がんばれがんばれ
董家逮捕の翌日、少年の起こした連続殺人事件がお茶の間の話題になると、間もなく被害者であるはずの、藤後たちの噂の方が一人歩きし始めた。被害者ゆえに実名報道であったこともさることながら、方々から恨みを買っていた藤後の黒い噂は尽きず、ネットの匿名掲示板に挙げられた悪事の数々は、世間のショックと怒りを買い、そして格好の暇つぶし材料となって食いつぶされた。
ネットでは祭りが開催され、藤後の家にアナーキーな連中がウェブカメラ持参で押しかけては、通報されてきた警察といざこざを起こし、それがまた新たな暇つぶしのネタになってネットを駆け巡った。こうして藤後玲は死後、全国区となったのであるが、皮肉なことに殺人事件の犯人であるはずの董家の名前は話題に上りもしなかった。社会のゴミを掃除してくれて、寧ろGJと言ったところなのである。冗談ではない。
しかし、それもそのはずで、未成年者がどうこう言う前に、そもそも事件の動機が世間に発表されることはなかった。董家の凶行は、単に友人間のトラブルの一言で片付けられ、藤後玲と言う稀代の悪のキャラクター性もあって、それ以上は誰も突っ込んで考えたりはしなかったのだ。なによりも、原因となったレイプ事件は、その時点で無かったものとして処理されていたし、地元の不良連中の間でも噂としてしか知られてなかったのだから。
それが良かったのか悪かったのか……董家拓海は未だに言い訳を繰り返しており、反省の色はあまり見られない。
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事件からおよそ2週間が過ぎて7月に入った。連日の雨の谷間の蒸し暑い一日で、董家逮捕後数日は全校集会やらPTAを集めた説明会やら、マスコミ対応やらで大変であったが、これだけ時間が経てば授業も再開され、遅れを取り戻すかのように、駆け足の授業が続いていた。
不興を買いながら2年4組の補習も再開されて、藤木は毎日遅くまで残され、勉強漬けの毎日を送っていた。唯一の救いは全教室クーラー設置という環境であるが、それも足りない脳みそをオーバーヒートさせていては意味を成さず、その日もぐったりとした放課後を、彼は過ごしていた。
補習が終わると藤木は一人で教室を出て、下校する友達とは逆に、階段を上へと登っていった。行き先は電算機室。ガラガラと音を立てて扉を開くと、またいつかの様に立花倖が教室の奥のPCの前に腰掛けて、なにやらかちゃかちゃやっていた。彼女はちらりと視線を上げて藤木を確認すると、手を休めることなく、「入ったら?」と促した。
藤木は後ろ手に扉を閉めて、彼女の元へと歩いていった。
「また、バックドアとかなんとか仕掛けてんの?」
「失礼ね。悪さなんてしないわよ……ちょっと利用してるだけよ?」
「……もっとはっきり否定してくれないか。冗談のつもりだったのに」
ちらりと画面を覗き込むと、様々なウインドウがパッパカパッパカ切り替わっていて、何をやってるのかさっぱり分からなかった。
「つか、あんた、どうして英語教師なんてやってんの」
「ここの求人に、他の採用が無かったから」
「ああ、そう……」
まあ、多分そうなんじゃないかと思っていたが、
「始めから事件の内偵するために、ここに就職したのか?」
「……もっと時間掛かると思ったんだけどね。こんなことになるなんて」
去年、妹に不幸が訪れたとき、彼女はアメリカに居たらしい。母子家庭の母親とは折り合いが悪く疎遠であったが、事件発覚後、次女の立花愛から連絡が入り、彼女は激怒した。特に母親と醜聞を嫌う芸能事務所には腹が立ち、アメリカだったら訴訟だ、告訴だと息巻いたが、
「実際に、帰ってきて成実の姿を見たらそんな考え吹き飛んだわよ。やっぱりあたしも日本人なんだってつくづく思ったわ」
ただ、犯人はどうしても許せなかった。紆余曲折を経て、事件が事件ではなくなり、もはや彼らは犯罪者ですらなく、大手を振って往来を歩いていると思うと虫唾が走った。法が裁かないのであれば、いっそ自分が殺してやる。駄目なら社会的に抹殺してやる……
「そう思って、弱みを握るためにいろいろ調べてたんだけどね。邑楽や台場なんて、本当にチョロかったわよ」
「恐ろしいな、あんた」
「で、その過程で見つけちゃったのよ、例のビデオの存在を」
