パパは奴隷でATM
安寿の父は元IT長者というやつで、羽振りのいいときは時代の寵児、日本版ザッカーバーグと呼ばれて持てはやされたが、急成長を遂げる新興企業にありがちな一定の規模を超えて成長が止まると、あっという間に凋落を始めた。やがて株価対策で行った粉飾決算がばれるや、それまでちやほやしていた人々も離れ、間もなく倒産の憂き目と相成った。
元々虚業でのし上がった彼に二の矢は無く。次第に募る不満の矛先が家族に向かうと、気がつけば当たり前のようにDVに発展した。元モデルだった安寿の母親はそんな彼に愛想を尽かし離婚、芸能界復帰を目論んだが、そのときはまだ力のあった相手の邪魔にあい頓挫。収入を絶たれた状態で安寿の親権を手放すほかに方法がなかったそうである。
そうして父親の元に残された幼い日の安寿であったが、もはや言うまでもないだろうが、ろくな育てられ方はせず、債権者の影に怯える父に定期的に虐待されては、怪我の絶えない日々を送った。父親こそが世間から目を眩ませているというのに、その幼い子供が誰に助けを求められるわけもなく。部屋の中に閉じ込められた彼女の身に、何が起こっているかを知る者はなく。そして彼女の人格は磨り減った。
やがて破産し落ちぶれた父親と共に安アパートへ引っ越した安寿は、日の当たらない暗い部屋に閉じ込められ、誰とも触れ合うことのない日々を過ごした。腹が減っても限界が来るまで食べ物を与えられることはなく、声を立てて泣けば殴られた。ベビーゲートで覆われたスペースだけが彼女に許された居場所であり、そして柵で囲われた狭い空間の中で彼女は惨めに衰弱していくのだった。今にして思えばこの頃の彼は、娘を衰弱死させようとしていた節がある。
転機が訪れたのは、やはりロクでもない出来事が切っ掛けで、恐らくは子供特有の病気になったガリガリに痩せた彼女が、高熱を出して生死の境をさ迷うなか、世間体を気にした父親がきまぐれに病院へと連れて行ったことだった。たまたま機嫌が良かったのか、それとも、やはり殺してはまずいと思いなおしたのか、ともあれ九死に一生を得た彼女に世間は優しかった。だらしない父子家庭で育つ彼女をなんとか救おうと、頼んでも無いのに医者やケースワーカーが手を差し伸べたのである。それは父親に対してもであり……そして彼は味をしめた。
子供が悲惨な目に遭っていることに、世間は耐えられない。そうと知った父親は、それ以来、どこへ行くにも安寿を連れまわした。しかしその扱いは、まるで鳥獣に対するようであり、とても娘に対するものではない。それこそが彼の狙いであり、大抵の人はそれを見てぎょっとして彼女に優しくし、父親のことを苦々しく思っていても、彼に対して便宜を図るしかないのである。
そうして他人の親切を頼りに債務を処理し、人権屋に取り入って生活保護を受け、堕落しきった日々を過ごしていた彼は、ますます娘を利用した。競輪や競艇がやっている日は必ず安寿を連れて出かけ、勝っても負けても帰りにホルモン屋に寄っては、彼女には何も食べさせずに、腹を空かせている娘の前で自分だけが酒を飲んで食事を取った。最初は気にも留めない店の主人も、長時間になるとやがて彼女が気になって、仕方なく何か食べ物を与えた。父親はその優しさにつけこんで、娘には一切何もしてやることはなく、酒やギャンブルにのめりこんでいった。
彼女はいつも腹を空かせていた。汚いホルモン屋の床に座り、牛豚の臓物を貪り食う彼女の姿を見れば、誰の目にもそれは明らかだった。
そんな惨めな日々が終わったのは、それから間もなくだった。ある日、かつての債権者とトラブルを起こした彼は、詐欺で訴えられあっけなく御用となった。そして残された娘の実態が知れると、彼はあっさりと養育を拒否し、そして保健所から児童相談所へと通報が入り、ようやく母親へと伝わったのだった。
