可愛くって、少し嘘
池袋(生主)による究極のオナホ実演販売は、運営に消されること複数回という大盛況のうちに終わり、製作スタッフであるところの男たちを喜ばせた。
しかし、彼らは始めこそはお互いの健闘を称え合ったが、暫くするとすぐさま血で血を洗う抗争に発展した。
「次は俺が使う!」「いいや、俺だ!」「馬鹿野郎、俺に決まってる」「お前は右手でも使ってろ!」
ぎゃあぎゃあとわめきながら、凄惨な殴り合いを続ける男たちを、立花倖は気の毒な者でも見るような目で眺めていたが、意外にもその不毛な争いに藤木が加わっていないことに気づくと、
「あんたは参加しないの?」
「おう、まあね、俺はね。役立たずなんでね」
「……?」
なんのこっちゃと首を捻っていると、ガチャリと扉が開いて白木の兄、新垣ノエルが眼の下にクマを作りながら入ってきた。
「喧嘩は止したまえ、諸君。どちらにせよ、すぐには使用不可能だぞ」
「そんな殺生な!」「どうしてですか!?」
「我々のオナホは、非貫通型だ」
「そうだった……」「くぅ……」「どうしてコンドームを着用しないんですか」
「現状のオナホコントローラでは、未だコンドーム越しでの操作は難しいからな。おちんちんの繊細な動きが感知できないのだ。それに、見た目はゴムの塊だが、その実ハイテク機器のオンパレードなのだ。メンテナンスも慎重を期さねばあっという間に壊れてしまう。今は工業用アルコールで滅菌処理をしているが、今後はこの点も改良せねばなあ……タチバナ先生は何かアイディアありませんか?」
「あんたたちが死ねばそれが一番良いと思うわよ。少なくとも汚れないし、大気汚染も止まって一石二鳥よ」
倖はガリガリと頭を掻き毟りながら、
「ああー! 何だか本当に脳みそが痒くなってきたわ。もういいでしょ? そろそろ帰らせてもらうわよ」
「そうおっしゃらずに……そうだ! これから完成のお祝いに、打ち上げといきませんか? 奢りますよ。もちろん、同志たちの分もだ!」
「お兄様、よろしいんですか? 普段からお金がないお金がないっておっしゃってるじゃありませんか」
「なあに、我々の発明はもはや売れたも同然。前祝だと思えば痛くないさ」
その言葉に大喜びの諏訪たちとは裏腹に、倖は面倒くさそうにぼやいた。
「例えそうでも結構よ。一応、あたしこれでも社会人なのよ。たまたまお盆休みだったから良かったけど、本来ならこんな風にあんたたちと遊んでる暇なんてないんだからね。まったく……さて、それじゃ今度こそ、本当にお暇させてもらうわ」
「そうですか……残念ですなあ……藤木君、送ってさしあげたまえよ」
「言われなくてもそうしますよ」
「いいわよ別に、子供じゃないんだから。一人で帰れるわ」
「あんた、その格好でラブホ街歩いてたら、警察がすっ飛んでくるぞ」
そういわれて倖は自分の格好を見た。何度も何度も、暴れたり羽交い絞めにされたりしたせいで、せっかくの晴れ着がグチャグチャであった。着付けなど分かるわけもなかったので、帯も何もかも適当に締め付けてある。
「……いいわよ、タクシーでも捕まえて適当に帰るから」
「お金がもったいないですよ。藤木君、すぐそこの陸橋から東口に回りこめるから、そっちから駅にお連れしたまえ。途中にいくつか衣料品店もある。領収書を貰ってきてくれれば、そちらも私が支払おう」
「わかりました」
「それでは、我々も出ようじゃないか。近所にいい店があるんだ。飯は美味いし、酒も安い。いくらでも飲めるぞ」
そして藤木たちはゾロゾロと家から出た。大人数で移動していたせいで、エレベータに一度に全員は乗れず、二回に分けて下に下りることになった。白木兄妹たちを先に行かせて、藤木は二回目に回ったのだが、一階に着いてエレベータの扉が開いたら、先に下りていた新垣が乗り込んできた。
「すまんすまん、鍵をかけ忘れた」
普段は外出しても近所のコンビニくらいまでなので、鍵をかける習慣がないらしい。
倖がイライラしていたので、手持ち無沙汰に彼を待つ集団に別れを告げ、藤木は彼女と一緒に駅へと歩き出した。