そのショッキングな映像に思わずパソコン(学校備品)を壊しそうになったが、寸でのところで堪え、代わりにその怒りを母親と妹の芸能事務所にぶつけた。
「おまえらが事件もみ消したんだろう、片手落ちもいいところじゃないの! って、怒鳴り込んでやったのよ。あいつら、そんなものが撮られてるとも思って無くって、急に青ざめてねえ……ほら、あたしがアクセス出来るってことは、ネットに繋がってるわけじゃない?」
拡散してはまずいと、調査していたら、藤後がとんでもないことをし始めて、慌てて○暴の方々にお願いして〆ていただこうと思ったのだが、
「逆襲にあって、ナイフで刺されて救急車呼ぶとか、情けないわよね、プロのくせに。それで、このざまよ……」
「なるほどなあ」
「だから、旧校舎で台場が死んだとき、あたしは藤後のことしか頭に無かった。良かったわ、ホント、たまたまあんたが居て……普通ならこのくらい気づきそうなもんなのに」
「まったくな」
「冗談よ。謙遜されるとムカつくわね」
「……ん?」
藤木が首を捻っていると、倖は話題を変えた。
「でも、董家が犯人だと分かっていたとして、邑楽殺害までは分かるけど、どうして藤原君まで狙われるってわかったの?」
「ああ、それは……」
邑楽襲撃のあと、なんやかやでトイレで蘇生されて、ショック状態から取り乱した藤木であったが、落ち着きを取り戻すと、すぐに藤原騎士が襲われる可能性を指摘した。
「邑楽が襲撃された段階で、俺はその時点でもまだ消息不明だった藤後の死を確信した。藤後、台場、邑楽には共通点があり、そのうちの二人が殺されたなら、もう一人もって考えだ。で、この三人の共通点ってのは、言うまでも無く去年の事件のことだろう。犯人はきっと、この三人に恨みがあったに違いない……でも、俺が刑事からあの事件の話を聞いたとき、董家の名前は出なかった。あれ、おかしいぞ? と。董家が三人を恨む理由ってなんだろう? 例えば、ユッキーやナイトなら分かるのに……って考えたときに、ピンと来たんだ」
「台場が殺された日、旧校舎に、彼を恨む人間が三人も一堂に会していた。この学校に、台場に対して恨みを持ってる奴が、一体何人いる? 偶然にしては出来すぎだろう……そう考えて、よくよく当日の出来事を思い出してみると、ナイトは董家に無理矢理連れてこられたんだよね。でまあ、怪しいなと。始めから、董家はナイトに犯人役を押し付けるつもりだったんじゃないかと」
「実際さ、例えば未だに犯人が見つかってないとして、藤後の死体も発見されてなくて、そんな時にナイトが藤後の死体のあるあの山で首吊りでもして、私が殺しましたなんて遺書を残していたら……どう思う? 信じちゃったんじゃないの? 少なくとも、藤後に関してはあの時点で、調べようが無かったからなあ、もう」
「……よく、それだけでそんなこと気づいたわね……あんた、人を疑いすぎるんじゃないの。将来が心配になるわ」
「ほっとけっつの……それにまあ、他にも理由があったんだ」
「理由?」
「邑楽のマンションに行く前に、董家と話す機会があってさ。その時に、ナイトの怪我は自分のせいだって……ベラベラ語り出したんだよ。だから、自分はあいつの分も頑張らないと……みたいな。同情買ってほしかったんだろうけど。どうにも信用ならなくてさ」
藤原騎士が立花成実を探して町内を走り回っていたとき、偶然出会った董家拓海が一緒についてきて、今まで見つからなかった成実が偶然見つかって、焦って追いかけるナイトを車が来ているから危ないと羽交い絞めした董家は、結局は力及ばず手を放してしまった。
「すでに旧校舎の犯人は董家だって分かってたから、穿った目でしか見れなかったのかも知れない。でも俺はその時、もしかしてこいつはナイトを殺そうとしたんじゃないか……って、そう考えたんだ」
早朝とは言え、大通りで車がビュンビュン飛ばしている……言い換えれば、車間は取れているということだ。ドライバーからすれば見通しも良かったろう。大通りなのだから、車線も複数ある。よっぽどタイミングが悪くなければ、そんなものに当たるもんか。
思えば、邑楽は董家に懐いていた節がある……台場は横柄で彼を困らせたそうだけれど、それって気さくに声をかけていたってだけじゃないのか。逃走中であるにも関わらず、藤後は彼の前に姿を現した。まるで仲間意識でもあったかのようだ。
こいつをどう思う?
