一体おまえは何様だ
見捨てろ。見捨ててしまえ。そんな義理など無いのだから。
しかし、今なら助かるかも知れないのだぞ。
頭の中でぐるぐるぐるぐると、葛藤が駆け巡る。
助けると言っても、そもそも藤木には全然関係ない話じゃないか。だいたい、この男はレイプ犯だろう。生きている資格もないような奴だ。死んで当然だ。だから藤木が気にすることはない。藤木が殺したわけでもないんだから。
さっきからバラバラバラバラとヘリのローター音が五月蝿い。
相変わらず、屋上の出入り口は沈黙を保っている。
教師連中はいつまで呑気にしているのだろう……すぐ目と鼻の先で、こんなことが起きていると言うのに。さっさと鍵を開けてこいつを見つけてくれ。
「さっさとしろよっ!」
祈るように叫んだが、ドアはピクリとも動かない。
しかし、よくよく考えてもみればそれは当然のことだったろう。おそらく、屋上の鍵は邑楽を刺した犯人が、その発見を遅らせるために隠したに違いない。そもそも、こんなに早く見つかるのも想定外だったんじゃなかろうか。発見が昼休みを過ぎれば、昼食を取るために校内の全員が移動したあとだから、犯人の特定は困難になるはずだった。今頃、犯人は鍵を握り締めて冷や汗をかいているに違いない。
歯がゆさにドアを睨みつけてても、状況は改善されないだろう。多分、鍵がないことを理由に、あのドアを開けることを断念した教師たちは、やがてかかってくる電話で、上空のテレビ局の連中から死体を発見したことを聞かされ、そして慌ててレスキューなりなんなりを呼んで扉をこじ開けるのだろう。それまで何十分、いや何時間かかるだろうか。
だから目の前のこの男の死亡は確定だ。
いつまでもそんなものを見下ろして、気に病むことはない。
さっさとどっかに飛んでいこう。
見ているだけでは何もはじまらないぞ。
「くそっ! くそっ!!」
なのに、藤木はその場から離れることが出来なかった。
バラバラバラバラとヘリの音が頭に響く。まるで早くしろと急かしているかのようだ。
本当はこんなことしたくない。それは本心だ。
しかし、藤木は結局目の前の死体に飛び込んだ。
視界がぐるぐると暗転する。唐突に生まれた重力に体が悲鳴を上げそうなくらい軋んでいる。パシパシと頭の中で電気が走って、やがて世界がピンホール映画のように遠ざかっていく……そして藤木は死にそうな痛みと共に目を覚ました。
「うぐぁああ……ぁぁあ……」
いつも、体に戻されるときは感覚の急激な変化から苦痛を伴った。
だが、今のこの痛みはその比ではない。
藤木がまず感じたのは、胸に重く圧し掛かる激痛だった。余りの痛みに、首を回して確認することも出来ない。しかし、状況は理解していた。多分、胸に開けられた刺し傷のせいだ。
脳みそがガンガンに痛む。
ひゅーひゅーと喉が鳴って、酸素を渇望するが、激痛に耐えながら取り込んだはずの空気が逃げていく。多分、傷は肺に達している。
藤木が乗り移ったことで体が生き返ったのか、心臓の鼓動が戻り、血がドクドクと胸の穴から流れ出した。
血だまりがみるみる広がっていく。
まるで自分の中身をすべてぶちまけてしまったかのような虚脱感と、死ぬかもしれないという恐怖で体がブルブルと震えた。その体の震えさえ、胸に開いた傷あとは、激痛に変えるのだった。
こんなの無理だ……無理。死んでしまう。自分の見通しが甘かった。もういいだろう。自分は頑張った。頑張ったよ。こんな奴、死んで当然のような奴でも助けてやろうと、やらなくていいことをやったんだ。一度は試みたのだ。後味の悪さがなんだ。もういい、さっさと体から抜け出して、この苦痛から解放されよう。
でも、どうやって?
「あ゛ぁああ゛あ~~!!」
どうやれば、元に戻れるんだ?
