なんなりと処断を。そう思ってこの子をここに連れてきたのです」
「お許しを。お許し。お許しを。どうか」
鈴売の頭がこちらに向けて下げられる。ただでさえ華奢で痩せ細った鈴売のこと、そうやって身を折っていると、いっそう小さく縮んで見える。激しく上下する頭と、そのたびごつごつと床に額が打ち付けられる様は、できの悪いばね仕掛けを見ているようで哀れだった。
お許しを、お許しを。
何度となく下げられる頭をぼんやり見下ろしながら、石動は考える。
どうする。
たしかに、理不尽さは感じる。久霧の忠告どおりだった。黄泉の人間にとって、現世での死なんて大したことではない。それでも、石動にとっては、これが唯一自分の命だ。何の気なしに殺されていたのではたまらない。
でも、不思議だ。一方で、そのことを怖いとは思わない。
意外なほど、冷静な自分がいる。もっと、恐怖が湧き上がるかと思っていた。あるいは、命を危険にさらされた側として当然覚えるべき怒りが。
自分を殺すかもしれない相手と同席しているのだ。今まで一緒に楽しくお喋りしていた少女の死生観が、自分とは全く異なっていたことを知ったのだ。なのに、その価値観のずれが大きな問題であると感じない。
まるで、自分もかつて同じような価値観を共有していたことがあるような。
ああ、そうか、それなら仕方ないよね――と、石動の感覚は、どこかで納得してしまっている。
(でも)
だから、石動の中で渦巻くこの感情の出どころは、全く別なのだ。
この場にいない少女のことを思った。屋上に追い詰められ、自分の腕の中で震える少女。保健室のベッドで横になる、一学年上の部活の先輩。あれを自分は許せるのか?
決断を口にしようとすると、唇は糊付けされたみたいに重かった。
いする美は万死に値するといった。きっと、そのままの意味だ。いする美のことだ、やるといったら、やるだろう。
つまり、今、自分は一人の人間の生殺与奪権を握っている。
こんなどこにでもある一般住宅のリビングルームで。
(どうする)
大丈夫だ。鈴売自身が言っていたではないか。現世での死は、彼女にとって本当の死ではない。ゲームでいうログアウト程度の話だ。だから、これは大した決断ではない。鈴売が、自分と畳ヶ崎を襲った事実は変わらない。正しいはずだ。その権利があるはずだ。正しくなくては、困る。
「この子は、俺の学校の先輩を、巻き込んだ」
平静を装ったつもりだったのに、漏れ出た声は、自分のものとは思えないほど冷たかった。
「それは、到底許せることじゃない、と思う」
「わかりました。では、殺しましょう」
一瞬の躊躇も見せず、いする美は笑顔で立ち上がった。
ひっ、と鈴売の悲鳴が上がる。
床に腰を落としたまま、テーブルを突き飛ばし、でたらめに後退する。彼女の背中は、あっという間に窓に追い詰められた。それでもなお後ろに下がろうとして、手が硝子を掻き、踵がずるずると床を蹴り続ける。多分、彼女はクレッセント錠の開け方を知らないのだ。だから、こんなもがき方をする。
いする美の方は、何をするでもない。鈴売に向かって、ゆっくりと一歩一歩近づいているだけだ。けれど、それが鈴売にとっては恐ろしいらしい。いする美が一歩進むたびに違った声で泣き叫ぶ。
「お、お待ちを。お待ちください」
「おまえが言ったのですよ。現世での死は大したことではないと。なら、その身で体験してみればよいでしょう」
「お待ちください。違うのです。違うのです」
「また、言いわけですか」
「違うのです。それは私ではありません。私じゃないんです」
――?
なんてことのない言い訳のセリフが、何故だか石動の耳に残った。
(今、この子は何て言った?)
「いする美。ごめん、ちょっとストップ」
「はい、おまえさま」
石動の制止の声に、いする美は素直に立ち止まる。
「違うのです。違います。お許しを。何でも。何でもしますから。お願いします。あああ。許して」
「鈴売さん。今、何て? 鈴売さん」
「悪くない。私じゃない。私じゃないのに。許して。許して。許して」
「ねえ、鈴売――鈴売ちゃん。ほら、落ち着いて。聞くから。話してごらん。素直に話してくれたら、もうこの話はなかったことにするから」
「……。本当ですか?」
体を折り曲げて震える鈴売が、ぐすっと鼻をすすりながら、こちらを見上げる。
「本当だよ。だから、ほら、もう泣かないで」
「……」
「ね?」
「……。はい。話します。鈴売は。話します。なんなりと。話します」
窓にすがりつく鈴売の手を握り、助け起こす。そのあまりの手ごたえのなさに、たたらを踏みそうになる。ほとんど体重らしい体重を感じさせず、まるで宙に腕だけ浮かんでいて、その手を引いたら、勝手に体もついてきたみたいな。なんという軽さだろう。
真正面から見る彼女の顔は、涙でぐしょぐしょだった。なんだか、ひどく幼い子どもを相手にしているみたいだ。服のそでで、その涙を軽くぬぐってやる。
「それで――教えてくれるかな」
「鈴売は。鈴売は、悪くないのです。鈴売は、王のお友達なんて襲っていません。あのゲームセンターが初めてです。鈴売は見ていただけです」
「見ていた?」
「あの屋上で。偶然。手がかりを追っていて。王が力を使ったから、あそこに辿りつけたのです。そこで、初めて王だと気付いたのです。その前は知らなかったのです。だから、鈴売には襲えませんでした。あのどろどろは、多分知らないどろどろです。だって、鈴売は一人で来たんです。だから、鈴売は、あれは誰なんだろうと思いました。鈴売は、悪くないんです。鈴売は、悪くないんです」
彼女の釈明はまだまだ続いたが、途中から石動は聞き流していた。必要なことは既に充分に知れたからだ。
あの巨大ひじきは、鈴売ではなかった。
とすれば、浮上するのはシンプルな問いだ。
では、あれは何者だったのか?




