準備室を出たのは、石動の方が早かった。
準備室を出たのは、石動の方が早かった。
畳ヶ崎はもう少し残るというから、鍵の始末は任せる。
随分話し込んでしまった。
スマホに表示されるアナログ時計の針は、まだ八時を回っていなかったが、石動は廊下を急ぐ。じき、他の生徒たちも登校しだす時間だ。一条が来れば、昨日のひじき騒動について報告を求められるだろう。鉢合わせる前に、うまい言い訳の台詞を考えておく必要があった。
『君の体験には、いくつか前提として認めていい部分がある』
脳裏には、先ほど畳ヶ崎に言われた台詞がまだ貼りついている。
『科学的な立証には足りないけれど。君の心証がそれを信じているからね。オカルト研究の醍醐味って奴さ。圧倒的なソース不足の中、心証と実証を上手に使い分けて、なるべく確度の高い類推を組み立てる』
『まず、ひとつだ。彼女が人間ではない点について。この点は、君が異形としての姿を目撃しているね。それに、発端を疑いだしたら、始まらない。よって、真』
『次に、彼女が黄泉の住人だという話。これも、まあ、信じてみていいだろう。君は、事故の際、真っ暗な世界で幼い彼女と出会っている。俗っぽい言い方をすれば、臨死体験という奴だ。となれば、そこに登場した彼女もまた、何らかの形で死の世界に関わる者なんだろう。夢の少女と、君の押し掛け女房が本当に同一人物か否かについての立証は、省くよ。君には、その確信があるんだろう? なら、証明は不要だ。これも真』
『この感覚論は、君が黄泉の国に置いてきたという半身についても、適用できるね。夢を見ないという君の体質。にもかかわらず、最近突然夢を見始めた不思議。これらについて、君は、彼女の説明であらかた腑に落ちている。ずっとその違和感に名前をつけてくれる人を、君は求めていたんだよ。病院を何件もたらい回しにされた末に、ようやく自分の症状を解明してくれる医師に出会えた患者みたいにね。とすれば、僕がどうこう言う話じゃない。――君は、この四年間、昼と夜を異なる世界で過ごしたんだろうさ。毎晩毎夜、死に続けてきた。そして、向こうの世界に残してきた肉体が死んでしまった。ここまで、真。つまり、ほとんど真だ。君の心証は、既に答えを出している』
『ただ、君はここに来た』
『僕に相談を持ちかけてきた――その意味を僕は正しく理解しているつもりだ。僕が思うに、成されていない証明は、たったひとつだよ。君が悩んでいるというなら、僕は僕の意見を言おう。責任はとれないけれど、君の参考になるのなら、僕にとってもこれは無意味な時間じゃない』
いいかい、とその時、畳ヶ崎は言ったのだ。
『君の心証にも、君の記憶にも、直感にも、既視感にさえも、君が黄泉の世界で王だったことを肯定する材料がない』
『仮に、ここに至るまでのその子の言葉が全て正しかったとしよう。でも、君が王である証明にはならない。なるほど、君と彼女が死者の世界で夫婦だった点を信じてみる。けれど、その地での君は、田舎の農夫だったかもしれない。彼女も畑を耕す村娘だったかもしれない。一、黄泉の国で暮らしていた。二、半身が死んだ。三、だから女房が追いかけてきた。君の確信はここまでだ』
『それこそが現状の課題だよ。君は本当に、黄泉を総べる強大な王だったのか? 君が異界の果実を食べることで受肉たという神性を、どう証明するのか? この一点だけが、君の確信がないせいで、彼女の証言だけに頼ってしまっている。この点において、君は彼女の言葉に嘘の可能性を感じている。だが、もしここが嘘だとすると、彼女の証言全体の信憑性が怪しくなってくる。だから、君は彼女の話のほとんどに確信を抱いているというのに、同時に信じきれない』
『いいかい、オカルト研究は、必ずしも科学者達を納得させなくてもいい。でも、少なくとも自分自身は納得させなければならない。信じる人間がいなくなるからね。逆にいえば、ここさえ君の心証が合意すれば、もう君が彼女を信じない理由はどこにもない。たとえ彼女の言葉がどんなに電波だったとしても、世界中の誰が認めなかったとしてもね』
もやもやしていた気持ちが言葉になってくれたのは、ありがたかった。
そうなのだ。石動にある記憶は、少女と出会った暗がりの世界で終わっている。その後、王として暮らしたという日々を石動は思い出せない。
自分が黄泉の王であったことを立証するためのパズルピース。それさえ揃えば、自分はいする美の言葉を信じてもいい……?
「証明、か」
帰ったら、いする美に訊いてみようか。
意外にあっさり答えてくれるかもしれない。彼女だって、自分の言葉を信じてほしいのだ。何らかの証拠くらい持っていても不思議ではないし、いする美の言葉が本当なら、彼女はそれを持っていてもおかしくない立場のはずだ。何せ、黄泉の国で自分達は夫婦だったのだから――。
「っ」
つい、弾みでその先を考えてしまった。
夫婦ということは、当然、夫婦の営みというものがついてまわるわけで。共同作業。明るい家族計画。知らない間に、自分は、既に大人の階段を踏破済み? 肌色雑誌だって、日々久霧に検閲処分される身分だというのに。
(いかん、いかん)
頭を振って、雑念を追い払う。
今から教室で一条と対峙しなければならないというのに。自分のエロ妄想スイッチまで押してどうする。
昨日の顛末を友人に何と伝えるべきかは、悩ましい問題だった。
正直に説明して信じてもらえるのかという点もそうだったが、それ以上に『裸の少女』という単語が出た時点で、ただの男子高生の妄想話ととられて終わりそうな気がする。そうならないためには、よほどうまく説明するか、よほどうまく誤魔化さなくてならなかったが、それほど口がうまい方ではない石動にとっては、どちらもハードルが高かった。
「あれ?」
考えごとをしていたせいだろう。石動がその違和感に気付いたのは、既に階段を降り終え、もうすぐ教室に着くかというところだった。
左肩が異様に軽い。
それもそのはずで、鞄がなかった。
今朝いする美に直接手渡されたのだから、家に忘れた可能性は皆無だ。となれば、準備室に置いてきてしまったのだろう。
マジか――と思いつつ、石動は仕方なく引き返す。戸締りされた後だと、職員室に鍵を借りに行くのが手間だ。畳ヶ崎がまだ部屋に残っていてくれることを祈った。




