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 朝一番に、台所でいする美をつかまえる。

 朝一番に、台所でいする美をつかまえる。


(やっぱり、ここにいた)


 流し台の前に立つ彼女を見るのは、まだせいぜい二回目。にもかかわらず、その後ろ姿には、既に「台所の主」然とした風格がただよっていた。

 後ろで髪を束ねているせいで、白いうなじと銀色のほつれ毛が目にまぶしい。


「あ、おまえさま。おはようございます」

「うん、おはよう」


 無難に挨拶を交わしながら、流しの様子を確認する。どうやら朝食の準備はこれからだったらしい。コンロやまな板に使われた形跡はない。これから石動がする提案は、場合によって彼女が作る献立に影響する可能性があったから、タイミング的にちょうどよかった。


「――買い物、ですか?」


 石動の提案に、彼女はかわいらしく小首を傾げる。


「そう。ずっと、うちで暮らすなら、いつまでも母さんのお古ってわけにもいかないかなって」

「そんな。悪いです。ただでさえ居候の身で」

「気にしなくていいよ。軍資金なら確保してあるんだ」


 いする美の普段使い用として、衣類を何着か買い与えること。それが、母から出された唯一の条件だった。あたかも石動が思いついたかのように言うところまで、全て指示どおりだ。軍資金もネット口座に振り込まれ済みである。


 なので、本当に何の心配もないのだが、意外にいする美がねばる。

 居候を決め込む過程はあんなに押せ押せだったのに。変なところで気を遣う娘だ。けれど、決して興味がないわけでもないようで、断りながらも「もっと押してほしい」とでもいうかのような上目遣いを、ちらちらとこちらに向けてくる。女子が抱く服への関心は、黄泉も現世も大差ないらしい。

 落としどころを探るような問答が続くことしばし。


「ど、どうしてもということでしたら、その」


 やがて、いする美は、もごもごと恥ずかしそうにそう言った。

 ちょっと口元がほころんでいるので、最初からこの結論に持っていきたかったのかもしれない。あざとい。あざといが、そのあざとさを仕込んだのも、多分黄泉の自分なのだろう。たどたどしいあざとさ。なんて化学反応だろう。


「おまえさまと二人きりで出かけるということでしたら……」


 そう呟くいする美は、最高にかわいかった。



***



 やっと服を買いにいく話がまとまったと思ったら、そこからがまた長かった。


「ねえ、おまえさま、私おかしくないですか?」

「いいんじゃないかな」

「でも……。やっぱり、どこか変というか」

「似合ってるよ」

「でも」


 リビングの姿見に貼りついたいする美に、動く気配はない。先ほどからずっとである。

 これから服を買いにいくというのに、その()()()()()()()()()()()に、また時間がかかる。なんてパラドックスだろう。女性とは、神秘だ。


 そもそも母の持つ和服が一着しかないので、服の選択で時間をとられているわけではないのだが、帯の結びや、襟元が気になるらしい。さっきから着付けを少し直しては石動に訊き、少し直しては石動に訊きを繰り返している。そのたびに「大丈夫だよ」とか「いいと思うよ」などの言葉をかけているせいで、石動の褒め言葉のレパートリーは、既に枯渇寸前だ。


(九時半、か)


 壁時計を見る。高校では、もう一時間目の授業が始まっている頃合いだろう。


 平日のこの時間をリビングで過ごすのは、なんだか妙な気分だ。

 学校には、病欠の連絡を入れてある。きっと、明日以降も同じ連絡を入れることになるだろう。

 黄泉軍(巨大ひじき)は、またいつ襲ってくるとも知れない。毎度毎度撃退できるとは限らないし、校舎の被害がいつも窓ガラスだけで済む保証もない。なにより、畳ヶ崎のような形で、他の生徒を巻きこむのは絶対に避けたかった。


 当分は、いする美の手ほどきのもと、八雷神の習得に専念するのが正解だろう。教えてくれると、彼女自身が言っていた。いわば、黄泉の王としての修業期間といったところか。漫画の主人公にでもなった気分である。


