出来るじゃん
立花倖の車に乗って、すぐに雨に襲われた。雨脚の激しい滝のようなゲリラ豪雨に見舞われて視界不良の中、白のセダンは水しぶきをあげて進んだ。信号の光が滲んでは消えていく。ワイパーの規則正しい音がメトロノームのようにカチコチと響いた。
天使が失踪したらしいことを告げると、重苦しい空気の中で彼女は少し険しい口調で言った。
「今朝、学校に行ってあんたの妹のことを調べてきたのよ」
落ち着かないし、終夜営業のファミレスにでも入ろうかとも思ったのだが、よくよく考えても見ると、話の内容が荒唐無稽すぎて、人が居る場所でするのは得策でない。
テクノブレイクだの失踪だの、謎の人物に監視されていただのと、他人に聞かれたら頭がおかしい奴と思われるのが落ちである。仕方なしに、幹線道路をグルグルと行ったり来たりしながら、二人は会話を続けていた。
「元々、転校生ということで、どこからどうやって入ってきたか、色々と書面を受け取ってるはずなんだけど、改めて思い返してみると、そんなの見た記憶がないのよね。で、職員室のあたしの机をひっくり返してみたんだけど、案の定、そんな書類は見つからなかった」
「痕跡が消されたってことか?」
「いいえ、どちらかと言えば、始めからなかったと考えるべきね。必要な書類をそろえずに、ただ転校してきたと周囲に思い込ませたんでしょう。うちは私立だし、身元確認の手続きなんて元々ザルよ。数人を騙せば事足りるはず」
「……確かに」
「だから、そこから先はお手上げだったわ。彼女は確かに居たけど、痕跡がないのよ。テストや提出物はいくつか残されてたけど、そこからパーソナルデータを得ることは不可能でしょうし……あるいは、本当に天使だったと考えられれば、気が楽なんだけど」
この期に及んでそれはない。大体、本物ならこんな風に姿をくらましたりせずに、堂々としてればいいのだ。逃げ隠れしている段階で、彼女が偽者の天使であると認めてるようなものだし、何かを隠しごとをしていたことも明白だった。
ただし、痕跡といえば、たった一つだけ手がかりがあった。いや、手がかりといっていいかどうか分からないが、彼女が押入れの中に残したメモである。
「……オナホを壊したのは誰かって? うーん……」
「ますます訳がわからんだろ。なんでこんなことをさせたがるのか……」
「逆にさせたくないのかも知れないわよ?」
「え?」
「あんた、そのメモを読んで、今どう思ってる? 火中の栗をわざわざ拾うような真似はしたくないって、そう思ってるんじゃない」
「ああ……そうだな。天使の言うことを聞くのは癪だと思ってるね……けど、このまま放っておくのも、もどかしいんだよ……ああー、ホントわけわかんねえ」
「そうね……確かに分からないわ。ところで、結局、これって誰が壊したの?」
「は?」
自分は白木が怪しいと言ってたくせに、何言ってんだと思っていると、
「はっきりしたことは分かってないんでしょ? 本当に白木が壊したの?」
「それは……どうなんだろ。多分、そうだと思うけど」
本当のところは、よくわからない。
すぐに新垣に追い返されたし、状況的に一番怪しかったからそう思ってはいるが、何一つ確かな証拠など見つけてないのだ。もしかしたら、本当に泥棒だった可能性だって否定できない。その点を踏まえても、一度調べて見たほうがいいとは思っているのだが……
「でも……これが分かったところで、天使ちゃんに何の得があるのか」
「そうだよな。到底あるとは思えないんだが……」
「結局、それよね。あたしたちは彼女が誰だったのか、そもそも何の目的であんなことをしていたのかが分からないから、判断のしようが無い」
結局はそこに終始する。
それに、分からないといえばもう一人。
「あなたのお父さんね……また、飄々として捉えどころの無い人みたいだけど……」