バラバラバラバラとヘリの音が聞こえ、その震動がまた新たな激痛を生み出した。
藤木はのた打ち回りたかったが、体が言うことを聞かなくて、ただ痛みに耐えるしか他に無かった。
ヘリの中のレポーターらしき人物の顔が見えた。
藤木が動き出したことに気づいたのか、報道ヘリの連中は活気付き、みな我がことのような喜びの表情をして藤木に手を振った。
耳には届かないが、唇の動きだけで何を言っているのかその台詞が分かる。
『がんばれ、がんばれ、あと少しだ。がんばれ……』
ふざけんじゃねえよ……何笑ってやがんだよ……ちくしょう……ちくしょう……
「っちくしょおおおぉぉぉーーーー!!!」
酸素欠乏の脳の中で、何かがプチンと弾け飛んだのを感じた。
湧き上がる闘志に、目の前が真っ赤に染まった。
別に血が目に入ったわけではなく、多分、頭の中で脳内麻薬だかなんだかが、ドバドバとあふれ出しているのだろう。
酸素の取り込めない脳はずっと警告の苦痛を藤木に与え続けているのだが、どこかその痛みが他人事のように思えた。痛覚遮断。人間は同時に複数箇所の痛みを感じることが出来ない。
そしていよいよその痛みが深刻となると、その痛み自体を感じなくさせるそうだ。
「おらぁあああ~~!!!」
今なら動ける……藤木は気合を入れると、全身に力を入れて体を起こした。地面を掴む指先で、パキパキと音が鳴って爪が剥がれ落ちた。筋肉のリミッターが解除されてるようだった。
胸に空いた傷あとから、血が蛇口を捻るようにあふれ出ようとしたが、それを手でぎゅっと押し込め、膝をついて立ち上がる。
胸の激痛は相変わらず続いていた。脳みそは酸素が欠乏して、ガンガンと悲鳴を上げていた。いくら空気を取り込んでも、穴の空いた肺では満足が出来ない。そのことは分かるのに、肝心の痛みがまるで他人事みたいにどこかへ行ってしまった。
藤木はずるずると這うようにして移動した。
ほんの十メートルほどの距離がとんでもなく長かった。
無理に起こした体から、血がボトボトと止め処なく流れ落ちた。致命的といえば、きっと致命的であったろう。何しろ、本当ならもうとっくに死んでいたのだ。ここで、扉まで辿り着かなければ、今度こそ本当にアウトだろう。そのあと、一体どうなってしまうのだろうか? 不安が過ぎるが、今はそんなこと考えている余裕も無い。
視界がぼやけて、ぼろぼろと涙が溢れた。その涙の一滴一滴が、藤木の中に残された人間性の、何か大事な部分を流してしまってるようで、どうしようもなく悲しくなった。
どうして、こんなことをしてるんだ……なんで、こんなことしちゃったんだ……
やがて藤木は屋上のドアに辿り着くと、ドアノブの鍵を開けて倒れこんだ。
バンッ! と大きな音を立てて扉が開かれ、倒れこんだ藤木を発見した教師が、
「きゃあああーーーー!!!」
と悲鳴を上げる。
うっせえ……静かにしろ……
「……ぁ……ぁ……」
最後の力を振り絞って倒れ伏した藤木が、声にならない声を上げると、
「しっかりしろ! 邑楽、すぐに救急車呼んでやる!」
男性教師の声が聞こえた。
違うぞ。自分は邑楽修ではない……伝えたくても、どうにもならない。やがて藤木は、安堵感から意識を失った。これでもうお役ごめんとばかり思っていた……
目を開けると、頭上に救急隊員の顔が見えた。
「大丈夫ですかー? 意識はありますかー?」
「ぁ……?」
「止血急いで! 脈拍微弱、呼吸……」
気がつけばストレッチャーの上に乗せられ、治療を受けていた。救急車が発進したのか、血液が水槽の水みたいにちゃぷちゃぷ動くのを感じた。
「もう大丈夫ですよ。気をしっかり持ってください」
「ぁぁあ゛あ゛あ゛ああぁ~……」
何が大丈夫なものか……
舞い戻った激痛に必死に耐えていると、酸素マスクをかけられた。藤木はそのまま目をつぶって、意識を手放した……
真っ白な光が見える。まるで太陽でも凝視しているような、ただ真白くて容赦の無い光だ。
体に力を入れようとするが、まるで身動きが取れない。頭の中がぼんやりとして、周囲を探ろうにも目が虚ろだった。
鉗子だの、メスだの……テレビドラマみたいな声が聞こえる。
どうやらいつの間にか藤木は手術台にはりつけられていたようだ。
藤木の意識が戻ったことに気づいたのか、執刀医と目が会った。
彼は大丈夫ですとでも言いたげに二回瞬きをすると、また手元に集中しはじめた。
体の中を弄られてるのは感覚で分かった。けど、布で隠されて自分では見えない。
と言うか、まだ自分は元に戻れていないのか? まだ邑楽修なのか……?