 もっとも、初日から、いきなりその修業を放っぽりだして、師匠役のいする美ともども、街にくり出そうとしているわけだが。


「なあ、いする美」

「帯、曲がっていますか?」

「じゃなくて。やっぱり通販で買わない?」

「通販?」

「注文すれば、店に行かなくても、勝手に商品を家に届けてくれるサービス――向こうから来てくれるお店があるんだけど」

「それは……おまえさまとのお出かけがなくなるということですか?」

「その。ほら、外で襲われて、もしまわりを巻きこんじゃったらさ」

「無駄ですよ、おまえさま」


 姿見にかかりきりのいする美は、こちらを振り返らない。


「そもそも、学校にいるところを襲われたのでしょう? であれば、室内や室外なんて区別は、本質的に意味をなしません。どんなところだろうと、黄泉軍はやってくるのですから。つまり、街で通行人を巻きこむ可能性があるように、今、この家にいる私達は、隣家の住人たちを無自覚に巻きこんでいるのです。結局、誰かに迷惑はかけるのですよ。だったら、家にこもるのも、外を歩くのも、迷惑をかける相手が変わるだけの話でしょう? どちらも同じ迷惑なら、私はおまえさまと出かけたいです」

「それは……そうかもしれないけれど」


 その迷惑の中心は、いする美自身のはずなのだが。その点について思うところはないのか。


『ねえ、兄貴』


 一人登校する形になった久霧が、出かける間際言った台詞が思い出される。

 兄が休むなら当然自分も――そう主張して聞かない妹を学校に行かせるのは、なかなかに手間だった。が、ただでさえ自分のせいで出席日数が危ういのに、これ以上道連れにするわけにはいかない。心を鬼にして見送った。

 玄関で妹が振り向いた時、彼女の目は、微かに赤く腫れていた。「私の方からちょっと言っておく」と母が言っていたから、早速、昨夜LINEで一戦やりあったのかもしれない。

 その夜更かし明けの泣き兎が、恨めし気に、しかしどこか気遣わしげに石動を見つめていた。


『あの女に、気を許しちゃダメだよ。たしかに、ちょっと美人かもしれないけど。ちょっと甘え方がうまいかもしれないけど。ちょっと兄貴の好みかもしれないけど。所詮はひじき女なんだから』


 どういうこと、とは聞かなかった。久霧の言いたいこともわからなくはなかった。


『あの女の言う通りなら。あの女は黄泉の人間なんでしょ。私たちとは世界が違う。感覚が違うんだよ。人の死なんて、なんとも思ってないのかも。だって、兄貴が大怪我するかもしれなかったのに。あんな態度。私、絶対許せない』


「私をひどい女だと思いますか?」


 頭の中を覗き見されたわけではないだろうが、ちょうどいいタイミングでいする美の声が重なる。


「そこまで言うつもりはないよ」

「別に。胸が痛まないわけではないんですよ。ただ、私の胸の痛みは、きっとおまえさまほどではないのでしょうね。私にとって、現世は、黄泉ーー私にとっての現世に至る前段階でしかないから。どんなに考えても、神と人間は違いすぎて、脆弱なただの人間にそこまで感情移入することはできないから」


 それは、まさしく久霧の言ったとおりで。

 きっと、いする美の素直な気持ちなのだろう。


「けれど、信じてください、私にとって、それはとても歯痒いことなんです」

「そう、なの?」

「だって、それはおまえさまと違うということだから。本当は、わかりたい。おまえさまと並びたい。おまえさまの感じることを、私も同じように感じたい。おまえさまが大切に思うことは、私も同じように思いたい。でも、私の感覚はどこまでいっても黄泉のそれで。この世界をこの世界の目線で見ることができない。これを歯痒いといわず何と言いましょう。でも、きっとこの嘆きですら、おまえさまから見れば少しズレているんです。だって、私が苦しんでいるのは、私がおまえさまの目線に立てないことであって、現世に迷惑をかけることに直接思い悩んでいるわけじゃない。そして、出発点が歪んでいる時点で、私がおまえさまの目線に立てないことはほぼ自明なんです。だって、おまえさまと同じ感覚を持てているのなら、そういう出発点になるはずはないのだから」


 いする美は、悲しそうに目を伏せる。

 文化の違い、価値観の違い、そういったものを埋めるのは、難しい。外国人同士のカップルだってそうなのだから、世界自体が異なる場合の断絶は、どれほどのものだろうか。


「でも、だから軽く聞こえてしまうことは承知の上でいえば、私は、それでもおまえさまを、おまえさまの周囲を、この現世のあれこれを巻き込むことに躊躇しません。だって、私にはおまえさまを諦めることなんてできない。私にとって軽い現世はもちろんのこと、黄泉の世界の一切合財を含めても、絶対おまえさまの方が重い。おまえさまを失わないためなら、どんなことだってやります。馬鹿で我儘な女になります。甘えたことを言います。その結果、おまえさまに嫌われてしまったとしても」

