「ふうん。なるほどね」
「ふうん。なるほどね」
埃っぽい準備室の中、畳ヶ崎はおかしそうに笑った。石動の話を聞いているのかいないのか、窓辺に体育座りし、グラウンドを眺めている。そこが定位置なのだ。
パイプ椅子に腰かける石動は、所在無く指を組み直しつつ、部長の次の言葉を待った。
既に、今朝までの顛末をおおむね話し終えている。
橋の下で少女を拾ったこと。
少女が、自分の妻を名乗ったこと。
そして、自分が、黄泉の世界で、王として生きていたらしいこと。
にわかに信じがたい彼女の話が、自分の実感と符号すること――つまり、石動は少女の話を大筋で信じているということ。
「それで? そのいする美嬢は、君が夢を見ることについては、なんて?」
残ったのは、最後のピースだ。
ここから先は、石動自身もまだ整理がついていない話になる。
「……。俺は死んだのだと」
「ああ、うん。そうだよね。死んだから、君は黄泉の世界へたどりついた。そういう話だったね。前提は理解しているつもりだよ」
「そうじゃないんです」
石動は、首を振る。
「黄泉の世界で、俺はもう一度死んだのだと」
いする美は、言っていた。神は、神話が語るほど絶対的な存在ではないと。太古に生きたただの人であると。代々のイザナミがおり、いする美は当代のイザナミ――それは、神も世代交代することを意味している。
つまり、黄泉の世界にも死は存在するということ。
「いする美は、言っていました。受肉っていうのは、現世から黄泉へ、黄泉から更に下流へ、流れる一本の川に打ち付ける楔……アンカーみたいなものだと」
「アンカー?」
石動は、いする美から聞いた受肉のルールを説明する。
いする美によると、現世と黄泉は、流れる一本の川にたとえられるという。上流に現世があり、下流には黄泉がある。そのまま流れに身を任せていれば、人は、どこまでもどこまでも際限なく川を下っていく。
流れに逆らい、体を繋ぎ止めるには、その地に根差さなくてはならない。その地の食べ物を食し、その地に属す必要がある。船を岸辺に留める時、楔を刺すように。
流れの中、岸辺に打ち込む楔――それが受肉。
「黄泉といっても広いらしくて。本当なら、俺は、死者としてもっと黄泉の下流側に流れ着くはずだったそうです。でも、彼女が彼女の桃をあげたから。黄泉の中でも、より上流、より手前に受肉した」
黄泉の下流側が、いわゆる普通の人間が行き着く死後の世界だとするなら、上流は神々の領域だという。
偶然にも、その地に受肉してしまった石動は、いする美と同じ、黄泉を総べる神の一柱としてかの地に留まった。だから、現世に肉体が残った。黄泉の上流ということは、つまり、現世の下流だ。より現世と距離が近い。そのため、現世の楔を失った後も、現実世界に石動の肉体が残った。
「現世での楔を失った俺は黄泉に流れ着いて――」
「――そして、黄泉での肉体にも死が訪れた?」
「そういうこと、らしいです」
「面白いね」
言葉とは裏腹に、畳ヶ崎は笑みを引っ込める。爪を噛み、話を整理するように目を伏せる。
「日本神話において、黄泉は地獄ではないんだよ。死後の裁定は、仏教の概念でね。死者への裁きがないから、裁きの後に訪れる輪廻転生の概念もない。神道において来世といえば、生まれ変わった次の人生ではなく、単純に死後の世界を指す。来世――文字通り、現世の次に来たる世界ということ。つまり、黄泉だ。黄泉の国は、人が死んだ後に向かう次の世界でしかないんだよ」
現世から見た黄泉は、死後の世界で。
黄泉から見た黄泉は、ただの世界。今の世界。現世。
「だから、その意味で、一本の川のたとえは、原理的に正しい。現世と黄泉の違いは、一番目の世界か二番目の世界かという差でしかないからね。上流と下流だ。なるほど、黄泉でも人は死ぬかもしれない。古事記にも日本書紀にも、そんな記述はないけれど、肉体があって、人なのだから、おかしな話ではない。むしろ、自然だ。あくまで一時的な仮宿としての岸辺――ああ、だから、アンカーか。なるほど、なるほど」
「先輩?」
「おっと、失礼」
ついね、畳ヶ崎は笑う。
「整理してみようか」
畳ヶ崎は窓辺から手を伸ばす。ホワイトボードを引き寄せようとしているのだと気付き、畳ヶ﨑の手が届く位置までホワイトボードを押してやる。