藤木は眠りに落ちた。
集中治療室の無駄に清潔で青白い天井が見えた。
藤木が目を覚ましたのに気づいた、なにやら上品な白髪の老婆が、
「はうあっ!」
と言って、泣き崩れた。
体はどうしようもなくだるくて、痺れるような感覚があり、うまく動かせるような気がしない。もしかしたら麻酔がまだ残っているのだろうか。これが切れたら、またあの痛みが戻ってくるのだろうか……
「もう大丈夫ですよ、お母さん」
老婆の肩を抱いて励ます男の姿が見える。言葉とは裏腹に、彼は迷惑そうな顔をしていた。
遠目に、医者になにやら説明を受けては、何度も額の汗を拭う男の姿も見えた。
全員、藤木はいままで見たことも会ったこともない人たちだった。
「修ちゃん。良かった、修ちゃん!」
泣き崩れる老婆が藤木にすがり付こうとすると、駄目ですよと看護師が押しとどめる。付き添いの男がそれを受けて老婆を引っ張り、
「お母さん、修君の体にも障りますから」
と言って部屋から追い出すように連れ出した。
別の男が寄ってきて、
「まったく……貴様は迷惑をかけることしか知らんのか」
腹立たしそうに藤木を睨みつける。
違う……違うぞ……
藤木はこみ上げてくる吐き気に耐え切れず、身を捩って体を起こそうとした。
いつの間にか体中に繋がれていた計器類がピコンピコン鳴り出して、看護師が駆け寄ってくる。
「っがう……」
えずくように声を上げる藤木を、看護師がベッドに押し倒した。
「違う! 俺は違う! 邑楽修じゃない」
「鎮静剤」
睨み付けていた男性が、ちっと舌打ちをした。
「違うんです、俺は、そうじゃないっ!」
どうして元に戻らないんだ?
藤木が屋上で邑楽修に憑依してから、一体どのくらいの時間が経ったと言うのか。救急車に運ばれて、手術を受けて、こうして集中治療室に入ってる。それだけのことがあったのだから、それは相当な時間である。
なんで今でも自分はこの男の中にいるのだろうか?
まさか……まさか、戻れないなんてことはないだろうな……?
「うっ……おぇぁああ~! おええぇ~~……」
唐突にこみ上げてくる吐き気に耐え切れず、藤木はびくびくと体を震わせた。
「鎮静剤、早く!」
傷口が開いたのか、看護師が藤木を動かないように肩からぎゅっと抑えつけて、別の看護師が胸の包帯を慌しげに弄っていた。
違うんだ、自分は邑楽修ではない。
いつもなら、とっくに小町に生き返らせてもらってて、折檻を受けてるはずなのに……なのに体が元に戻らない。
早く戻れ、戻ってくれ……看護師が鎮静剤の注射を打つ……これだけ何度も意識を手放して、死にそうな目にあっても幽体離脱すらしないなんて……どういうことだ?
まさか一生、自分は邑楽修になってしまったとでも言うのだろうか?