「俺の親父、じゃなくって、親父を名乗っていた誰か、ね……こいつは天使のことも、他にも色々知ってそうな口ぶりだったんだが……何しろ、突然のことで何も聞けずに通話が切れちまった。って言うか、なんか話してる途中から、回線が急に悪くなったって感じだったな……」
「ふーん……確かに、それは気になるわね」
「だろ?」
「けど、その人、自分から名乗り出たんでしょう? なら、少なくとも敵意は無いんじゃない。もし、彼がそうしなかったら、あんた今頃まだ彼のことを父親だって、信じ込んでいたでしょうし」
「そういやそうだな……」
「確かに得体が知れないけど、自分から手の内を明かしてくれてるんだから、必要以上に警戒することはないと思うわ……何者なのかは気になるし、あんたにちょっかいをかけてた理由も謎だけど、それはあんたの妹も同じだしね……でも、そうね。聞いた感じだと、彼女のことを疑い始めたのが切っ掛けで正体を明かしたようだけど、それについて、何かヒントになるようなことでも言ってなかったの?」
「どうかな……究極のオナホ、欲しかったって言ってたけど……」
「…………ねえ、あれって、ホントにそんなに価値のあるものなの? なんだか頭が痛くなってきたわ……」
「あとは……」
「なによぉ~……」
「いや、何しろ得体の知れない相手だから、ビビッておまえ誰やねんみたいに言ったんだよ。そしたら逆に問い返されてね……おまえこそ誰だみたいな。もしかして、彼は俺のことをよく知らずにかけてきてたのかな?」
「そんなはずないでしょう……でも、そうねえ……ん?」
言うと、彼女は短く舌打ちし、何かに気づいたかのように親指の爪を噛みはじめた。まるで子供みたいな素振りだったが、眉間に皺を寄せて真剣に何かを考えている彼女に対し、何も言えずに藤木は黙って言葉を待った。
「彼の言うことは尤もだわ。得体が知れないと言ったら、藤木、あんたこそ一体何者なのよ? どうして、あんただけに特別なことが起きるの?」
「え?」
「大体、なんで、幽体離脱なんて現象を当たり前のように受け入れてるの。どうして、あんただけがそんなことが出来るのか、気にならないの? そして、あんたの周りにだけ、どうしてこんなに謎の人物が集まってくるの。それって、いつからなの?」
矢継ぎ早に問われて戸惑ったが、それは忘れもしない5月19日。オナって居たら死んでしまったあの瞬間からである。彼女にそれを伝えると、
「その日、あんたが死んだと思ったら、天使ちゃんがやってきたのよね? そして、翌日には転校までしてきた」
「そうだ」
「催眠術だかなんだか知らないけど、転校の手続きなんて早々出来るもんじゃないわよ。最低でも数日はかかる。そう考えると、彼女が動き出したのは、藤木がそうなるよりもずっと前からってことになる。用意周到よね。まるで始めから何が起きるか分かっていたみたいに……」
「……天使は俺がテクノブレイクするって前もって知ってて、そのために準備してたってことか?」
「そう考えるのが自然でしょうね。何もかも、タイミングが良すぎるもの……そのころ、何か変わったことがあったりしなかった?」
「……いや、さっぱり」
「情けないわねえ……」
「だって、3ヶ月も前の話だぞ? 普通、覚えとらんわい。ぶっちゃけ、俺が死んだ5月19日のことすら、まともに覚えてないぞ。多分、普通に朝起きて、学校行って、家帰って、オナってたんじゃないかな……大体、特別なことがあったのなら、それこそ強烈に覚えてそうだし」
「けど、何かあったはずよ。思い出しなさい……きっと、そこに何か天使ちゃんに関するヒントがあるはずだから」
それきり、会話は続かずに二人は無言のまま車のワイパーの音を聞いていた。倖はまずそれを思い出すのが先決だとでも言わんばかりに、邪魔をしないように口を閉ざした。藤木はなんとか5月の出来事を思い出そうとするが、それより後に起きた様々な出来事の方が、より鮮明に思い出されて思考の邪魔をするのだった。