真夏の夜は蒸し暑く、百メートルも歩けば汗が噴出した。倖はそんな中、見合い用の晴れ着などを着ていたので、更に難儀しているようだった。おまけにその着崩れが目を引くものだから、道行く人々がじろじろと好奇の視線を浴びせていく中を俯いて、ぜえぜえと息を切らしながら歩いている彼女を見て、さすがに気の毒に思った藤木が彼女の手を取って、視線から隠すようにガードしたら、
「別に気を使わなくてもいいわよ、似合わないし」
「気くらい使うだろ、俺をなんだと思ってんだ」
「なんだって、藤木よね……でも、何かしら? あんた、暫く見ないうちに少し感じ変わった?」
これを言われるのは何度目だ。
「別に何も変わってねえよ」
「そう?」
倖はつながれた手をニギニギと握り返してきた。
「少し前なら、こんなことされたら身の危険しか感じなかったはずよ。今頃、妊娠させられるって、道行く人々に助けを求めてるところだわ」
「俺の印象最悪っすね! ったく……いいから、早く行こうぜ」
ぐいっと引っ張ったら、慣れない着物のせいでバランスを崩した倖が胸に飛び込んできた。さすがに恥ずかしかったのか、彼女はぐいっと手で藤木を押しのけると、
「ちょっと、あんまり近づかないでよね……」
「あんた一人で歩かせたら、マジで荒ぶる新成人にしか見えないんだから、諦めろよ。警察すっ飛んでくるぞ」
「全部あんたたちのせいじゃない……もう。昨日、シャワーしてないから臭うのよ」
「そうか? 別に臭くねえよ」
そういうと、藤木はまるで少女マンガのイケメンのように、ひょいと倖の髪の毛に顔を近づけた。その動作があまりにも自然だったせいで、倖はドキリとして固まったまま、動けなかった。抗議しなければと思うのだが、赤く染まる頬がそれを許さない。せいぜい出てきたのは、控えめな拒絶の言葉だけだった。
「ちょ、やめ、やめてよね?」
「ん? ああ、悪い悪い」
「……おかしい、藤木なのに……」
その台詞も何度も聞いたな……などと思いつつ陸橋を進む。生ぬるい風と共に、埼京線と東上線が競争するかのように通過していった。駅の真っ白な照明と、色とりどりのネオンが重なって見える。
衣料品店に着崩れをおこした晴れ着の女と入店したら、ぎょっとした顔をされた挙句に睨まれた。君は誤解している。断じて悪いことは何一つしていない……してないよな? したか……けど、多分店員が考えているようなエロいことはしてないので、堂々と洋服を着替えたい旨を伝えて快く承諾を得た。別にそこまでしろとは言ってないのだが、晴れ着が皺にならないようたたんで、大きめの袋にも詰めてくれるらしい。至れり尽くせりである。
「にしても、ユッキーって本当に天才だったんだな」
Tシャツを前にソワソワしている彼女に、この辺とかどうですかと店員のように勧めながら藤木は言った。
「なによ、改まって」
「愛ちゃんに聞いても嘘くせえとしか思わなかったもん」
「はあ? あんた、まさか信じてなかったっての? 自信満々に全力で寄生してやるとか言ってたじゃない……」
その場面を思い出し、倖は顔が熱くなるのを感じた。しまった。やぶへびだった。しかしおかしいぞ……どうして藤木ごときをこんなに意識してしまうんだろうか……対して藤木の方は自然体で、
「お兄さんとのやりとりや、実際にプログラム組むまで嘘だと思ってたよ。だって、普段のユッキー知ってたら、絶対信じられないって。さすがにもう信じざるを得ないが」
「オナホ作りで認識されても、屈辱しか感じないわよ……」
倖は奥歯を噛みしめて嘆いた。
「大学でもやっぱりコンピュータープログラムとかやってたの?」
「まさか。コンピュータはあくまでついでよ」
「そうなの?」
「海外で研究者やるなら、英語とコンピュータは必須科目よ。出来て当然、求められるのはその上よ、上」
「ふーん……すげえんだな」
「別にそんなでもないんだけど……日本人って何故か英語とパソコンにコンプレックスあるわよね。出来るって言うと、みんな大概誉めてくれるの。でも、肝心の研究の話をすると笑い出すのよ。むかつくわ。あれ、なんとかならないかしら」
「俺に言われてもなあ……笑われるって、何をやってたの?」
少なくとも、オナホでないことは間違いないが……何の気なしに聞いてみたら、凄い言葉が返ってきて、藤木は思わず笑ってしまった。
