33号事件
邑楽修を追おうと言っても、コンビニの裏口から逃げた他に手がかりは無く、闇雲に走り回っても仕方ないので、人の気配を探りながら、薄暗い川沿いの道を幹線道路にぶつかるまで歩いた。
人通りはほぼ無く、河川敷から聞こえてくる虫の声と川のせせらぎ以外は、殆ど何も聞こえない。川を挟んでこちらは閑静な住宅街、向こう側は山すそに広がる丘陵地帯で民家が少なく、成美高校の広大な敷地や、神社仏閣などがちらほらあるくらいで、あとは殆ど雑木林だった。もしもあっち側に逃げられたら、見つけるのは困難だろう。
やがて幹線道路に到達すると、車のエンジン音に周囲の音がかき消されては、人の気配を探すとかいうレベルじゃなくなった。これ以上、どこを探そう。刑事は10分ほどしたら公園に集合と言っていた。多分、こうなることは予想していたのだろう。あとは人海戦術の領分だと思い、引き返すことにした。
一応、辿った道をコンビニまで戻ってから、董家と話していた公園までやってきた。まだ、刑事も立花倖も戻ってきていないようで、少し不安になる。どこの公園とも言ってなかったが、近所の公園はここ以外に知らないので、もし違ったら合流する当てがなくなる。刑事は倖に連絡しろとも言っていたが、よくよく考えてもみれば、いくら担任教師だからって、教師の携帯番号なんて知るわけも無い。いざとなったら、今日知り合った妹から聞き出せばいいが……開き直って缶ジュースをガブガブ飲みながら待っていたら、やがて公園の入り口に、先ほどの刑事がふらっと現れてホッとする。
「ああ……そうかい……それじゃそうしな」
野太い声を上げながら携帯でベラベラしゃべりつつ、刑事は公園内に藤木を見つけると一直線にやってきた。
「そっちはどうだったい?」
藤木が首を振ると、
「まあ、そうだろうなあ……仕方ない。それより、兄ちゃんはあれだろ? 第一発見者の……なんてったっけ」
「藤木です。藤木藤夫」
「ああ、確かそんな名前だったな。住所は?」
刑事は手帳を取り出すと、なにやら書き入れるためにページをめくった。
「ちょっとちょっと。職質される覚えはないんですけど」
「何言ってやがんだよ。こんな時間にこんな場所に、警察が張ってる相手に会いに、ノコノコやってきといてよ」
「こんな時間でも、友達に会いに来るくらいするでしょ。張り込んでたのは、単にそっちの都合だし」
「友達ねえ……兄ちゃん、署に行っても友達で押し通すつもりかい。親と学校に連絡してもいいんだぜ」
「すみません。わたくし、嘘をついておりました」
逆らってもややこしいことになりそうなので、開き直ることにした。学校に連絡するといっても、教師はもう間に合ってるのだし、そもそも目の前の刑事はどうやら倖と知り合いのようでもある。
「それで、一体全体、おまえさんは何をやってたんだ、あんなとこで」
別に本気で補導なんかしないが、場合によっては出るとこ出るぜと言った具合か。
「何って、見ての通りですよ。事件の話をちょいと聞きたくて、邑楽修に会いにきただけです」
「何だってまた。そんな熱心に聞きに来るくらい、被害者と親しかったのかい?」
「いや全然。あー……ほら、たまたま第一発見者になっちゃったもんだから、気になって。ドラマなんかで良くあるでしょ? 第一発見者がそのまま探偵になって事件を解決してくみたいな」
「ああ、そういう……あるね、実に不愉快な小説や映画が。そんなくだらねえことして捜査を引っ掻き回すんじゃねえよ、警察に任せろ警察に、っていっつも思ってる」
「すみませんね。捜査の邪魔して」
刑事は、ふんっと鼻息を一つ鳴らして、パタンと警察手帳を閉じた。
「それじゃ、もう大人しくしてることだな。別に事件に首を突っ込むなとは言わないよ。今回も、あの姉ちゃんと一緒に居たから黙って見てたが、次に会ったらどうするかわからないな。こっちも遊びでやってるわけじゃないからよ。対象に逃げられちまうなんて、減俸もんだぜ、減俸もん」
「はあ……」
って、まるで逃げられたのは藤木のせいみたいじゃないか。ぶっちゃけ、自分たちは相当大人しくしてたと思うぞ。それより、どうみてもヤクザっぽい連中の方をどうにかした方がいい。多分、あいつらも藤後を追ってるのだろうが……
「しかし、なんで邑楽のやつ、逃げちゃったんでしょうかね」
「……ん?」
刑事がジロリと睨む。
「いや、だって逃げても何もいいことないでしょ? そもそも逃げる必要も無い。警察とヤクザが張ってるのは、藤後玲が目的で、ぶっちゃけ邑楽は関係ないのに」
「そりゃ、おめえさん。こいだけ見張られてたら藤後が近づけねえ。だからあいつが目を眩ましたってことだろうよ」
「そうまでして藤後に会わなきゃならない理由があるんですかね。いや、それ以前に、いつどうやって邑楽は藤後と連絡を取ったんだ。藤後が逃げ回ってるなんて、あいつは知らないでしょう」
「そういや、そうだなあ……ん? そんじゃ、おめえさんはどうして知ってんだよ」
げっ……やぶ蛇だったか。まあ、こうなっては隠していても仕方ない。別に警察と対立したいわけでもないのだ。
「いやその……実は、今日の学校帰り、偶然警察無線を聞いちゃって」