「ありがとう」
「……降りて、書けばいいのに」
「窓辺からじゃないと、上まで届かないんだよ。言わせんな」
畳ヶ﨑は、マジックペンで、ボードの上の方に「第一世界=現世」と書いた。
横線を引き、その下に「第二世界=黄泉」と書き、横線を引く。「第二世界=黄泉」の文字の横には、更に「第二・一世界=神々の領域」、「第二・五世界=死者の領域」と書く。更に下には「第三世界=黄泉の者にとっての死後」と書く。そして、全体を縦に貫く矢印を引く。
おおよそ、こんなかんじだ。
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第一世界=現世
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第二世界=黄泉 第二・一世界=神々の領域
↓ ――――――――――――――――――――
↓ 第二・五世界=死者の領域
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第三世界=黄泉の者にとっての死後
↓――――――――――――――――――――――――――――
「君は最初現世、つまり【第一世界】にいた」
畳ヶ﨑は、三つ重ねたマグネットを現世に置く。
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第一世界=現世 ●
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第二世界=黄泉 第二・一世界=神々の領域
↓ ――――――――――――――――――――
↓ 第二・五世界=死者の領域
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第三世界=黄泉の者にとっての死後
↓――――――――――――――――――――――――――――
「小学五年生の時、事故に合い、黄泉である【第二世界】へと下る。本来、死者の領域である【第二・五世界】まで下るはずだったが、その過程で【第二・一世界】で、いする美嬢と出会い、黄泉の桃を食べたことで、ここで受肉。【二・五世界】まで至っていれば、【第一世界】の肉体は完全に死亡するはずだったけれど、手前の【二・一世界】で受肉したせいで、もとの体が腐らず、残る形になった」
マグネットを一つ【第一世界】に残し、あとの二つを【第二・一世界】へ移動する。【第一世界】に残したマグネットに、畳ヶ﨑は「肉体」とペンで書き入れた。
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第一世界=現世 ●肉体
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第二世界=黄泉 第二・一世界=神々の領域 ●
↓ ――――――――――――――――――――
↓ 第二・五世界=死者の領域
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第三世界=黄泉の者にとっての死後
↓――――――――――――――――――――――――――――
「そして、君は四年間仲睦まじく【二・一世界】でいする美嬢と暮らした。この間、【第一世界】の肉体は植物状態だ。久霧ちゃんが病院に日参していた頃だね。合ってる?」
「合ってます」
「ただ、ここで変化が起こる。君がホームシックにかかったからだ。現世の桃を食べ、君は昼間だけの命を手に入れた。昼間というよりは、起きている間はっていう意味だろうけれど、まあ形而上的な昼ってことなんだろうな。とにかく半分だけ君は生き返る」
畳ヶ﨑は、【第二・一世界】に置いた二つのマグネットの内、片方に「昼」、もう片方に「夜」と書き入れる。そして、「昼」のマグネットだけを【第一世界】にある「肉体」のマグネットに重ねた。
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第一世界=現世 ●肉体 ●昼
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第二世界=黄泉 第二・一世界=神々の領域 ●夜