やがて雨は止んで静けさが戻ってきた。何もかもが見渡せそうな雨上がりのクリアな視界とは裏腹に、藤木の頭の中はもやがかかっていて、何も思い出せそうにはなかった。
その後、藤木が何かを思い出すということはなく……
明けて翌朝、彼は混雑する中央線の中に居た。目的地は池袋、結局、火中の栗を拾うことにしたのだ。
前日の雨のせいで蒸し暑い朝だった。藤木が起きてリビングにいくと、母親が手持ち無沙汰にトーストを焼きながら、小町が来ないと嘆いていた。
一緒にトーストに齧りつきながら話を聞いてみると、どうやらここ最近の母親の餌は、天使ではなく小町が作ってたことになっていた。あんたが何か悪さしたんじゃないでしょうね? と言う、謂れのない非難を背中に受けながら、藤木は玄関から家を出た。
玄関を開けてすぐ目の前にある隣家を前にして、藤木は一度小町と話してみようかと思ったが、結局やめた。天使=小町と言われてから、なんとなく、どんな顔をして会えば良いのやら分からなかったのだ。
もし、彼女の口から、違和感のある言葉が出てきたら……そう思うと、なかなか勇気がもてない。
多分、そんなことはないのだろうが……
すぐに確かめなければいけないことではない、後回しでいいだろうと、言い訳にもなってない言い訳をして、藤木はその場から逃げるように離れると、やってきた団地循環のバスに飛び乗って駅へと向かった。
七条寺駅から電車に乗り、快速に乗り換えようと途中下車をしたら、スマホにメールが届いた。差出人は立花倖。オナホの件を捜査するにあたって、白木兄妹について軽く調べてもらったのだが、送られてきたのはチェーンメールもかくやと言わんばかりのボリュームであった。
「軽くって言ったのになあ……」
滑り込んできた快速電車に乗ると、藤木は手すりにもたれかかってその中身を読み上げた。
新垣ノエル、25歳。本名、白木ノエル。弁護士の父親と、専業主婦の母親の間に生まれた、母親の死を経験した以外は至って平凡な幼少期を過ごしていた。新垣とは母親の旧姓であるらしい。
男やもめで育てられたが、礼儀正しく育ち、父親との折り合いも良く、近所でも評判の幼少期を過ごした。小中学校と神童の名を欲しいままにした秀才であったが、しかし現在は知っての通り、変態の名を欲しいままにしたキチガイである。
趣味は機械弄りで、もはや職業と言っても良い域に達している。非常に残念だが、一部には受けのいい発明を繰り返し、インターネット上での知名度は高い。
その経歴は面白いことに、一流高校を出て一橋大学に進学、後に中退という文系一直線コースであった。恐らくは、父親の跡を継ごうとしていたと思われる。
白木安寿、17歳。旧姓、幸安寿。IT企業の元社長と、一世を風靡した元モデルの間に生まれた、日欧クォーター。金髪は地毛。非常に裕福な家庭に生まれたが、幼少期に父親の会社が粉飾決算の末に倒産。直後に両親の離婚が成立する。
収入の不安定な父親と暮らしていたせいで、幼少期は苦労が絶えなかったようだが、後に父親が詐欺まがいの金銭トラブルを起こし逮捕されたのを期に、新垣氏と再婚していた母親に引き取られ現在に至る。
引き取られた当初は自閉気味で、中学入学時まで友人が居なかったようである。学生寮では要監視対象(漫画の持込)であった。学校での成績は下の下、赤点補習の常連である。進路調査では就職を希望し、現在義父が顧問弁護士を勤める企業の関連会社への内定が決まっている。
「……まあ、就職しないんだろうけどね」
あの人、漫画家だし……
そのほか、パラパラと知らない情報が散見されたが、目を引くようなものは特に無かった。
一番気になったのは、新垣の中退した大学のことくらいだろうか……一橋て、確か理系学部が一切無いはずだぞ……なんであんなマッドサイエンティストみたいなのが通っていたのだろう。
後は白木の幼少期か。今でこそ馬鹿な子に育ったものだが、その幼少期はあまり明るいものでは無さそうだった。そのせいであんなに性格歪んじまったのだろうか……?