「多次元世界におけるカルツァ=クライン理論の再論考と、ディメンション間の重力相互作用による対象性の自発的破れに関する諸推論」
「はあ?」
「ほら見なさい、あんた今幼稚園児でも見るような優しい目で笑ってるわよ」
「いや、何言ってるかさっぱり分からんから……もう少し分かりやすくお願い」
と言うか、日本人特有のアルカイックスマイルが嫌いなのか、この人は……面倒くさい。
「分かりやすくいうと……笑わない?」
「笑わんて」
それでもぶつぶつと言いながら、ジーンズを手にとって眺めていた。何かよほど嫌味でも言われたのだろうか。ともあれ、ジーンズはなかろうと、手を引っ張ってスカートの売り場に連れてきたら、露骨に嫌そうな顔をした。
そして口を尖がらせながら、彼女は言った。
「要するに、パラレルワールドの研究よ。無数に存在する平行宇宙を観測し、あわよくば介入したり、通信したりしてみたいと思ったの」
「はあ?」
笑わないと言ったが、思わず溜め息みたいな苦笑が漏れた。
「ちぇっ、やっぱり笑うじゃん」
「いや、だって、パラレルワールドって、あの? 漫画やアニメなんかに良く出てくる……」
「多分、そのパラレルワールドよ。ドラえもんの秘密道具にさ、もしもボックスってのがあるじゃない。あんなのが作れないかなって、思ったわけ」
たまに、どこでもドアやタイムマシンを作るという狂人がいたりするが、倖もその手の人だったのか……
「あんた、失礼なこと考えてない? あのねえ……もしもボックスってのはあくまで例えよ……それに、パラレルワールド自体は、科学的にもその存在の可能性は否定されてないの。寧ろ、あると仮定する宇宙論が最近の主流ですらあるんだから」
「マジで?」
「マジよ、マジマジ。って言うか、科学者って昔からこんなもんよ。夢みたいな空想ばっか考えてて、それがどうにか現実と折り合いつかないかなあ……なんて、引きこもりニートと大差ないような考えから出発してるのよ、大抵は」
「ひでえ言い草だな……それに自分も当てはまるって分かってて言ってるのか」
「う……」
迂闊である。頭がいいのか悪いのか、よく分からない人だと苦笑いしつつ、
「で、ユッキーはどんなんやってたの? えーっと、なんだ、なんとかかんとか理論ってのは」
「カルツァ=クライン理論よ」
ロングのフレアスカート、最終候補を二つに絞って、倖はどっちがいい? と問いかけながら、話を続けた。
「カルツァ=クライン理論ってのは、元々は振る舞いの似ている重力と電磁気力を統一的に扱うために、世界は5次元時空からなると仮定した理論なの。あたしたちの世界が、実は認識してる4次元時空よりも、もっと高次元の世界の一部だったって考えたわけね。で、そう考えてみたら、今まで別物と考えられていた物理現象が、実は一つの理論で片付けられるようになって、都合がよかったの。でも、それを実証するのは困難で、机上の空論であると一度は忘れ去られたんだけど……超弦理論って知ってる?」
「名前くらいは……いや、どういうものかはさっぱりだよ?」
「まあ、そんなもんよね……素粒子を扱った理論なんだけど、ともあれ、その超弦理論においても、高次元で素粒子が量子化できるってことが発見されてね、これまた都合がいいからって、一気にカルツァ=クライン理論のような、高次元モデルが再評価されるようになったの」
「……都合がいいからって?」
「そうよ」
「そんなんでいいの?」
「もちろん。矛盾がなければ。で、あたしたちの世界はこの多次元世界の一部で、あたしたち自身は4次元時空に閉じ込められてるから、高次元に干渉することは出来ないんだけど……唯一、重力だけが5次元より上の世界に伝播することが可能だって分かってきたのよ。つまり、逆に考えれば、重力は5次元世界を通って、無数の4次元並行世界に干渉できるってわけ。ただ、残念ながら重力子ってものは未発見だから、現状ではどうしようもないんだけどね」
花柄のスカートを指差すと、倖はそれとTシャツを持って試着室に入っていった。一人で着物脱げるのかな? と思ったが、脱ぐだけなら問題ないらしい。衣擦れの音がする中、お構い無しに彼女は話を続けた。