↓ ――――――――――――――――――――
↓ 第二・五世界=死者の領域
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第三世界=黄泉の者にとっての死後
↓――――――――――――――――――――――――――――
「これが四年前の状態。以来、君の意識というか魂的なそれは、昼と夜とでの二重生活を【第一世界】と、【二・一世界】で過ごすことになる。うーん、こうして見ると、奥さんの家と浮気相手の家を行ったり来たりしているクズ夫みたいで、腹立つな……」
「やめてくださいよ。俺には、その記憶はないんですから」
「そうだね、それも重要なポイントだ」
畳ヶ﨑は、マジックペンをくるくると回す。
「昼の君と、夜の君は、それぞれ記憶を共有していない。同じ人間から分化した別々の人間といった方が正しいかもしれない。弾みで魂といったが、これは別の言葉の方がいいだろうな。そもそも日本神話に魂なんて概念は出てこないんだ。その観念も後世のものでね。日本神話における死生観は、どこまでも陸続きで、物質的で、肉体的だ。多分、君ともう一人の君は、何も共有していない。ただ、異なる世界で、重なり合わないように、交代で生き合って、死に合っていた、元が一人の人間であるってだけの他人同士だ」
「……」
「そして、更に四年が経ち、君は死ぬ。【二・一世界】で暮らす『夜』の君の方がね。これが今の状態」
畳ヶ﨑の指が、つうっと「夜」のマグネットを【二・一世界】から下へスライドさせる。【二・五世界】も通りすぎ、【第三世界】へと。
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第一世界=現世 ●肉体 ●昼
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第二世界=黄泉 第二・一世界=神々の領域
↓ ――――――――――――――――――――
↓ 第二・五世界=死者の領域
↓――――――――――――――――――――――――――――
↓第三世界=黄泉の者にとっての死後 ●夜
↓――――――――――――――――――――――――――――
「君が黄泉に置いてきた夜の半身は、川の更に下流へ?」
「そうみたいです」
「そこには何が?」
「わかりません。いする美も知らないそうで」
「死後のことは、生者にはわからない、か。現世の住人が現世の死後を知らないように、黄泉の住人も黄泉の死後についてを知らないわけだ。そこまで相似形とはね」
原因はわからないのだという。
黄泉の水が合わなかったのか。
現世に肉体を残してきたのが悪かったのか。
とにかく、黄泉での石動は、十年足らずで二度目の生を全うした。
死んだのだ。
夫を失ったいする美は、一人きりになった日々を泣いて過ごしたという。語るだけで思い出してしまうのか、睫毛に溜まった涙は決壊を起こしていた。
目の前で、自分自身の死を嘆かれるというのは、石動にとっておそろしく妙な体験だった。だって、石動の主観では、石動はまさに今生きていて、そんな自分を彼女は旦那様と呼んでくれて、なのにその旦那様の死を目の前で嘆かれるのだ。畳ヶ﨑の言葉ではないが、妻に間男の死を悲しまれている夫のような気分もありつつ、自分自身がその間男のような気もしてくる、不思議な感覚だった。
どんなに悲しんでも、死者は戻らない。
それは黄泉の世界でも、現世でも、基本的には同じらしい。基本的に――というのは、なにごとにも例外はあるからだ。たとえば、十年ほど前に、少年と少女が取り交わした異界の桃なども、そのひとつだろう。
黄泉で泣き暮らすいする美が、石動の抱える特殊な事情に思い至るのは、自明のことだった。一度思いついてしまえば、気持ちを止めることなど到底できなかったと、彼女は言った。
そう、死んだのは、石動の半分だけ。
もう半身は、現世で生きている。
会える。もう一度。
「それで、彼女は黄泉の世界から君を追ってきたというのかい」
「はい」
「現世への切符を彼女は持っていた。多分、使ったのは、現世の桃だね? 君が彼女に贈り、四年前、君が半分食べた。半分食べたのなら、半分残っているのが道理だ。彼女は、君を追ってそれを口にした」