などと、失礼なことを考えていたら、池袋に到着した。この1週間ほど、お世話になっていたので、すでにホームグラウンドである。藤木は電車から降りると、適当にデパートで手土産を用意してから新垣のマンションへと向かった。
マンションに着くと、迷うことなく7階へ向かった。
何で天使が今回の事件を気にしているのか、さっぱり分からなかったが、何はともあれ彼自身と一度話し合ってみなければ何も始まらない……水浸しの室内で、呆然と佇む新垣の姿を思い出して……まだ、あれから二日しか経ってないんだなと思いながら、藤木はインターホンを押した。
ピンポーン……
と、チャイムの音が鳴って、暫く待ったが返事は無かった。ヒートアイランドの影響か、骨の髄からジリジリと焼かれるような暑さで、汗が止め処なく流れていった。
再度ピンポンピンポンと鳴らしてみたが、全くの無反応である。
留守か……いや、居留守と言う可能性もある。玄関の真上にあった電気メーターがクルクルと回っていたが、それが早いのか遅いのかは判別がつきかねた。
この暑さではあまり長居は出来ないが……もう少し粘ってみようかと、しつこくチャイムを鳴らしていた時だった。
ガチャリ……
と音がなって、隣家のドアが開いた。中から、いつも廊下でタバコを吸っていた男が出てきて、迷惑そうな顔で藤木のことを睨んでいた。
「……お隣なら居ないよ」
と、男が台詞を最後までいい終わらないうちに、藤木はガッとドアの隙間に足を突っ込むと、にこやかな笑みを浮かべ、手に持っていた手土産を差し出した。元々、新垣以外にも用事があったのだ。
「これ、つまらないものですが」
藤木の強引な行動に明らかに動揺した隣人に、間髪いれずに言った。
「ここ数日、ずっと五月蝿くしてすみませんでした。これ、お詫びの品です」
その言葉に少し警戒心が取れたのか、男は手土産を受け取ると、
「もう気にしてないから……それじゃ」
と言ってドアを閉めようとしたが、藤木の足が邪魔をして閉まらない。むっとした目つきで男が睨むが、
「あの、お隣がいつごろ帰ってくるか知りませんか? アポ無しで来ちゃったもんで、会えなくて困ってるんですよ」
「……いや、知るわけないでしょ」
「まいったなあ……あの、良かったら、お宅で待たせてもらえませんか?」
「はあ?」
「この暑さでしょう。外で待ってたら死んでしまう」
「いや、駄目に決まってるでしょ。何言ってんの、おまえ」
「そこを何とか」
「はあ? いやいや、ありえんでしょう」
「相沢さん、どうかしたんですか?」
玄関先で揉めていたら、奥から別の女が出てきて、男に向かって訊ねてきた。男は振り返って、面倒くさそうにしっしっと手を振ると、
「何でもないから、仕事戻って」と言い、少しドス聞いた声を出して、「おい、いい加減にしないと警察呼ぶぞ」と言ってきた。
藤木はその言葉にさっと手を広げてお手上げのポーズをすると、
「すみません。お邪魔しました」
と言って、ドアの隙間から足を引っ込めた。
男はむっとした顔を隠そうともしないで、暫く藤木の顔を睨みつけてから、黙ってドアをバタンと閉めた。思ったよりも大きな音がしたのは、恐らく示威行為であろう。
「……苗字に、さん付けね」
それなりの付き合いと言うわけだ。中から出てきた女性は、仕事、をしていた。まあ、そんなこったろうと思ったけど。
男が、隣が居ないと言うのなら、本当にいないのだろう。
藤木は踵を返すと、エレベータの隣にある非常階段から、一つ上の8階へと足を向けた。
8階に来た藤木は、廊下の一番奥にある部屋の前まで来ると、チャイムを押した。そこは新垣の部屋の真上であった。インターホンから応対の声が聞こえてきたので、先ほどの男と同様に、数日間の非礼を詫びると、こちらは愛想の良さそうな小母さんが出てきて、藤木に応対してくれた。
このところ、男たちが集まってワイワイやっていたのは気づいていたが、全く気にならなかったと彼女は言った。元々人懐こい性格のようで、手土産を渡すと更に機嫌をよくした彼女は、聞いてもいないのにベラベラとよく喋った。