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夏の甲子園予選が始まって、1回戦が一巡し、いよいよシード校が登場すると、市営球場は活気に溢れだした。
成美高校野球部はそんな中、誰からも相手にされず、初陣を迎えた。まるで日陰者のような扱いだった。一月前の殺人事件の記憶はまだ新しく、また、犯人が野球部員であったということは知られており、口さがない輩からは殺人高校との野次が飛んでは、部員たちを萎縮させた。部員たちの動揺も隠しきれず、県外から野球留学してきたものが大半の2年生はともかく、1年生は大半が退部届けを出して、夏が来る前に部を去った。
「エースは藤原で行く」
夏が来る前に藤原騎士は野球部に再入部した。リハビリは順調に進み、ようやく投げられるようになってはいたが、まだかつてのように全力とはいかない。しかし、それでも部に残った少ない投手の中に、彼以上の選手は居なかった。
夏の予選2回戦、成美高校と対戦校は共に0点と落ち着いた立ち上がりを見せたが、2回裏の相手高の攻撃で、早速ナイトが捕まった。
董家が居れば……と言う台詞は幾度も出た。彼が一体何をやったのか、良く知らない先輩部員たちは、みな一様に彼の不在を嘆いた。よく、犯人像を取材したら、そんなことするような人じゃなかったと定番のような答えが帰ってくるが、その仕組みが理解できたような気がする。どんな凶悪犯も、普段は周りに馴染んでいる。普通の人間なのだ。
実際、ナイトもどこまで相手を憎んでいいのか分からなかった。もしも自分が彼と同じ立場だったら……と弱気になるたびに、あの日、あの駐車場にいた先輩に、バシッと尻を蹴り上げられたことを思い出した。
同じ立場だったら、飛び込む前に警察に通報する。もしくは一人で飛び込まないか、誰かに相談くらいするだろう。忘れちゃいけないのは、おまえは殺されそうになったってことだ……そう言った先輩は、現在、がら空きの内野スタンドに座り、頬杖をついて試合を見ていた。
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「よう。ここ、空いてる?」
がら空きの内野スタンドの最前列に座っていたら、声を掛けられた。空いているも何も、どこもかしこも座り放題である。ナンパか何かかとも思ったが、成美高校の制服を着て、試合を撮影するためだろうか、グラウンドに向けてカメラを構えていたので、多分、野球部の関係者だ。同じ学校の制服を見つけたので、応援をしにきたのだろうと、挨拶してきたのだろう。
どうぞ、と言う前に、彼は席を一つ開けて勝手に座った。
「それにしても酷いもんだな。誰もいやしない。初戦ってこんなもんなの?」
「……平日ですからね」
学生なら、学校をサボるしか観戦に来るあてがない。しかし、それにしても客の入りが悪かった。選手の父兄や、暇そうなおじさんの一人や二人、もう少し居ても良さそうなのに。
「誰かの応援に来たの? 見たところ、中学生みたいだけど」
「えーっと、兄が野球部でして」
「へえ、名前は?」
「晴沢成美……」
言うと、男はけらけらと笑った。
「いや、兄貴の名前」
「あ……伊織です。あのキャッチャー」
2回のピンチを2失点で切り抜け、3回の表も散発の打線が援護出来ずに、その裏もまた点を取られた。相手校は決して強豪ではなく普通の市立高校であり、簡単に打たれるような相手ではない。怪我明けのナイトの球はよっぽど打ちごろなのだろう。
*
どの球を投げても打たれるような気がした。
怪我の影響で、どうしても最後に力を加える場面で躊躇してしまう。体が萎縮してしまう。ドクターストップももうとっくに解けて、日常生活で怪我の影響はまったくない。ただ、体の一部分にほんの少しの痛みが残った。その魚の骨が喉に突き刺さったような、些細な痛みが、全身のバランスをおかしくしていた。
額に滲んだ汗がダラダラと伝い落ち、瞼にかかった。じんわりと滲む視界の先で、しきりに腕を振れ、腕を振れとキャッチャーがジェスチャーを送ってくる。
帽子を取り、額の汗を拭いながら空を仰いだ。
真っ青な空には雲ひとつなく、夏の太陽がギラギラと焼けるように照り付けてきた。
その空に、キーンッ! っと、金属バットの快音が響く。
きっと逃げ場はどこにも存在しない。
しんどい……