その頃、白木氏と再婚していた彼女の母は、娘の悲惨な生活を知って泣き崩れた。何がなんでも自分が連れて出れば良かったのだと後悔した。それを再婚相手の白木氏は君のせいではないと慰めたが、その息子であるノエルはそうは思わなかった。彼は義母と上手く行ってはいなかった。
幼い頃に母を亡くしたノエルは、父の再婚相手をあまり好ましく思っていなかった。マザコンといわれるのが嫌で反対しなかったが、本心では父親の再婚を許しては居なかった。相手も、元々水商売にも等しい芸能界などで、不特定多数の男を相手に媚を売っていたような女である。IT長者などという胡散臭い輩に騙されたうえに、あっけなく育児を放棄したような女である。汚らわしいだけで、同情の余地などないと思っていた。これを切っ掛けに父親が目を覚ましてくれればと思ったが……しかし、義妹の安寿に関しては、どうしても嫌いになれなかったのである。
彼女はもう小学校低学年であるはずだが、幼稚園児よりも体が小さく、そして舌足らずというよりは、知恵遅れ気味に口の中でもぐもぐと話した。恐らく言葉を知らなかったのではないかと思う。安寿は何をやっても反応が鈍く、動きが緩慢で、家の中の狭い場所を見つけては、借りてきた猫のように身を潜め、時折思い出したかのようにパパはどこ? パパはどこ? と繰り返した。しかし、彼女は絶対に泣かないのである。
そんな奇妙な振る舞いをする義妹を見て、あんな父親でも彼女にとっては父親であったのかと思うと胸が痛んだ。やがて、それが胃に穴が空くほどの空腹に幾度と無く晒された彼女の処世術であり、大病で生死の境をさ迷い、生殺与奪を握られた上での信奉であることに気づかされたとき、ノエルは例え義母のことが嫌いでも、義妹のことだけは助けたいと心に決めるのであった。
白木家へやってきた安寿は、いつまで経っても家に馴染めないようだった。母親は付きっ切りで彼女に優しく接し、それを父親がサポートするが、どうしても上手く行かないのである。特に偏食が酷く、彼女はグチャグチャのオートミールのようなものや、臓物しか食べられず、他に何を与えてもすぐに吐き出してしまった。体はいつまでも小さく、ガリガリに痩せて、そして優しく話しかけても反応が薄く、旅行に連れて行ってもじっと地面を見つめて動かない。
このやり方は上手くない。やがて、義母が育児ノイローゼのようになってくると、ある日ノエルは行動を起こした。白痴のように反応を示さない安寿を殴って言うことを聞かせたのである。
息子の豹変に義母は驚き、父親は激怒した。息子が前々から再婚相手とあまり上手くいっていないことに気づいていた父親は、きっとそれが原因だと思い、彼の行いを大いに恥じて糾弾した。しかしノエルは止めなかった。彼は安寿を叩いて従わせ、理不尽なほどに罵った。なぜなら彼には思惑があった。
それが一番、彼女の反応があったからだった。逆に殴らなければ何も出来なかったのである。
彼女の本当の父親は怠惰で粗暴だった。娘に対する愛情など一切無かった。しかしそれでも彼女はその父親に依存するしか生きるすべが無かったのだ。そんな最低な男に縋るしか、生きる方法がなかったのである。だから、彼女が求めたのは、そうやって雁字搦めに束縛する、理不尽な力そのものだったのではなかろうか。
やがて、安寿が義父や母よりも義兄に懐くようになったとき、家庭内は取り返しのつかないほどの不和で満たされた。彼らの信頼関係はもう戻れないところまで崩れ去ってしまっていた。しかし、ノエルの父も義母も、息子が何故そうしたのはかは理解していたのである。
それでいいだろうとノエルは思った。
元々義母のことは好きになれなかった。そしてその義母を父は選んだ。なら、自分は安寿を選ぼう。彼女が求めるのなら、粗暴にも残虐にもなろう。奴隷にもATMにだってなってやろう。ある日、母を亡くした日。ノエルは自分には何も無くなったと思った。そのぽっかりと空いた穴を埋めてくれるのであれば、自分は彼女の求めるものにならなんだってなろう。パパとして生きていこう。そう思った。
