よし……見なかったことにしよう
翌朝、目覚めると頭がガンガンに痛かった。
クーラーを点けっぱなして寝てしまったからかとも思ったが、多分、昨日の夜遅くまで諏訪の家で発泡……じゃなくて気持ちよくなる液体をガバガバ飲んでいたのが原因であろう。
ベッドから起きて立ち上がると、地震でもないのに地面がぐらぐら揺れていた。体がべたべたとして気持ちが悪い。シャワーでも浴びようかと思い、廊下に出るとムワっとした熱気がまとわりついてきた。室内でこれだから外はどれだけ酷いのだろうか……
こんな熱気むんむんの中、リビングのドアが全開だった。多分、家人は外出中なのだろう。母はお腹が目立ってきたとは言え、未だにスーパーのパートをしている。藤木なんかは心配でオロオロしてしまうのだが、一度出産を経験しているからか、本人はケロッとしたものである。
リビングの時計をちらりと見上げれば、午後2時半。恐らく、日中で一番暑い時間帯であろう。その事実に打ちのめされると同時に、
「やべえな……待ち合わせまで時間が無いや」
今日は夕方から白木の兄に会いに行くという予定になっていた。昨日、究極のオナホの話をしていて、流れでなんかそう決まってしまった。正直、一夜明けて素面になると、なんでそんな約束しちゃったのだろうか? と後悔にも似た気持ちが襲ってくるのであるが……まあ、相当変な人っぽいし、冷やかし程度に会ってみれば、それなりにいい人生経験にはなるだろう……なるのか?
部屋に戻って下着を適当に見繕うと、藤木は風呂場に飛び込んだ。
シャワーを浴び終えて、ガシガシと頭を拭いていると、ピンポーンっと玄関の呼び出し音が鳴った。返事を返すと宅配便で、この暑い中ご苦労であると思いつつ、急いで服を着替えて玄関を開けると、なにやらでかい80サイズはありそうなダンボール箱を抱えた兄ちゃんが、汗をだらだら垂らしながら立っていた。
見るからに重そうなそれに尻込みしつつも、受け取ってみたら案外そうでもなく、中身はなんだろう? と思いながら受取証にサインをして、玄関の扉を閉めた。
あて名は藤木藤夫……つまり自分で、差出人を見てみれば、意外や意外、立花愛と書いてあった。
「って、なんで愛ちゃんが……?」
立花愛とは、藤木の担任教師である立花倖の妹であり、北辰愛の芸名で活動している現在人気急上昇中のアイドルである。最近、人が変わったかのように明るくなったとは専らの噂であるが、その理由は先々月の殺人事件に起因する。
藤木はその際、彼女と知り合い、事件を解決する一方で何度か連絡を取り合ったが、基本的には住む世界が違うので、事件が一段落したらそのまま連絡を取り合わなくなっていった。
最近、よくテレビで見かけるので忙しくなったのだろうと思っていたし、共通の知人である徳さんも何も言ってなかったから、このまま自然消滅的に関係がなくなるのだろうと思っていたのだが、どうやらそうでもなかったらしい。
その愛ちゃんが一体なにを送ってきたのか? と、小首を傾げつつ、藤木はでかいダンボールを自室に持ち込むと、ビリビリと伝票ごと破って開け……そして脱力するのであった。
中から、包装がちゃちなショッキングピンクを基調とした、二次元美少女が描かれたケバケバしい箱が、次から次へと出てくる。どれもこれも、肌色の筒状のものが入っており、過剰包装のせいで手に取るたびにゴロゴロと中で音がした。
箱の一番上にはワープロで出力されたっぽい手紙が一枚、ぽつんと置かれており、
『前略、藤木藤夫様。最近、暑くなりましたがお変わりありませんか。私は少し夏バテ気味です。先日は私の出演するラジオにお便りいただきまして、ありがとうございました。話には聞いていましたが、本当に藤木君のメールが読み上げられたときは、失礼ながら笑ってしまいました。共演者がいろいろと言っていましたが、あれはいわゆるキレ芸ですので、ご心配なく、また番組にメールいただけますと嬉しいです。本当は彼自身も藤木君のお便りを楽しみにしているのですよ……』