キャッチャーのサインに力いっぱい腕を振ったつもりだったが、その球もまた楽々と外野に運ばれた。ちらりとベンチを見たが、監督はまだ変えるつもりがないようだ。
*
「駄目だこりゃ」
4回を投げ終えて7失点。対して成美高校の打線は沈黙し続け、ここまで散発の4安打、0点。そろそろ少しは点を返さねばといった5回の攻撃も、三者凡退という体たらくだった。守備に向かう選手たちからは、もうやる気が感じられなかった。
「一応、シード校なんですけどね……」
「こりゃ、この回か次の回でコールドかもな」
「そんなのまだ、ピッチャーが変わったら分かりませんよ」
「なるみちゃん、ピッチャー変わってほしいの?」
「…………え?」
一瞬、何を言われてるのか分からず、反応が遅れた。相手の顔を見ると、しまったと言ったバツの悪そうな顔をして口ごもっている。どうして、彼は自分の愛称を知っているのだろうか……なるみは少し気味が悪くなって、彼との距離を開けた。
*
5回裏の攻撃が始まり先頭打者をいきなり歩かせた。内野陣がマウンドに集まってきて、声をかけあった。ナイトは見るからに硬くなっており、もう限界が近そうに見えた。ちらりとベンチを見る。監督はまだ動く気が無さそうだ。
打たせて取ることを確認して、ゲーム再開。次の打者はショートのファインプレーで殺したが、その後は2連打を浴びて1点を献上。さらに犠牲フライを打たれて、いよいよ9-0と後が無くなった。2アウト2塁。内野陣が再度集まったマウンド上で、藤原騎士は真っ青な顔をして、肩で荒い息をしていた。
監督はどうせ変える気はないだろう。このチームはエースを失い、投手は全員1年生。さらに発足したばかりの野球部で、部員全員が2年生以下と来年があるのだ。思い出作りなどする必要はまったくない。どうせなら、負けるなら負けるで、きっちり最後まで投げさせた方がいいと考えているようだった。
キャプテンの松本は、いっそ自分が投げた方がいいかと提案しかけたが、結局は、
「まあ、来年もあるしな。気楽に行こうぜ」「この回押さえたら、絶対次の回点入れるからよ」「打たれても後ろは任せろ」「寧ろ打たせてけ、フライ上げさせろよ」
ゲーム再開したナイトの初球は、キャッチャーが立ち上がるほどのボール球だった。
しんどい……
つらい……
さっきから何も考えられない。
何を投げても打たれる気がした。どうにかしたくて足掻いていたら、気がつけばフォームがバラバラだった。そのせいで要らぬ力が入って、スタミナをどんどん奪われてしまった。肩で息をするたびに、あごの先からポタポタと汗が滴り落ちるのを感じた。指先はうっ血して感覚が無くなり、さっきから変化球が思ったように曲がらない。熱中症になってしまったか、頭はぼんやりとしており、バッターボックスの相手の顔がもうまともに見られなかった。額の汗が目に染みる。半そでの袖口でそれを何度も拭った。下を向くと鼻がずるずるして息苦しさに拍車を掛けた。
第二球……大振りのバッターが芯で捉えた打球は、ポール際を飛んで場外に消えた。大ファール。いわゆる振れすぎたスイングという奴だ。
その豪快なスイングに、俄然、やる気になった相手ベンチから声援が飛ぶ。
心なしか、相手スタンドの観客も増えたような気がする。その観客から野次が飛ぶ。どうした殺人高校、殺人投球見せてみろ。対して、自分たちのスタンドには、ベンチの上に二人が行儀よく並んで座っているだけだった。応援でも完敗だ。
苦しい……
つらい……
帰りたい……
自分はこんなに惨めな男だったのか……かつては、何を投げても打たれる気がしなかった。チームメイトからは全幅の信頼を寄せられて、そしてバックネット裏には、いつも応援してくれる成実が居た。
本当は、四国の学校へ進学するはずだった。甲子園の常連校で、設備もコーチも比べ物にならない。そこは甲子園だけでなく、その先のプロの世界を見据えた学校だった。自分はいつかプロになる。それが藤原騎士の夢だった。でも、そうしたら、成実とは離れ離れになるはずだった。ずっと一緒に居たのに、お互いに好きと呼べる間柄のはずなのに。ナイトはこれっぽっちの躊躇もせずに、夢を選んだ。
藤原騎士は立花成実を捨てたのだ。あの事件のときも。そして今も。
