それは非常にありえて困る
午後9時を回っても天使は帰ってこなかった。
家に門限は無かったが、それでも、今までこんなに遅くまで彼女が帰らなかった日は記憶に無かった。父親の電話といい、押入れのメモといい、明らかに何かおかしなことが現在進行形で起こっているようである。しかし、それが何であるか皆目見当がつかない。
父親がいない? 天使は妹で無い? やがて、母親が昼寝から起きてきたので尋ねてみると、
「天使ちゃん? それならもうとっくに帰ってるんじゃないかしら」
「帰ってないから、こうして聞いてるんじゃないか」
「ふーん……そうなの」
「そうなのって、それだけかよ。心配にならないのか?」
「え? なんで?」
「なんでって……」
あれだけ世話を焼いてもらっていたのに、この淡白な態度である。我が母親ながら、なんて薄情なんだと憤っていたのだが、彼女の次の台詞に耳を疑った。
「だってお隣のことじゃない。うちが口出す問題じゃないわよ」
母親は至って真面目で、嘘を言ってるような様子は見受けられない。
「え、いや、でも、だって……あれ? この前まで一緒に暮らしてただろう? 毎日、食事の世話してもらってただろう?」
「何言ってるのあんた……気味が悪いわねえ。小町ちゃんなら、また明日になったらお手伝いに来てくれるでしょう。本当、私が妊娠してから色々面倒かけちゃって申し訳ないわ」
「……小町?」
「一週間も家を空けたのはあんたでしょ。愛しい彼女に、ちょっと会わなかったってだけで、錯乱してるんじゃないわよ。あんまりがっついてるとモテないわよ」
クラクラと眩暈がした。情報が錯綜して脳みその中を素通りし、うまく引っかかってくれない感じがする。もしかして、自分は何か根本的な間違いをしてるのではなかろうか。
「いや、だから、小町じゃなくって、天使のことだ。妹の天使が帰ってこないんだ」
「……何言ってるの、あんた。天使って、小町ちゃんのことでしょう……妹って……本当に、気持ち悪いわねえ」
呆然とする藤木に母は言った。
曰く、ある日いつものように藤木が何かをやらかして、小町に折檻を食らっていた。曰く、土下座して鼻水を垂れ流し詫びる藤木に対し、今後自分のことは天使と呼びなさいと彼女は言い放った。曰く、以来藤木は、彼女のことを天使と恐れ敬い、丁稚のように奉公してけつかった。
なにそれ、非常にありえて困る……
その後、小町は母親が入院したら毎日見舞いに来てくれたし、藤木に代わって着替えやなんやを用意してくれた。退院したらしたで、家事の手伝いを率先して行ってくれた。要は、天使がやっていたことが、小町に置き換わっているようだった。
愕然とする藤木を気の毒そうな目で見ている母親にイラつきながらも、
「そ、それじゃ……親父は? あんた……一体誰の子を孕んでるの?」
「親に向かってなんて言い草だい、この子は!」
容赦なくビンタが飛んできた。そりゃ、殴られて当然だろう。しかし、他に聞きようがないのだ。ヒリヒリとする頬を撫でながら、藤木は半泣きになりながら母の言葉を聞いていた。
父親なら藤木が高校に進学してから岡山に単身赴任中で、長期休暇になるとちょくちょく帰ってくるとのことだった。ここで、その父親はどんな奴だとか聞いたら、また怒らせるだけだろう。藤木はすごすごと部屋に引っ込むと、アルバムを引っ張り出してきて確かめた。
自分の幼い頃の写真に、一緒に父親が写っていた。一目見て、すぐに自分の父親であることは分かった。見間違えようがないのである。どうして今まで電話で話してきたあの男を、彼と勘違いしたのだろうか……と考え、はたと気づいた。良く考えても見れば、藤木はあの男の声しか聞いていない。声だけなら勘違いもありうる。つまり、騙されていたわけだ……
思い返せば、本物の父親の電話番号だって、藤木は知らなかった。基本的に携帯ではやりとりせずに、リビングの電話にかけてくるからだ。声も、意識すれば思い出せるが、普段は思い出しもしないものだ。男親とはそんなものである。
「くそっ! やられた……のか?」
一体なんのために? わけがわからない。
天使のこともそうである。いきなり、天使=小町ということになっているが……確かに彼女は存在した。小町と二人揃っていた記憶もある。尤も、二人とも反りが合わないのか、一緒に居ることを避けてた節があるが……どちらにしろ、問題なのは、天使=小町と言われても、意外としっくり来てしまうことだった。
彼女の特徴を並べてみれば、天使は小町にそっくりで、まるで家族のように藤木や母親の世話を焼いてくれて、毎朝一緒に登校して、特に用事がなければいつも一緒に行動していた。まんま小町なのである。「天使のことを知らないか? ほら、いつも一緒にいたあいつだよ!」と言っても、小町もそうなのである。
おそらく、天使はもう帰ってこないだろう。おまけに、彼女は謎の催眠術の使い手だ。これを探そうとなると、もうお手上げだ。
「あいつ、これを見越していたのだろうか……」
それは分からないが、電話の声だけの父といい、天使といい、自分の周りに良く分からない人間が、今まで居座っていたらしい……それだけは分かった。
しかし、それが分かったところで、これからどうしたらいいんだ?
彼らが一体何を目的として、そうしていたのかがさっぱり分からない。
それが上手くいったのか、失敗したのか、それすらも分からない。
母親と軽く会話してみて、天使の存在自体が無かったことにされてることは確認出来た。では、何故彼女は居なくなったのか?