そうして、彼らの歪でしかない奇妙な共依存関係が始まったのである。
やがて月日は流れて、安寿は殴られなくても自分で考え行動が出来るようになった。
言葉も普通に喋れるようになった。白木家へやってきた当初は、特殊学級にしか通えない状態だったが、理不尽で厳しい義兄の命令で……それはおかしな話だったが、理不尽であればあるほど、彼女は人間性を取り戻していったのである。
ノエルは常に、安寿が求める父性を演じた。彼女にとって、父親とは理不尽で粗暴で、そしてだらしなく毎日家に居るものだった。
安寿は絵が上手かった。だからノエルは彼女から巻き上げた小遣いで、漫画を買い与えた。その内、ブラが必要になったり初潮がきたら、女の体に興味のある変態の振りをして彼女に接した。それは義母との関係に完全に止めを刺したが、望むところだった。
しかし、そんな関係もいつまでも続かない。当たり前だが、いつまでも兄妹べったりとはいかないのだ。ノエルが大学に進学すると、彼らは次第にすれ違っていくようになった。大学が忙しい兄を邪魔しないようにと遠慮をしていた安寿であったが、彼女の思いと裏腹に、体調は優れなくなっていった。
安寿が身も心も義兄に依存しきっていたことを知って、ノエルはすぐさま大学を休学した。その頃にはもう父親も理解していて、彼のやることに口出しはしなかった。そうして、義妹のために一日中家に居るようになると、次第に彼女は元気を取り戻していった。やはり、自分のやることは間違いない。これで万事解決だ……そう思った矢先であった。今度は義母がおかしくなった。
紆余曲折を経て、互いに理解はしていたが、ノエルと義母は正直まったく上手くいってはいなかった。そんな彼が、一日中家に居るようになると、専業主婦をしていた義母は次第にストレスが溜まっていき、ついに爆発してしまったのだ。
義母のことまでは面倒見切れない、自分には関係ないと思うノエルであったが、父の方はそうはいかない。自分を家から追い出すのであれば、安寿も連れて行くと主張したが、それをやってしまったら、今度こそ家族関係が破綻すると父に言われて、二進も三進もいかなくなった。そうして家庭内の泥沼は、長々と続くこととなる。
しかし、それに終止符を打ったのは、意外なことに安寿であった。
母親がノイローゼになり、義父と義兄が喧嘩を始めたことで、彼女は独り立ちを決意した。長いこと、兄や家族に迷惑をかけたが、もう自分は大丈夫だ、まともになったからと直訴して、兄に依存しない生活を確立するために家を出ると言い出した。
もちろん、反対はされたが彼女の決意は固く、嫌になったらいつでも家に帰ってこれるようにと、家の近所の全寮制学校、成美中学に進学した。こうして、義妹が奮起したのを切っ掛けに、ノエルも家を出て池袋に引越し、大学に復帰したのである。
意外なことに安寿は学校で上手くやっており、友達も出来て順風満帆なようであった。どちらかと言えば兄の方が、彼女のことを心配するあまりに単位を落としてしまう始末であった。
こうして独り立ちした安寿であったが、しかし……事件は1年半後に訪れる。
その年の夏休み、実家で再開した兄妹は久しぶりの再会に胸をときめかせた。ノエルは妹に対する恋心を隠しきれず、気持ちを抑えるため、または義母と鉢合わせしないように、部屋に引っ込んでいた。しかし、深夜には耐え切れず、ふらふらと義妹の部屋へ訪れてしまう……
そして、悲劇が起こった。アホの子が処女膜をズボズボやっちゃったのである。
咄嗟のことに何も出来なかった。駆けつけた両親には、自分がやったと言った。父親に殴られ、義母に泣かれた。でも自分が傷つけば済むならそれでいいのだと思った。
それにしても、何故、安寿はあんなことをしてしまったんだ……?
