水も滴る……
言われて見れば確かにそうだ。天使はおかしい。
あの日、藤木がテクノブレイクしたその直後にやって来て、何もかも見透かしたようなことを言って、当たり前のように住み着いた。幽体離脱と言う異常現象に説明をつけてくれる存在が、彼女以外にいなかったから、ほぼ無条件に彼女の言うことを信じていたが、よくよく考えてもみれば、それが嘘か本当かなんて判別しようがない。
大体、自分のことを天使だと言うが、その証拠など何一つないではないか。なのに、藤木は彼女がそうであると信じ込んでいた。もし、彼女が嘘をついているのだとしたら……?
しかし、それじゃ何が目的だと言うのか……考えても、さっぱり分からない。そもそも藤木を騙す道理がない。いや、あるのかも知れないが、ぱっと思いつく限りそんなものは見当たらない。ただ、テクノブレイクした直後に来たという状況から判断して、彼女はあの日、藤木がテクノブレイクをすることを、事前に知っていた節がある。それは何故か?
もしかして……テクノブレイクは彼女によって引き起こされた?
彼女には催眠術の他に、何か能力があるのではないか……?
しかし、何故そんなことをする必要があるんだ。さすがにこれは飛躍しすぎか……
そういえば、彼女の見た目は小町に似ている。小町が関係しているのでは?
思い返してみれば、藤木以外に唯一テクノブレイクしたのは小町だけだ。
いや、しかし、それも天使の能力をもってすれば、騙すことは可能である。
天使の能力は催眠術と言うか、記憶操作だ。あったことを無かったものにする。
なら、逆に無かったものをあったと見せかけることも可能だろう。
しかし……それじゃもし、藤木が既に記憶操作されていたとしたらお手上げだ。
何が本当で何が嘘か……判別のしようがないではないか。
そもそも、彼女が嘘を吐いているとしても、それが悪い嘘とは限らない。
ここ数ヶ月一緒に暮らしていた限りでは、天使は邪悪なものとは思えない。
それは家事を率先してやったり、母に対する姿勢を見ていれば分かる。
だが、このいいようの知れぬ違和感はなんだろう……
あいつは一体何を考えてるんだ……?
一度、話し合ってみるべきだろうか?
でもそんなことして、もし記憶操作されたら……
いや、しかし……
藤木はブルブルと頭を振るった。駄目だ。上手く考えがまとまらない。
立花倖の背中を見送ってから、藤木はネオンの海をあとにすると、来た道を取って返した。街道に出て、高速道路と併走する陸橋を渡って、北池袋へ帰ってくると、新垣ノエルのマンションにまで戻ってきた。
天使の不可解さを、ああでも無いこうでも無いと考えながら、エレベータに乗って7階へ着くと、いつものように廊下で腕カバーをはめた男がスパスパと苛立たしそうにタバコをふかしていた。
恐らく隣人である。昨晩、徹夜状態のおかしなテンションで、みんなで大騒ぎをしたせいで、壁ドンされたことを思い出し、男と目が会った藤木は愛想笑いをしながら、昨日のことを詫びた。男は少しむすっとした顔をしながらそれを聞き流し、もう良いからと言うと、藤木と入れ違いにエレベータに乗って階下へ向かった。
男と別れた藤木は新垣の部屋へと入ろうとドアノブに手をかけたが、
「……あら?」
鍵が掛かっていてドアが開かない。藤木たちが来てからは出入りが激しく、そのためずっと開けっ放しだったのだが……インターホンを押したところで、はたと気づいた。
「そういや、打ち上げしにいくって出てきたんじゃないか」
よそ事を考えすぎて、注意が散漫になっていた。藤木はコツンと頭を叩いてテヘペロし、スマホを取り出して諏訪に電話した。
諏訪の誘導に従って池袋の町を右往左往すること10分少々、藤木は築何年か定かでない、違法建築のような木造の建物の前に立っていた。
「またホルモンかよ……」
赤提灯に、油の染みこんだ暖簾。風が吹くたびにガタガタと音を鳴らす、年季の入った窓を横目に、引き戸を開けて店内に入ると、よれよれのスーツが肩を寄せ合いチビチビとやっている、5~6坪くらいしかないカウンター席の奥に、二階へと上がる坂のような階段が見えた。
待ち合わせを告げて二階へ上がると、申し訳程度の三和土があって、すぐに座敷が広がっていた。