何しろ、高速道路の真上にあるから、普段から騒音には慣れっこなのだと彼女は言った。ちょっとくらい五月蝿くても気にしないわよと。まあ、車などの機械が出す音と、生活音だと種類が違うのだが、気持ちよく喋くる小母ちゃんにそんなことを指摘しても仕方ない。
藤木は彼女が満足するまで、額に玉の汗をかきながらにこやかに相槌を打っていた。つーか、小母ちゃんこそ暑くないのか……
およそ十分くらいの長話に付き合わされ、ようやく解放された藤木は滝のような汗を流しつつ、また非常階段を使って今度は6階へとやって来た。
正直、もうこんなことやめて、どっか涼しいとこで冷たい飲み物でも飲んでいたい気分である……投げ出したい衝動に駆られつつも、彼は8階同様に廊下の奥まで来るとそこのチャイムを押した。
すると今度はスカスカっと、ボタンを押す音だけが聞こえて、インターホンのチャイムの音が聞こえない。おや? と思って頭上の電気メーターを見てみたら、それはピクリとも動いていなかった。
人が住んでいれば冷蔵庫くらいは動いているものである。おまけにこの暑さだ、まったく動かないなんてことは有り得ない。恐らくこの部屋は無人なのだろう……中々、駅にも近い好立地だと言うのに……そんなことを考えつつ、藤木はドアに背中からもたれかかると、ズルズルと力なくしゃがみこんだ。
あかん……思ったよりも小母ちゃんで消耗しすぎたらしい。
廊下は北を向いていたから直射日光は避けられたが、もはやそんなことなどお構いなしなほど、コンクリートの輻射熱がきつかった。おまけに高速道路のせいで空気も最悪である。まだ、気になることはあったが、一旦どこかに退避して涼んでこよう……じゃないとやってられないと、最後の力を振り絞って立ち上がろうとしたときだった。
がちゃっと階上でドアの開く音が聞こえて、続いてカチッとライターを点ける音が響いた。多分、例の男がタバコを吸っているのだろう。
この暑いのにご苦労なことである……
新垣の部屋の上下と隣室、この3部屋を回ってみて分かる通り、明らかに隣室の態度はおかしかった。ここ1週間、藤木たちが入り浸っていたときも、昼夜を問わず、彼が廊下でタバコを吸う姿は見かけられたし、隣室の女とエレベータで鉢合わせすることもあった。
何よりも、先ほど藤木は新垣の部屋を訪問していたのだが、こちらの動向を気にしているかのごとく彼が現れ、そして隣室の不在を告げる始末である。これがおかしくないわけが無い。
大体、中で何をやっているかは想像がついたが……出来れば直接確かめられないだろうか……
溜め息のように吐き出される男の紫煙を下から眺めて居た時、ふと気づいた。
「そういや……俺、ちんこ立つんだっけ……」
ブッ! と唾液を噴きだす音が階上から聞こえてきた。
いけない、どうやら口に出していたらしい……こちらに来られてもバツが悪い。藤木は息を潜めて身を隠した……
やがて、階上でドアがバタンと閉まる音がし、藤木はほっと胸をなでおろした。
何にせよ、アレが立つのは確かである。ならば、やれるのではないか? アレが。およそ2ヶ月ぶりのアレである。きっとザーメンまっ黄色なんてもんじゃない、黄土色みたいなドロドロの粘液がねっとりと詰まっていることだろう……それが精管を通り過ぎるとき、果たしてだれだけの快感が待っているのだろうか……ゴクリ……
「じゃなかった。テクノだよ、テクノブレイク!」
思わず誰も聞いてないのに一人乗り突っ込みをしてしまった。
射精は目的ではない。あくまでも手段である。およそ2ヶ月ぶりのテクノブレイクをすれば、気になる階上の様子を探ることは可能なんじゃないか……藤木はそう考えて、自分の股間を期待するような目で見つめた。
「いや、無理か……」
だがすぐに諦めた。幽体離脱するまではいい。しかし藤木には自力で戻る手段が無いのである。そのまま放っておいたら、いずれ誰かに発見されて通報されてしまう。せめて小町かユッキーがいればなんとかなったのだが……二人とも七条寺にいて、すぐに来いと言っても、どだい無理な相談である。