「はあ……なんか楽しそうだけど……言ってる意味がさっぱり分からないや。そもそも、5次元時空ってのは何なんだ? 意味不明じゃね?」
「そりゃそうね。あたしたち自体が4次元の生き物だから、5次元時空を認識することは不可能なのよ」
「なんだ、じゃあ考えるだけ無駄じゃねえの?」
「思考実験くらい出来るでしょ。例えは……そうね。今、目の前に球体があると仮定する。ところで、その球体を適当にナイフでカットすると、その断面図は2次元の平面になる。別の角度でカットしたら、また別の平面が現れる。また別の角度なら、別の平面が……こんな風に、一つの球体は、無数の二次元平面によって作られてるって考えることが出来るでしょう。この考えかたを高次元に当てはめてみるの。今、目の前に4次元の球体があると仮定する。その4次元の球体をカットすると、3次元の平面が現れる。別の角度で切ればまた別の……こんな具合に、4次元の球体は、無数の3次元の平面で構成されるってわけ……更に、5次元は? 6次元は? 7次元は?」
「なるほど……わからん」
「要は、n次元は、無数のn-1次元で構成されるって考えればいいのよ。それによると、5次元時空には、無数の4次元時空……つまり全てのパラレルワールドが存在して、好きにアクセスすることが出来るわけ。なら、もし5次元に干渉することが出来れば? 他の宇宙に介入出来ないかなって考えて、そういう研究をしてたわけ」
「なるほど、それは分かった……で、どうだったの?」
「ん?」
「出来たの?」
「馬鹿ね。出来るわけないでしょ。出来たらノーベル賞ものよ」
「そりゃそうか」
シャッと試着室のカーテンが開いて、服を着替えた倖が出てきた。せっかくの晴れ着をグチャグチャに脱ぎ捨てているのを見て、店員が引きつった顔を隠そうともしないで、それを丁寧に取り上げた。
「どう? 似合う?」
「まあまあじゃねえの」
「そう? 可愛すぎないかしら……」
「可愛くってなんか問題あんの?」
倖は藤木の顔をじっと見つめた……なんだ、このプレッシャーは。
「自覚ないんでしょうね……まあいいわ。それじゃ、これ買って頂戴」
「あ、はい。領収書ください」
倖が脱ぎ散らかした晴れ着を丁寧に畳んでいる店員に、申し訳程度に会釈して、藤木たちは洋服を買うと店から出た。
七条寺のような地方都市とは違い、都心の繁華街はお盆でも混雑しており、スーツを着た酔っ払いの数々を見ていたら、まだこれだけの人たちが休みもなく働いてるんだなと思い辟易した。
自分もいつかそうなってしまうんだろうか……いや、そういや、自分は死んでるんだったっけ? あれー?
プルプルと頭を振るってから、気を取り直して藤木は言った。
「つか、それでか……」
「なによ?」
「いや、ユッキー、俺が便所で死んでたとき、割とすんなり信じてくれたじゃない。幽体離脱してる、実は死んでるって」
「ああ……信じるって言うか、そう考えれば矛盾が無かったってだけよ。それが?」
「えらい柔軟性あるんだなって思ったんだ。普通ならこんな荒唐無稽なこと、まず疑ってかかるだろう?」
「そうね……確かにそうね……」
「そういう研究してたから、免疫が出来てたんだろうな、きっと」
「そう……かしら……」
呟くようにそういうと、倖は沈思黙考するかのように、眉を顰めてじっと地面を見ながら歩き始めた。
黙々と歩く彼女に対し、何か気になることでもあるのだろうか? そう思い、話しかけないでその後ろをついていくと、やがて駐車場と雑居ビルの間の狭いスペースに、挟まるような格好で露店を出す外国人の顔が見えた。
キラキラとネオンを反射して輝くそのアクセサリーに気を取られて足を止めると、
「買ッテッテヨ。欲シイノアッタラ作ルヨ」
と、声をかけられた。
「ふむ……」
オーダーメイドはともかく、いくつか気になるネックレスを取ると、
「これいくら?」
外国人と交渉し、更に二つのネックレスを一つにまとめて、まけるだけまけてもらって一つのネックレスを購入した。レザーとビーズとワイヤーアートで作られたそれは、どこにでもありそうなチープなものだったが……
「あ、おい、こら!」
「ぐえぇ……!」