その理由が分からないノエルは苦悩した。
やはり、独り立ちはまだ早かったのではなかろうか。あの時、もっと両親に楯突いてでも我を通すべきだったのだ……しかし、自分には何も力が無い。彼女を無理矢理連れて行くにも、経済力も何もない。
本当に独り立ちが必要なのは自分だ。そう結論付けたノエルは、それを切っ掛けに、猛勉強しアルバイトを始めた。しかし、坊ちゃん育ちの彼には学生アルバイトのようなきつい仕事は中々馴染めず、失敗を繰り返しては、ストレスを溜め続ける日々を送ることになった。
そんな中、安寿が漫画の新人賞を取った。
子供の頃、彼女は絵が上手いからと思い、与えた漫画が役に立ったのだ。それは喜ばしいことだった。しかし、喜びを義兄と分かち合おうとやってきた彼女に対して、ノエルは素直に喜んでやることが出来なかった。
寧ろ、そんな職業は止めろと言った。そんなのは、いつまでも続けられる仕事ではない。一作目は意外と書ける物だ、でも二作目はどうするのだ。早く見切りをつけて、堅実な職につかないと、後がないぞ……彼は、妹の成功に嫉妬していたのである。
自分の口から出る嫌味の数々に、ノエルは戸惑った。本当なら妹の快挙を一緒に喜んでやるべきだ。なのに、どうしてこんなことを……? 自分の浅ましい嫉妬を知ったノエルは、己を恥じた。
しかし、気を取り直して彼女を祝福しようとしたノエルは、義妹の顔が恍惚に打ち震えていることに気づいて、何も言えなくなった。
彼女は、ノエルが嫉妬の炎を燃やし、醜い姿をさらけ出すことに、喜びを見出していたのである。
彼女が望むのであれば、自分はパパになろう……もう、遠い昔のことのようにも思えるが、かつて彼はそう心に誓った。最低の屑野郎にでも、なんにでもなってやろうと……思えば、彼女の父親はこういうだらしない男だったはずだ。
年を取って、妹は大分人間らしい感情を取り戻してきた。今では独り立ちし、友達も沢山いるようである……だが、相変わらず偏食であるし、時折奇怪な行動を続けている。
彼女はあの日から何も変わっていないのではなかろうか。もしかして、彼女は未だに、パパを探しているのではなかろうか……
気がつけば、安寿に差を付けられて、自分こそがかつてのだらしない彼女の父親のようであった。たかがアルバイトごときでストレスを溜め、妹の成功に嫉妬する。醜い自分の姿に心が張り裂けてしまいそうだ。しかし、それを彼女は喜んでいるようなのである。
かつて、感情の起伏に乏しかった安寿に、大人たちは一生懸命優しく接しようとした。ノエルはそんな大人たちのやり方を嘲笑った。しかし今、彼はかつての大人たちがしたように、彼女に接していないだろうか。
彼女を家から連れ出すために、必死になって身を立てようとする。それは本当に彼女が求めている自分の姿なのだろうか……
そして彼はやる気をなくした。自分のなりたかった自分と、彼女の求めている自分のギャップに苛まれ、身動きが取れなくなったのである。
大学をサボり、一日中だらけて過ごした。明け方まで飲んだくれ、昼間に眠り、24時間好きなときにオナっては食っちゃ寝した。そして、面白いことに、兄が情けなくなればなるほど、妹は生き生きとしてくるのである。
彼の目論見は正しかったと証明された。妹は、兄の中に、かつてのだらしなかった父親のことを探していたのである……