「まあ、普通に考えて……俺が気づいたからだろうな」
藤木に気づかれて、排除される前に、先に逃亡した……そう考えるのが自然だ。
しかし、逃亡するとなると、藤木に対して相当よからぬことを企んでいたとも考えられる。だとしたら大変だ。彼女のおかしさを、今までは何となくスルーしていたが、その目的を一度洗いなおしてみたほうがいいかもしれない。
初めて会ったとき、天使は藤木が死んだと言った。そして天国に連れて行くのが使命だと言った。藤木はその時、生まれて初めてテクノブレイクしていて、あっさりとその言葉を信じた。
しかしその判断は藤木の裁量に任せるという。普通、死ねと言われて、はい死にますと答える奴はいない。いや、いないとは言いきれないが稀だろう。なのに、藤木に任せては、そんなの一生断り続けるに決まっているではないか……こうなって見ると始めから、藤木を天国だかなんだかに連れて行くというのは、嘘だったと考えて間違いないと思われた。
じゃあ、一体何を目的にしていたのだ? 彼女は……
思い当たるのは彼女の能力であるが……彼女は、他人の記憶を操作して、忘れさせたり、何か別のものに振り向けたりしていたらしい。その結果、藤木の周りでは、様々な人たちが記憶を無くしたり、今回の天使=小町のように、記憶を挿げ替えたりされていたようである。
思い返せば、記憶の混乱が見られる人物は、基本的に学校の人間に限られていた。特に、藤木のクラスメートに顕著で、立花倖の話に拠れば、教師は特に影響を受けていなかったそうだ。そして、晴沢成美はすっからかんになったが、小町は何もかもを覚えていたり、中沢が段階的に忘れていったり、かと思うと玉木老人は普通に覚えていたり。
これらの傾向を踏まえて、どうやら記憶を操作されていたのは、天使と藤木を中心とした交友関係と見て間違いない。天使と物理的に距離の近いクラスメートがほぼ全滅。次に藤木と交友関係の深い友人たち。この順番に消されていると見て間違いない。
こんなことをして何になるのか……せいぜい、藤木が不安になるくらいだが……
「ん……?」
そうか、不安にさせていたのか。
思えば、天使はことあるごとに、誰かを助けるな、世界に介入するなと言っていた。もう藤木は死んでしまったのだから、誰かに影響を与えてはいけない。それは本来ありえないことだからと。だから自分のためだけに生きろと。
天使は藤木にそう思い込ませるために、周囲の人間が離れていくように仕向けた……藤木が何か人助けをしたり、誰かの人生を左右するような出来事に介入することを嫌った……そう考えれば辻褄が合うのではなかろうか……
「いや、しかし……」
だったら、これはなんだ? 藤木は押入れの中で見つけた紙切れを手にした。そこには、『問、究極のオナホを壊したのは誰か?』と書かれている。
これを残したのは状況的に天使で間違いないだろう。そして、この紙切れに従うのなら、藤木は白木兄妹の問題に首を突っ込まなければならない。それは、今しがた立てた仮説と矛盾する。
「……があ! わっけわかんねえー!!」
ガシガシと頭を引っかいて、藤木は紙切れを投げ出すと、今度はスマホを取り出した。そして、ここのところすっかりお馴染みになった電話番号を呼び出し、
「もしもし? ユッキー? おれおれ、孫のたかしだけど」
「喧嘩売ってるの、あんた。孫が居るような年じゃないわよ」
出てきた倖に、殆ど投げやりな口調で言った。
「じゃあ、あんたが耄碌してないか俺に証明してくれないか。天使のことは覚えているか? 俺の可愛い可愛い種違いの妹。戸籍上では実の妹……字面だけだとマジ、スペックたけえなあ、おいっ!」
倖に相談するつもりで、取りあえず彼女のことを覚えているだろうかと聞いてみた。藤木の母親と同じように、忘れている可能性が高かった。その場合、どこから説明すればいいだろうか……
そもそも、本当に彼女に相談すべきことなのだろうか……そこから見直したほうがいいかも知れない……などと、あれこれ考えながら返事を待った。
しかし、藤木の心配は杞憂で、倖はあっさりとこう答えた。
「あたしの受け持ちのクラスの子で、あんたの偽の妹でしょう……何よ。またなんかあったわけね?」
「……覚えてるのか?」
繋がった……藤木は溜め息を漏らした。
その溜め息は自分と記憶を共有している人が居て、ホッとしたのと、それとも、またロクでもないことが起きる前兆であると、警戒してるのと……二つの気持ちがない交ぜになったものだった。
ただ、一人でも味方が居るのは心強い。藤木は、天使が残したメモを改めて見直した。しゃくだが、他に手がかりが無い。
「少し、知恵を貸して欲しい……」
そしてふと、父親のことを思い出し、また偽者と会話していたらことだと思い、
「電話だとなんだから、直接会って話せないか?」
と言った。
すると間髪入れず窓の外から、ファーーーン……と、クラクションの音が聞こえてくる。
何事か……? 窓を開けて外を覗き見ると、見覚えのある白い車が止まっていた。藤木はポカンと口を開いきながら言った。
「……あんた、何やってんの?」
「あたしが焚きつけた以上、何かあったら寝覚めが悪いでしょう。見張ってたのよ……で、何かあったの?」
「はっは……」
何だか溜め息にも似た笑いが出た。そういえば、そういう人だった。邑楽のマンションでも見かけている。結局、似たもの同士なのだ。
藤木は苦笑いすると、スマホを切って、玄関から家を出た。