四国留学を成実に伝えたとき、彼女は一も二も無く頑張ってねと言っていた。まったく曇りひとつない笑顔で。少しくらい、嫌がってくれても良さそうなのに。なんだよ、冷たいな……と思っていた。でも違った。本当はいつも支えられていたのだ。彼女が笑って送り出してくれたから、自分は夢に向かって走っていられたのだ。
これはなんだ……
自分は一体何をやってんだろう……
いつまでも投球モーションに入らない彼に、球審が注意を与えた。
キャッチャーが立ち上がって、こっちに来ようとするのを手で制した。
照りつける太陽は容赦なく、体が焼け焦げてしまいそうな暑さだった。
息が苦しい。体はフラフラだ。いつ倒れてもおかしくない。さっきから古傷がズキズキと疼いていた。もう肩もそんなに上がらない。限界だ。終わりにしよう。ナイトはやる気がないまま投球モーションに入った。頭はぼんやりとして、体に力が入らない。このまま投球したら、多分、大暴投かデッドボールか、それともサヨナラ安打かである。
でも、それで楽になるなら、もういいんじゃないか。
どうしてここまで頑張る必要があるんだ。
こんなに辛くて苦しいのに……何を頑張る必要があるんだ。
逃げたい。逃げ出したい。家に帰って、布団に包まって寝てしまいたい。
頭はずっと熱に浮かされ、視界も汗なんだか涙なんだかで、ぼやけてたった18メートル先すら見分けがつけられない。キャッチャーが何かサインを出している。でも知る必要は無いだろう。もう要求どおりに投げられる体力も気力も尽きていた。
だから、本当にその瞬間まで、全く気づくことが出来なかった。
「がんばれっ!」
投球モーションに入っていたナイトは、その声につんのめった。
「がんばれっ!」
結果は不正投球。ランナーは3塁へと進み、成美高校はいよいよ追い詰められた。
「がんばれ!! がんばれ!!」
マウンド上のナイトは呆然と立ち尽くし、バックネット裏を見つめていた。
ああ、いよいよ心が折れたんだな……周りはみんなそう思った。
でも違った。
「がんばれ! まだたったの9点差だよっ! ここさえ凌げば絶対逆転できるから。だから、絶対諦めないで!」
あまりの言い草に、相手校から失笑が漏れる。
キャッチャーの晴沢伊織はマスクを取って、背後を振り返った。成美高校の面々は、その声にかつての試合のことを思い出した。あの時は敵だったが、味方になれば心強い。
「だから、がんばれっ! がんばってっ!」
バックネット裏から響いた大きな声は、風にかき消されることなく球場全体に広がった。最終回、彼氏のピンチでいてもたってもいられなくて、つい声を張り上げてしまった。そんな感じである。声を張り上げて、顔を真っ赤にして、どうしようもなく必死なのに、だけど彼女は美しい。
*
「いいな、あれ……」
晴沢成美は誰にとも無く呟いた。
5回裏、コールド負けのピンチ、誰もがもう諦めムードの中、突然彼女は現れた。
去年の秋を最後に見かけなかった……藤原騎士の彼女がそこに居た。自分には出来ないことを臆面もなくやってのける彼女は……久しぶりに見た彼女は、相変わらず美しく、そして完璧に思えた。
でもそれは違う。彼女は決して完璧でない。傷ついて、足掻いて、そして勇気を振り絞ってそこに立っているのだろう。藤木はその姿に感服しながら、ぼそりと溜め息を吐くように言った。
「伊東ライフかっつーの」
隣からぼそりと聞こえてきた声に、なるみは思わず咽た。
何故だか、胸がどうしようもなく苦しくて、そしてほんの少し暖かい。
それは失恋の苦しさだったのか、それとも別の何かであったのか……それは分からなかったが。ただ、ちょっと泣けて、ちょっと笑えた。
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試合が再開されると藤原騎士は、その日初めてキャッチャーのサインに首を振った。誰が見ても何をしたいか一目瞭然だ。でも、その球はきっとバットにカスリもしないに違いない。
藤木はそれを確認すると、カメラを畳んで席を立った。隣に座る彼女が驚いて彼を見上げた。諦めて帰り支度ですか? と言わんばかりの非難の眼差しだった。
もちろん、そんなはずはない。試合がこれで終わるわけがないだろう……何しろ夏は始まったばかりなのだから。
終わったのは、きっと別の何かである。
藤木は精一杯の笑みを浮かべると、彼女に背を向け歩き出した。
晴沢成美はあの日、藤木が邑楽修を助けた日以来、文芸部室に一度も顔を出してはこない。
【二章・了】