「……」

「その、実際に嫌われてしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方がなくなりますが。嫌われたくはないのですが。気持ちとしては、そういうことです」


 彼女の言っていることは、それほど間違っていない。正しくはないだろう。けれど、間違ってはいない。


 学校を休むことで、石動も既に選んでいる。久霧や畳ヶ崎や一条たちを巻き込まないかわりに、隣家の住人たちを巻き添えにしようとしている。石動のエゴで巻き込む人を選んでいるにもかかわらず、周囲に配慮しているかのような台詞を吐く――これでは、ダブルスタンダードだ。

 では、たとえば久霧や畳ヶ崎や一条を見捨てて、見ず知らずの人間を優先する余地はあるだろうか? 答えはノーだ。世界の違いはあれど、いする美の選択と石動の選択に大きな違いはない。より大切なことに重きを置いているだけ。違うのは、いする美には迷いがないということだ。ひどく真っ直ぐだ。危ういほどに。


 そして、彼女のわがままの発端は、全て石動なのだ。

 彼女は、ただ石動のためだけにここにいて、石動のためだけに世界に迷惑をかけ、石動のためだけに甘えとわがままを貫いている。

 なんだろう。それは。自分はおかしいのかもしれない。変態なのかもしれない。この感覚は普通ではないのかも。でも、そこまで思われているのかと思うと、不覚にも。まったく不覚にも。


 すごく、ぐっとくる。


「おまえさま?」


 帯の角度にようやく納得がいったのか、姿見の前を離れたいする美が、こちらにやってくる。

 その様子に気負ったところはない。

 きっと、この瞬間石動が何を思っていたのかなんて、全然わかっていないに違いない。当然だ。石動自身わかってないくらいなのだから。


「終わったの?」

「はい」


 微笑と共に、くるりと、いする美が目の前で小さく回ってみせる。彼女のターンにあわせて、着物の袖が控えめに広がった。


「どうでしょう?」


 はにかむいする美に、石動は苦笑いするしかない。

 そのシーン自体は一枚の絵のようにさまになっており、賛辞の言葉を送るのにやぶさかではないのだが。

 いかんせん、数分おきに同じ質問を何度も繰り返されてきたぬのだ。正直、ひとつ前の彼女の「どうでしょう?」とどこがどう違うのか、全く見分けがつかなかった。


「……。店に着いたら、多分、試着とかもするんだし。行きの服で、そんなに気合い入れなくても」

「もう。褒めていただきたいのに。似合っておりませんか?」

「いや、似合ってるけど。でも、ここで時間使いすぎると、肝心の店回る時間が短くなっちゃうでしょ? いする美も、どうせお披露目するなら、新しい服がいいんじゃないかな」

「それは――そうですね」


 考えこむように、彼女は言う。


「申し訳ありません。私としたことが。はしゃいでしまって。現世(こちら)で初めてする逢引きでしたので。つい」

「あいびき?」


 とっさに意味のある単語として変換できなかった。

 あいびき。逢引き。つまりは、デートか。


(これは、デート……に入るのかな)


 外で待ち合わせて、遅れてやってくるカノジョの服装にどきりとする――それが石動のイメージする曖昧なデート像だった。しかし、現状はどうか。待ち合わせも何も一緒に家を出るのだし、着ていく服だって出かける前からバレバレだ。異性の身支度を間近で眺め、家から同伴する場合も、デートと呼べるのだろうか? 石動の乏しい知識では判断がつかない。


 でも、逢引きといわれると、途端に意識してしまう。


 家で普通にくつろいでいるだけだったはずの時間が、急に熱を帯びていく。眼前の少女が髪をかきあげるしぐさが、わずかに開けられた唇が、こちらを見下ろす眼差しが、やたら意味ありげに感じる。


 そうか、と思う。


(俺は――今から、いする美とデートするんだ)


「えっと」


 多分、いする美は期待している。

 彼女を満足させるようなうまい言い回しが思いつかなくて、嫌になる。もっとそつなくこなせればいいのに。自分の半身は、どういう言葉で彼女をデートに誘っていたのだろうか。

 ようやく口からこぼれた言葉は、凡庸を極めた。


「じゃあ――逢引きしようか、いする美」

「はい、おまえさま」


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