立ち止まった藤木に気づかず、先に行っていた倖の首根っこをふん捕まえると、げほげほと咽ながら抗議する彼女の首に、彼は今しがた買ったばかりのそれをかけた。
「……なにこれ」
「首元が寂しかったからな、お礼もかねて」
「お礼をされるようなことは……いっぱいしたわね」
倖はそういって、首にかけられたそれを手にとってマジマジと見ながら、
「これ、可愛すぎない?」
「いや、だから可愛くっても問題ないだろう」
苦笑しながら、それを受け取った。しかし、その表情が優れない。
藤木は、何かまずいことでもしたのだろうか? と思い、
「どうしたん? なんかおかしかったか」
「いえ、違うのよ……さっきから、なんだか頭が痛くってさ……」
偏頭痛の人がするように、こめかみに指を当て、眉を顰めた。
暗くてよく分からなかったが、よく見るとその顔は青ざめている。目の毛細血管が血走り、ピクピクと眉毛に浮き上がった血管が震えていた。藤木はギョッとして問うた。
「お、おい? 大丈夫か?」
「だい……じょうぶ……大丈夫よ」
どうみても大丈夫そうではないのだが、それよりも気になることがあるらしく、倖は藤木に尋ねた。
「それより、あんた、妹が居たわね……」
「妹? ……ああ、天使のことか?」
「てん……し?」
「ああ、戸籍上では、天使と書いてエンジェルと読む。つか、知ってるだろ。自分の受け持ちなんだし……」
「違う、そうじゃなくて……そう、あんたが死んだっていう日に、彼女は突然現れたのよね……? そして、自分は天使だと名乗った」
「ああ、それが?」
倖は一段と痛みが増してきたのか、突然、自分の頭をガンガンと叩くと、痛みに耐えかねたかのように蹲った。
「おい! ユッキー! 大丈夫か!?」
驚いてしゃがみこむ藤木を手で制し、倖ははあはあと息を荒げながらも、
「……大丈夫。今ので最後よ……逆に頭が冴えてきたわ。くっそ……やられたわ。あたしも、どこかで干渉されたのね」
「何の話だ?」
「あんたの言うとおりよ。普通なら、疑ってかかるでしょう?」
「え?」
「あんたの妹はおかしい……」
倖は額にびっしりとかいていた、玉のような汗を拭いながら言った。
「ある日突然やってきた子が、私は天使ですなんて言っても、普通なら疑ってかかるでしょう……どうして、すんなり受け入れているのよ。あんた、そんなキャラだった?」
ポカンと馬鹿みたいに口を開いて、藤木は言った。
「え? いや、だって……あいつ、色々力持ってるよ? 催眠術の他にも、なんか不思議空間作ったり、死後の世界にも詳しいし」
「……催眠術はどうやら本物ね……でも不思議空間ってのは、ただの手品だったり、それこそ催眠術の暗示だったりしない? 死後の世界に詳しいって、それじゃ他の誰がそんなのに詳しいって言うのよ」
「それは……」
言われて、はたと気づいた。そういえば、何度か疑ったことはある。しかし、そのたびにそれ以上深く考えるのをやめていた……おそらく無条件に信じていた。
「幽体離脱なんておかしな現象に見舞われていたから、そういうものだって言われたらそう信じてしまったのかも知れないわね。今、あんたに起こってる、他人から忘れられるという現象も、彼女の催眠術をもってすれば、引き起こすことが可能なんじゃない?」
「いや、でも、催眠術かけたとしたら、とんでもない人数だぞ?」
「だから?」
「え?」
「だから、なんなのよ。何十人いようが、何百人いようが、何千人いようが、それが出来るか出来ないか、問題なのはそこでしょう」
藤木はぐうの音も出なかった。
「……全部嘘だとは言わないわ。ただ、一度疑ってかかってみなさい……いつだったか、あたしはそれを、あんたに指摘したかったのよ……でも、たった今まで忘れてた」
「…………」
「それじゃ、ネックレスありがとね……ごきげんよう」
倖はそれだけ言うと、晴れ着の入った大きなビニール袋を手に抱え、力強い足取りで駅のほうへと歩いていった。たった今まで頭痛がするといっていた弱々しさなど微塵もなかった。
藤木はその後ろ姿を呆然と見送った。
倖に指摘されたことは一つ、天使を疑え……
だが、考えることは他にも山ほどありそうだった。