「おお、同志藤木よ、やっと来たか。上がれ上がれ」
先に来て既に出来上がってるらしい新垣が上機嫌で藤木を手招きした。諏訪がビー……じゃなかった、何か黄金色でシュワシュワする液体を片手にベラベラと喋り、大原はそれを聞きながら何か麺類を食っていて、佐村河内は魚を解体している、いつもの光景である。
「……合宿は盛況のうちに終わってその帰り、打ち上げしようって友達の友達の家に集まったんだって。先輩も後輩も入り混じって、男子校だからノリが半端なくってさ。近所迷惑だからって何度も家人に怒鳴り込まれても、聞きゃしない。そのうちアルコールも入ってきてみんなへべれけになって、友達の友達も記憶が飛び飛びで、気がつきゃみんな折り重なるように雑魚寝になってたらしいんだわ。で、いつの間にか眠ってた友達の友達が深夜、うんこがしたくなって目が覚めた。暴飲暴食の限りを尽くし、未だにアルコールも抜けてないから、当たり前っちゃー当たり前だ、腹を抱えながら便所に向かったんだけど……便座に座って人心地ついたとき、そいつはふと肛門に違和感を感じた……あれ? 何かおかしいぞ? ……そう思った友達の友達は、トイレットペーパーを引き出して、恐る恐る、ケツを拭いてみた……すると……すると、そこには夥しい量の精液が!!!!!」
「うぎゃあああああああああああ!!!」「マ、マジかよ!?」「嘘だと言ってくれえええええ……」「お、おえええぇぇ~~~~~」「わあっ! トイレにいけ! トイレに!」
来てそうそうこれである。何の話をしているのかと問えば、暇つぶしに一人ひとり順番に怪談を披露しあっていたらしい……怪談て。
面子を眺めてみると、男ばかりで白木がいない。肛門を揉み揉みしながら訊ねてみると、
「白木さんなら帰ったよ。締め切り近かったらしくて、オナホなんて作ってる場合じゃなかったそうだよ。編集者っぽい人が来て引き摺られてった」
そういえば、あの人は一応プロの漫画家だった。ここ数日、彼女の株価が乱高下しててすっかり忘れてた。と言うか、月刊誌だから多少の余裕はあるだろうが、普段は学校に通いながらどうしてたのだろう。放課後はよく部室でダラダラしていたぞ……今度、機会があったら聞いてみよう。
「……ところで、それって市川のネタだろ?」
「あ、わかる?」
「わからいでか」
諏訪と話していたら、新垣が乗ってきた。
「市川とは、誰かね?」
「ああ、中学時代のうちらの連れっす。うちのサークルって、元々は5人で活動してたんですが……」
中学時代、部活動は全員参加とされた弊害で、やる気の無い者たちが集まってきた文芸部。多大なる暇を潰すためのネットサーフィン中に、エロサイトを巡りつくし、自分らでもなんかつくらね? とノリと勢いで結成されたのが、藤木たちのサークル・カワテブクロだった。
「最初は俺たちのほかにも二人居て、高校進学して生活サイクル変わったら、徐々にばらけてった感じです。市川ってのは他県の男子校に進学したんで、もう殆ど会うこともないですね……おっちゃん、ミノ!」
ギャグとホモネタを得意とする淫夢厨で、エロを描けといっているのに気がつけば男同士がオッスオッスしてるような、どうしようもない奴だった。本人は至ってノンケだったが、あまりにもホモネタが過ぎるので、男が好きだから男子校に行ったんじゃねえの? と冗談でよくからかわれていた。
しかし高校進学して数ヶ月、あるとき本物にカミングアウトされてから精彩を欠くようになり、どこにホモが潜んでいるか分からないから、ホモネタで笑いを取るのは極力控えたほうがいいよと、まるでアメリカ時代のなかやまきんに君みたいな顔で言っていたのを最後に会っていない。一体何があったのだろう。男子校怖い……
「そ……それは災難だったな。彼のご冥福を祈ろう。もう一人はどうしたのかね」
「ああ、もう一人は……」
諏訪は大原と目で会話してから言った。
「事故で……」
「それは…………そうか」
災難だったな、とか、ご冥福を祈る、とか言いそうになって、どうにか飲み込んだ感じだった。諏訪・大原・藤木・市川、そして天王台。5人で始めたサークルは、そうして半数が居なくなった。
