(いする美?)
(いする美?)
まず、そう思った。
床に散乱する窓の破片の中で、不意の闖入者が蠢いている。黒い体表がてらてらと光り、粘性の糸を引く。いくつもの触手が煽動し、腐臭を放つ。その異貌にぴったりくる表現を、既に石動は知っている。
コールタールをかぶった巨大ひじき。
狭い準備室の幅をほぼ占領し、ぎちぎちと触手で床を掻いている。その様相は、まるで不慣れな地面で足場を確保しようとする蜘蛛のようだった。そういう連想の仕方をしてしまったという事実が、ひじきの動きの意味するところを、石動に教えてくれていた。
つまり、それは立とうとしているのだ。
こいつ――動けるのか。
(いする美、じゃないのか)
石動が橋脚の下で出会った彼女とは、動きも大きさも全く違う。
「し、石動君、石動君、石動君、石動君、石動君……」
腕の中で、がちがちと畳ヶ崎が歯の根を鳴らす。その意味のない呼び声が、石動にとるべき行動を促す。
「先輩、こっちへ」
「あああ」
――ふしゅるるるるるるるるっ。
その時、無様にのたうっていたひじきの触手が、ついに床面と噛み合う。
立ち上がった――と思った瞬間には、既に視界の全てを覆って、泡立つコールタールが鼻の先にあった。
跳躍んだ。
だが、届かない。
びちびちびちっ――と辺りに、粘状の液体をまき散らして、蜘蛛めいたそいつの腹が、準備室を横たわる長机に叩きつけられた。
体が大きすぎて、つかえたのだ。
この備品の存在がなければ、今の一跳びで、石動たちは得体の知れないコールタールの腹の中だったろう。
しかし、ひじきの触手は、すぐに長机の端を掴みだす。
体勢を立て直すのが早い。
「このっ」
石動は、畳ヶ崎を抱きかかえたまま、机を思い切り蹴り飛ばした。
パイプ椅子が倒れ、プリント用紙や油性ペンと共に、巨大ひじきが机上を滑り落ちる――その様子を最後まで見ることなく、石動は肩で扉をこじ開けるようにして、準備室の外へと躍り出る。
いきおいあまって、廊下の床に肩から落ちた。全く受け身のとれない純度百パーセントの痛みと衝撃が襲う。リノリウムの床にダイブする経験なんて、ラグビー選手にだってないに違いない。畳ヶ崎を離さずに済んだだけでも、僥倖といえた。
痛みにもだえる暇もなく、石動は立ち上がる。結果的に、畳ヶ崎を投げ出す形になってしまったが、この場は許してもらいたい。準備室の扉を素早く閉めてしまう。
「っ、先輩、鍵をっ」
「え、あ、う」
石動は、完全に扉を封鎖するべく、畳ヶ崎に施錠の手段を求める。が、対する彼女の反応は鈍かった。無理もない。こんな状況でまともな反応など望むべくもないのだ。
けれど、扉の向こうの相手は、こちらの混乱に手心をくわえてくれたりはしないだろう。
とにかく動かなければ。
あのひじきの跳躍力。
ドアレールに並べられただけの引き戸が、いつまでももつとは思えない。
ただ、幸運だったのは、準備室は校舎の一番端の部屋だということだ。
つまりは、廊下の端。
引き戸から横に視線を逸らすと、石動の目が非常口の表示に出会った。
重量感のあるスチール製の扉。
その向こうに何があるのかは知っている。――非常階段だ。
「先輩、立って」
「あ、え?」
「畳ヶ崎っ」
倒れていた彼女の体がびくっと震えた。のろのろと起き上がろうとする。その動きは、とても迅速とは言い難かったが、これでいい。その手を握り、石動が強引に助け起こす。全く動けない相手と、手を引けば歩いてくれる相手では、雲泥の差だ。
固いノブを開け、二人で非常口の向こうへ。
背後で引き戸が吹き飛ぶ轟音を聴いたのは、やはりほぼ同時のことだった。