みっちりと隙間無く詰め込まれた箱から中身を取り出しながら、その手紙を読んでいたら、カラカラと音が鳴って部屋の窓が開いた。もわっとした熱気がカーテンの向こう側からあふれ出してきて、
「藤木? いるの? 入るわよ」
返事も待たずに小町が部屋に侵入してきた。
「コミケのとき話ししてたらさあ、みゆき先輩が言ってたんだけど……って、なに広げてるの? あんた、それ」
「オナホだ」
立花愛の送ってきたダンボール箱の中には、夥しい数のオナホが詰まっていた。
小町は、うっと絶句しながら後ずさった。
藤木はオナニーをした直後のおちんちん丸出しな姿を、幾度と無く目撃されている経験から、こういうときは下手に恥ずかしがったり感情を露にしたりせず、冷静に受け答えするのが一番であると承知していた。
「オナホの整理をしている。非貫通型はこっち、貫通型はこっち、人体造形タイプはあっち。それらの定価を、アマゾンレビューの星で割って、期待値を出しているところだ」
「あ、そう……」
「それで用件はなんだ?」
「えーっと……その、みゆき先輩があんたの担当した同人が一部足りないって」
「それなら、スケブのお礼にって白木さんに渡してただろう。足りないのはお前の脳みそだと言ってやれ」
「うん、わかった」
カラカラと音を立てて、小町が窓から出て行った。藤木は手紙の続きを読んだ。
『さて、お便りいただいた件ですが、オンエアでは相談に乗ることが出来ずごめんなさい。内容が内容ですし、共演者たちも本気と受け取っていなかったようですが、藤木君のことですから、多分わりと本気なんだろうなと思い、その後、独自にお力になれないかと友人知人に当たって調べてみました。同梱の商品は、その成果です。それにしても、話には聞いていましたが、男の子ってのは大変なんですね。これらの商品が、少しでも藤木君の参考になれば幸いです。また今度、お食事でも行きたいな。ではでは。かしこ』
「これは有り難い」
藤木はパンパンと拍手を二つして、箱の中身を床にぶちまけた。
それにしてももの凄い量である。藤木は器具に頼らないタイプなのでその価値を正しく理解できてないが、オナホは安いものでも確か一つ2~3千円はするはずだ。これだけの数となると、相当の資金が必要だったのではないか? ざっと見積もっても5万円は下らないように思える……
最後にお食事でも行きたいなどと書かれているが、満漢全席とか予約しないといけないのだろうか。あとで徳光に泣きつこう。
ともあれ、アイドルに貰ったオナホ(なんかそう書くとそれだけでプレミア感が増す気がする)をためつすがめつしていると、ポロリと一枚の写真が転がり落ちた。
なんじゃらほい? と、よく見てみれば、北辰愛がオナホを片手にピースサインを決めている写真だった。
何を考えてるんだ、あの人は。
これって、流出したら軽くスキャンダルなんじゃなかろうかと、爆弾でも扱うような気持ちで慎重に摘むと、机の奥底へと封印した。
そんな具合に、オナホを整理しているときだった。藤木は視界の片隅でそれを捕らえた。
「あ……」
『中国4千年の神秘。日本産最高級塩化ビニルモノマー100%。蒼井そらのマン型をあしらった至高の一品。職人がひだの一本一本を正確に再現。その名も金瓶梅』
パッケージに目の吊り上がった姉ちゃんの描かれた、他の商品と見比べても見劣りがするようなオナホが、沢山の商品の間に転がっていた。
「まさか、これ……至高の?」
数日前の親父の泣き言を思い出す。確か、蒼井そらがどうこう言っていたし、間違いないだろう。
夥しい量のオナホの中から、それを掴み取った藤木は、感嘆の息ではなく、凄くがっかりとした溜め息が漏れた。あれだけ大騒ぎしていたのだから、もっと凄いものが出てくると思ったのだ。
ところが、手にしてみれば、どこにでも有り触れた普通のオナホで、それどころか、その辺の下手なオナホにも劣りそうな残念なものであったのだ。いや、もしかしたら使用感は凄いのかも知れないが……