しんみりしてても仕方ない、すぐに気を取り直して、藤木たちはまた馬鹿話で盛り上がった。それにしても、以前、白木に連れられていった神田の店もそうだったが、よくもまあ、これだけ安く飲める店を見つけてくるものだなと、感心するくらいその店は安かった。
打ち上げは全部おごりだと言っていたが、多分、5人分の会計を1人で払っても1万そこそこの金額だろう。地方の屋台とかならともかく、都心であることを思わず忘れてしまいそうになる。
中々やるな、ただの変態兄妹ではないと、モツをくっちゃくっちゃやりながら、いい感じに出来上がってきたところでお開きになり、藤木たちは千鳥足になりながら、マンションへと帰ってきた。
色々と考えねばならないことがあるのだが上手く頭が回らない。
昨日まで、ほぼ不眠不休で作業していたせいもあり、とんでもなく眠気を感じていた。これじゃしょうがないので、今日はさっさと寝てしまおうと考えていたら、目をらんらんと輝かせた諏訪と大原が究極のオナホを使う順番で醜い争いを始めた。
そういえばそうだった。夕方に新垣が使ってしまったから、現在は除菌中であったが、時間的にももう十分であろう。
しかしおまえらオナホで穴兄弟になってしまうのか? それはどうなんだ……と、未だにアレがたたない藤木は思ってしまうのであるが、もはや性欲に支配された諏訪と大原は考えも及ばないようである。佐村河内は大人しかったが、多分、性器の断面図のことでも考えているのだろう。まあ、いいか。余計なお世話だ。
しかし、こいつらがオナり出すと、いろいろ五月蝿くて眠れないだろう……昨日は七条寺まで帰ったが、家には寄らなかった。暫く家に帰ってなくて母親も激おこみたいだし、そろそろ一度戻ってみようか、天使のこともあるし……と、帰りをつげるタイミングを見計らいながら、みんなで新垣の部屋に戻ってきたときだった。
「……ん? なんだこれは……」
玄関で靴を脱いで廊下に一歩足を踏み入れた家主がボソッと漏らした。その声に視線を上げると、ぐちゃっとした音と共に、新垣の靴下が濡れているのがわかった。というか、廊下自体が水浸しである。
「こりゃいかん!」
恐らく、風呂場の水か何かが出しっぱなしなのだろう。大急ぎで室内へ飛び込んでいく家主をよそに、靴下を濡らしたくない藤木たちは、玄関でぼーっと立ち尽くしていた。
「つか、誰かシャワー使ってたっけ?」
呟きに答えるものは居ない。藤木の記憶が確かなら、そんな奴は居なかった。それじゃなんで水浸しなんだろう? と疑問に思ってると、当てが外れたといった顔の新垣が風呂場から戻ってきた。そして、
「おかしいな……」
と呟きながら、リビングの扉を開いて固まった。
「ほ……ほわ……ほわわわわああああああああ~~~~~~!!!!???」
一見すると、ふざけてるとしか思えないような、裏返った気の抜けた声を発しながら、彼は何かを見つけると、腰を抜かしたかのように、その場にへなへなと膝をついた。
バシャッと音を立てて、水しぶきが飛ぶ。
流石にここまで来ると、何か良からぬことが起きたことは明白だった。藤木たちはお互いに顔を見合わせると、急いで靴を脱いで室内に駆け込んだ。クッションフロアのカーペットが水を含んで飽和し、バシャバシャと音を立てる。そして、藤木たちは愕然と頭を垂れる新垣の背後からリビングの惨状を目の当たりにし、
「な……なんじゃこりゃあああ!!」「うわああああああああ」「馬鹿なっ! そんなっ、馬鹿なああ!!!」「うっそだろおおおおおお!?!?」
4人それぞれの絶叫が、思いのほか厚かった壁に反響して木霊した。
リビングはぐちゃぐちゃだった。
パソコンの部品が散乱し、あちこちに無残に転がっている。書類の束がぶちまけられて、水浸しの床に触れてよれよれになっていた。それはインクが滲んで、もはやその内容を読むことすら出来ない。
藤木たちが作業をしていた机も、新垣が普段使っているパソコンラックも倒されて、元から足の踏み場も無かった室内は、更に人を寄せ付けない魔境と化していた。
誰がこんなことをしたのかは分からない。しかし、その惨状を見れば、何者かが悪意を持って行ったことだけは明白だった。
そして……男たちの夢の結晶。究極のオナホはそんな中で……ひときわ無残に破壊され、ジャンクの山に叩きつけられるように捨てられているのだった。