冗談じゃない。こいつはレイプ犯だぞ? 自分はこれから一生、レイプ犯として生きなきゃならないのか? どうしてそんな目に遭わなきゃならないんだ。
あれだけの激痛に耐えて……あれだけ苦しい思いをして……挙句に元に戻れない? そんなのありか、おかしいだろう! 本当なら死んでいたんだぞ? それを藤木が助けてやったんだ。いいことをした人間が何故報われない。
「嫌だ……嫌だ……」
どうしてこんな奴助けてしまったんだ。助けなきゃよかった。ちくしょう……こんちくしょう!
「助け……助けて、くれぇ……小町ぃ」
体が弛緩して呂律がうまく回らない。
痛い……苦しい……辛い。借り物の体で激痛に耐えて、助けたのはレイプ犯一人。その罪を自分が背負って生きていく、いくらなんでもあんまりじゃないか。藤木は何もやっていない。ただ、死にそうな人間を見捨てられなかっただけなのだ。それはそんなに悪いことなのか。
誰か助けてくれ。助けてくれないのなら、もういっそ殺してくれ。
「もう……いっそ、ころひてくれ……」
眠りに落ちる直前まで、藤木は天に呪った。
「殺せ……ころぇ……ぇぇ~~…………」
彼の呟きを聞いて、痛みに耐えかねたとでも思ったか、看護師がもう大丈夫ですからねと、とんちんかんな返事をした。
違う、そうじゃない。こんな人生あんまりだから、もう終わりにして欲しいんだ。自分で助けた命のくせに、また殺せだなんて、一体おまえは何様だ。それは分かる、分かるけれども。分かるんだけれども……でも……こんなの嫌だよ、おかしいよ……
「殺せえええええぇぇぇぇぇぇ~~~~~っっっ!!!!!!」
「ひゃっ!」
全身を強張らせて、藤木は彼に圧し掛かっていた女を押しのけた。彼女は藤木に弾き飛ばされると、ガタガタと開閉式のドアに肩をぶつけてから、トイレの床に尻餅をついた。
手に持っていた携帯電話が、カシャーっと音を立ててカーリングみたいに滑っていった。受話器からは、『もしもし? どうしましたか?』と言う声が聞こえた。
藤木はこみ上げてくる吐き気に耐え切れず、
「ぉ……おぇえぁあああ~~~~っっ……おえっ、おえええぇぇぇ~~~~……」
腹の中身を全部その場にぶちまけた。
びちゃびちゃと音を立てて、酸っぱい臭いが広がっていく。目じりに涙が溢れ、鼻水がダラダラと滝のように流れ、汗が吹き出る。顔はもうグチャグチャだ。
「藤木? 藤木、大丈夫なの?」
「ぅ……うえぇ~~~……」
返事の変わりに手を上げ、近づく彼女を制して、藤木は目の前にあった洋式便器に残りのゲロをぶちまけた。まだこんなに出るのかと、呆れるくらいの吐しゃ物が便器にうずもれる。食道や喉は熱くて焼けきれそうだった。多分、胃の中はすっからかんだ。
「……はい……はい。意識を取り戻しました……はい……今、嘔吐を続けてます」
背後で電話をかける女の声が聞こえる。
藤木が気がつくと、彼はトイレの床に寝転がされていた。頭上には彼の胸に手をやって心臓マッサージをする人影があり、てっきりいつも通り、それは小町なんだと思っていた。
でも違った。電話の声に藤木が振り返ると、そこには、
「……ユ゛ッギー?」
「藤木、あんた、大丈夫なの? どっか具合悪いところはない? ……って言うか、ホント驚いたのよ。てっきり死んでるのかと思って、思わず救急車に……って、うわわ」
振り返ると担任教師が、いつもの呆れたような不機嫌なような、ふてくされたような顔をして立っていた。その顔にほっとすると同時に、何かとてつもない罪悪感に押しつぶされそうな気分になった。
胃がビクビクと痙攣する……
もう、何も残ってないと思っていた胃袋は、まだ吐き出す余力がありそうだった。藤木は便器に顔を埋めると、血の混じった殆どただの胃液を吐き続けた。