「しかし、こんなんで喧嘩するなよ……」と言う、両親への落胆と、「究極のオナホどうしよ。池袋(生主)とアポ取っちゃったよ……」と言う、今日これからの予定が頭の中でぐるぐると回った。
「よし……見なかったことにしよう」
藤木はオナホを元通りにダンボール箱の中にしまうと、机の下にそれを押し込んだ。
立花愛には申し訳ないが、これを参考に友達と究極のオナホを作ることにしたとでもメールしておけば、彼女の顔も立つだろう。と言うか、立ってどうするんだ、立って。現役アイドルのはずなのに、思い切ったことをする人である。藤木は彼女のその気持ちに感謝しつつ、その箱を封印した。
て言うか、マジで満漢全席とかどうしよう……
新宿から山手線に乗り換え池袋へ。北口改札から地上に出ると、北池袋のソープ街を越えて首都高に面した通りに、そのマンションはあった。
一見するとワンルームマンションのような趣であったが、上階にはファミリー向けの部屋もあるらしく、また、高速脇という立地から、防音にはそうとう気を配っているのだろう、よくよく目を凝らしてみてみれば、その重厚な作りに気づくに違いない。
藤木たちは昨日話をしていた変態、白木の兄のマンションにやってきていた。
地上12階建ての細長い建物を、あんぐりと口を開けて仰ぎ見る。
一人だけ、ベンツに乗ってきた白木に先導されて、エレベータに乗り込み、7階へ。乗り込んだのは、昨日の打ち上げの面子である、藤木、白木、諏訪、大原、そして佐村河内である。
7階へ着き、ポーンとチャイムが鳴って、エレベータのドアが開くと、眼下の高速道路の騒音がゴーゴーと耳に飛び込んできた。
白木に先導されながら狭い通路を進むと、廊下の奥に銀行員のような腕カバーをした男が、ぷかぷかとタバコの煙をふかしていた。彼は藤木たちが来るのに気づくと、急いでくわえていたタバコをもみ消して、藤木たちに道を譲った。喫煙者はどこにいっても肩身が狭いようである。会釈をしながら一番奥の部屋へ向かう。
その部屋の前まで来ると、白木はインターホンも鳴らさずに、手にした鍵でがちゃがちゃと部屋のドアを開けた。表札には何もかかっておらず、誰が住んでいるのか分からない、廊下の狭さも相俟って、宅配業者が嫌がりそうな部屋だった。
ここなの? と聞くより先に、白木は中にさっさと上がると、
「お兄様? いらっしゃいますか? お兄様」
と呼びかけた。兄ちゃんにも様付けか。すいすいと先を進む白木の後を追って室内に入る。
玄関脇の右手に洋間が一室、左手にはユニットバスがあり、その間を細長い廊下がリビングまで続いていた。
「いったい、どんな奴だろうな……」「ああ……」「いきなり全裸でオナってたりしてな」「ははは……まさか」
ここまで来たら、好奇心よりも何か得体の知れない恐怖心のようなものが先に立ったか、少し口数が少なくなった大原たちがぼやいていた。尤も、ネット上の噂だけを耳にしてたら、尻込みしないわけにも行くまい。
実際、まあ、どんな奴かといえば、結論から言ってしまえば変態だった。
期待通りの変態だった。
家主の返事がないので仕方なし、藤木たちは白木に続いてずかずかと室内に入ると、奥のリビングの扉を開いた。
開いて速攻固まった。
「安寿か。ちょっと待っててくれる?」
全裸の男がそこにいた。
彼は突然の来訪者を気にも留めず、なにやら、あそこに見知らぬ器具をぶら下げて、ふんっ! ふんっ! と鼻息荒く、天に向かって腰を突き上げていた。
白木はパタリと扉を閉めて、両手で顔を覆った。諏訪は腰に手をやって、地面を見つめた。大原は両手をポケットに突っ込んで、天井を見つめた。佐村河内は中指で眼鏡のブリッジをくいっと押し上げた。そして、藤木は床に四つんばいになると、サメザメと泣いた。
「うわっ! なんで藤木泣いてるの?」
いや、なんか、あの冷静な声を聞いていたら、小町の気持ちが分かったというか、遣る瀬無い気持ちがどっと溢れてきたのだよ。