「らしいです」
それにより、彼女は現世の存在としての質量を得た。【二・一世界】から【第一世界】へ。上流へ肉体を刺した。あの腐臭を放つひじきは――人型を保てなかったのは、単純に食べた量が足りなかったからだ。しかし、それを石動が補った。あの橋の下で、他ならぬ自分が。
「ふうむ」
「どうでしょうか」
何がどうなのか、言う必要はない。先輩相手なら、これで通じるだろう。
「率直に言うなら……これは随分人を馬鹿にした話じゃないか?」
畳ヶ崎は、少し困ったような表情を浮かべる。
「君の半身は死んだ。そして、今の君は、いわば死んだ君の残りかすだ」
「ちょっと」
残りかすって。
なんてことを言うのか。
言葉のチョイスがひどすぎる。
「だって、彼女にとってはそうだろう? その押し掛け女房さんが求めているのは、多分君じゃない。彼女が愛したのは、あくまで黄泉で過ごしてきた『夜』の半身としての君だ。その本家がダメになったから、代打として『昼』の君にお呼びがかかった。これは、そういう話でしかない。でも、それって、双子の兄が死んだから、今度は弟の方をいただきますみたいな話だろう? だって、君とその『夜』の君は、原理的に別人なんだ。異なる肉体を持つ、異なる人間なんだ。だとしたら、こりゃ、随分最低だと思うぜ」
「……」
そうだろうか、と石動は思う。
確かに、半身の記憶を共有していない石動にとって、もう一人の石動は、主観的には他人と同じだ。けれど、それはあくまで石動の主観であり、客観的には違うのではないか。いする美にとって、自分は、やはり愛した夫なのではないだろうか。
「そりゃね。わかるよ。かつては一人の人間だったかもしれない。実際に昼夜に体を分かつ前の四年間、君とその子は、黄泉で連れ添っていたのかもしれない。こっち換算で中学三年生くらいかな? その頃には、もう結婚してたってことなのかな? 昔の成人は、早いからね? 黄泉の文明レベルがどの程度のものか知らないけれど、なんか現世よりも古風そうなかんじはするものね? 結婚してたってことなんだろうね? まったくお盛んなことだね? つまり、後半四年間はさておき、前半四年間という意味では、君だって確かにそのいする美嬢の夫だったんだろうさ? けど、少なくとも、今の君には、その記憶がないんだろう? 後半四年間は、『昼』の君は【第一世界】で他人してたんだろう? なのに、今更、その役割だけ求められるのは、不条理な話じゃないか?」
「先輩」
「なんだい、後輩」
「もしかして、怒ってます?」
「そりゃ怒ってるよ!」
おもに君にだけどねっ――畳ヶ崎が吠える。地雷を踏んだかもしれない。
「まったく。別に、意地悪を言うつもりなんてないのに。僕は君が心配なんだよ。君が、突然の押し掛け女房的な展開に浮かれて、あんまり鼻の下を伸ばしているものだから」
「そんなことは」
「いいや、しているね。男なんてのは、土台そういう生き物だ。その子の存在は君にとって据え膳だったろうし、仮にその子の言っていることが全て妄言だったとしても、多少電波な据え膳ってだけだ。久霧ちゃんがいなければ、君達はとっくに昨夜そういう関係になっていただろうさ。引っこんだ部分に出っ張った部分をあてがっての国生みだ。お盛んなことだよ、本当に」
「いや、そんな起こってもいないことで、なじられても」
「……。む」
話が脱線しつつあることに、畳ヶ崎も気付いたらしい。
んんっ、と咳払いをひとつ。
心なしか、頬に赤みがさしているように見えたのは、窓から差し込む朝日が強くなってきたせいだろうか。
「とにかくだ。僕の率直な感想は、ここまでとしよう」
「率直じゃない感想があるんですか」
「君も、それを望んでここに来たんじゃないのかい。これは部活動だぜ?」
小柄な少女は、眼鏡を一度とると、カーディガンの裾で丁寧に拭き、再び鼻の上にフレームを戻す。日が昇るにつれて、徐々に朝の冷たさを失っていく準備室の中で、彼女が座る窓辺だけが、切り取られた一枚のスナップショットのようだった。このしぐさを見るためだけに、自分は彼女を頼ったのかもしれないとさえ思えてくる。
「それでは、始めるとしよう。何が信じられるのか。何が信じられないのか。証明すべきラインはどこか。その分水嶺について」