それに、小町に関しては、天使のことがあって何となく避けたい気分だった……あいつ、どのくらいまで覚えているのだろう……そりゃ、そのうち彼女とも話し合わなければならないだろうが、その時にもし天使の記憶でも植えつけられていたら、多分自分は天使のことを許せないんじゃなかろうか……そんな風に考えていたときだった。
ふと、藤木はあることに気がついた。
「そういやあ……天使って、天使じゃなかったんだよな……多分」
天使=小町というわけではない。天使が、天国からの使いではなかったと言うことである。もしも本物なら、逃げ隠れせずに堂々としているはずだから。
だとすれば、
「テクノブレイクだのなんだの言ってたけど、俺って死んでないんだよね……恐らく」
単に天使に死んだって言われて、そう信じちゃっただけなのだ……じゃあ何でいちいち、テクノブレイクなんて手順を踏まなきゃならんのだろうか……
そもそもの発端は、あの日、オナっていたらいつの間にか幽体離脱してしまっていたことに遡る。それがテクノブレイクって言う架空の概念と似ていたから、真っ先にそれが思い浮かんだ。そして、現れた天使がその考えにお墨付きを与えた……だから、自分はオナったら死ぬと思い込んでいたわけだが……
その前提となる藤木は死んだという事実が崩れ去ったら、どうなるんだ?
藤木はオナっても死なない。死んでないのに、どうして幽体離脱するのか?
単にオナったら幽体離脱する特異体質になったと言うことか? いやいや、意味分からないだろう。なんでオナったら幽体離脱するんだ。そもそも、この幽体離脱って特殊能力はなんなんだ? 非常識だろう。どうせ非常識なことなんだから、別にオナらんでもいいんじゃないの。
などとぼんやりする頭で考えているときだった。
ドクン……と鼓動がして、視界がゆらゆらと揺らめいた。
それはまるで蜃気楼のように世界を揺らした。唐突に訪れた眩暈に、こりゃやばいと思っているのだが、体の力が抜けて思うとおりに動かない。気がつけば、重力の楔から解き放たれたかのような開放感と共に、世界が急激に遠ざかっていく感覚がした。
左右の視点が各々別方向へと遠ざかっていく。気持ちの悪い頭痛にも似た感覚がしたと思ったら、世界が何重にも折り重なった七色の光に分裂して見えた。その一つ一つが、更に同じような分裂を繰り返し、フラクタルな模様を描いて、次々飛び去っていった。
ズキズキとこめかみに激痛が走る。
--・! -・-・!!
何か叫んでいたような気がする。
それは一生のように長かったかも知れない。もしかしたら一瞬であったかも知れない。時間と言う概念が意味を成さないことだったかも知れない。それは分からないが、しかし確実に終わりは訪れた。
ようやく引いていった眩暈と吐き気を懸命に堪えつつ、藤木が目を開いたら、気がつけばいつの間にやら、意識だけが宙に浮かんでいた。場所は変わらず、池袋の新垣のマンションで、眼下には高速道路が見えて、そして自分の足元には、扉に額を打ち付ける格好で、仰け反って力なく倒れている、自分自身の体があった。
それはあの5月19日以来、お馴染みになった例の感覚だった。
「……出来るじゃん……」
藤木は誰にとも無く呟いた。
そして、天使のことを思い出していた。
藤木は、自分がテクノブレイク、すなわち死ぬから幽体離脱する……そう思っていた。しかし、そうではなかった。別に死のうが死ぬまいが、元々彼は幽体離脱という特殊能力を持っていたのだ
……もしかして、これが彼女の目的だろうか?
……天使は、この事実を隠そうとしていた?
分からないが、取りあえず、元に戻れなかったら大変であると思い、藤木は咄嗟に向きを反転させると、倒れ伏している自分の体に意識を飛び込ませた。
いつもの強烈な眩暈と痛みが襲ってくる。そして唐突に重力が戻ってきて……気がつけば藤木は、当たり前のように自分自身の体に戻っているのだった。