かくかくしかじかと話すと、刑事は深い溜め息を吐いた。
「……うかつだなあ……署に帰ったら文句言ってやらにゃ……でも、おめえさん、これだけじゃ別に何のことかわかんねえだろ。どうして藤後のことを気にしてんだい」
「それは昨日、邑楽が騒いでいたときに名前が出たもんで……ほら、第一発見者ですからね。やっぱり事件に興味があるから調べてたんです。で、被害者と邑楽が同じ学校出身だなって気づいてたんで、こいつら中学のときになにかあったのかな? と、名前を覚えてたんです。そしたら警察無線で追われてるって言うから、あっこれはと思いまして」
「……なるほどな」
半分は口から出任せだったが、筋が通っているから納得してくれたようである。
「そうかい。兄ちゃんが頭が切れるってのは良く分かったからよ。まあ、そこまでにして、あとは警察に任せときな。何かあってからじゃ遅いんだしよ……本当は、あの姉ちゃんにもそうして欲しいんだけど」
「あ、はい。そうします」
出来る限りはね。
尤も、実際に警察と敵対しているわけでは無いから、ここは大人しく引き下がるふりをしつつ、情報提供もしておこうかと、藤木は判断した。自説に過ぎないが、誰ならあの旧校舎で犯行が可能であったか……警察も知ってれば捜査も変わるだろうし、なにより担任教師のためにもなる。彼女の妹、立花愛にお願いされたこととも相反しない。
そう思い、藤木は刑事に尋ねた。
「ところで、高橋って刑事さんに心当たりないっすかね。いや、逆だな。高橋って名前の刑事さんって署内に何人くらい居ます? わけあって連絡取りたいんですけど。どの高橋さんなんだか、さっぱり分からなくて」
「……高橋は俺だが……なんだい、兄ちゃん。さっきからよ。胡散くせえなあ、おい」
げっ、あなたが高橋さんでしたか……強面の刑事にやぶにらみにされ、藤木は意味も無いだろうにホールドアップした。
「いやいやいやいや、決して怪しい者じゃありませんて。つーか、これ」
藤木が立花愛から預かった名刺を渡すと、刑事は少しぽかんとしてから表情を崩した。
「これを、おまえさん、どうしたってんだよ」
「今日の夕方、愛さんと知り合うきっかけありましてね? えーっと、彼女と、立花倖が姉妹だってことは?」
「もちろん知ってる」
「俺は、彼女の受け持ちのクラスでして。で、あの人、うちの担任が事件のことで無茶しないように、力になってくれって、俺に頼みに来たんですよ。それで、事件のことは、俺もちょくちょく気にして調べていたもんで、話していたら、もし必要だったら高橋って刑事を訪ねなさいって、それを渡されまして」
「そうか……いや、俺のとこにも同じこといいに来たんだ。しかし、なんでまたおまえさんに会いに?」
「さあ、第一発見者だからじゃないですかね」
ふーん……と、気の無い返事をしながら、刑事は名刺をためつすがめつすると、公園のベンチに顎をしゃくって、
「座らないか?」
と藤木を促した。ヤラナイカじゃなくてホント良かった。
とりあえず、何から話せばいいだろうか……ベンチに座ってまごまごしていたら、暫くして、刑事の方がポツリと話し始めた。
「暮れの押し迫った去年の晩秋のことだ。俺たちが33号事件と呼んでる事件が起きたのは……」
警察署で会議を盗み見たとき、その名前が出たのは覚えている。どんな内容なのか、調べようとしたらタイムリミットが来て体に戻された。ぶっちゃけ、それがどんなものかはある程度予測はついている。しかし、そんなこと自分から切り出しては、藤木の胡散臭さが増すだけである。彼は黙って話を聞いていた。
「うちの管内で起きた33番目の凶悪事件ってことで、33号事件というんだが、いや、もうこれは事件じゃねえんだがな。被害者が自分は被害者でないと言い張り、証拠も不十分。家族も立件を見合わせるように言ってきたもんだから、もう捜査することすら俺たちには出来ない」
そして刑事は躊躇うように一拍置いて、吐き捨てるようにこう言った。
「少女監禁強姦事件だ」
……もちろん、最悪の事態は想定していたが……実際にそれを耳にするのと、考慮するのでは全然違う。彼女に会ったことはただの一度。それも彼氏を応援する彼女を遠目に眺めていただけだ。それだけの関係なのに。胸が苦しくて、吐き気がしそうだった。
「被疑者は複数。捜査が出来ないんで、もう何人いたかは分からない。主犯は藤後玲、当時14歳。犯行現場と目されるのは、邑楽修の自宅である、例のマンションだ。邑楽ってのは金持ちのボンボンで、いわゆる友達を金で買うタイプと言えば分かるか? つまりよ、札つきの連中を集めて虎の威を借る、クズだな。現場のマンションは当時不良のたまり場で、近隣住人とトラブルがあっては警察が駆けつけたが、皮肉なことに騒音トラブルだけは全く無かった。なにしろ高級マンションで、防音が行き届いていたって寸法だ」
「藤後玲はその中でもとびきりの奴で、管内の不良連中にも一目置かれる、危険な奴でよ。喧嘩はもちろん強かったが、それ以前に手段を選ばない。そして人の痛みが分からない。奴にやられた奴は、見た目にも悲惨なことになることが多かったから、それが逆に奴に箔を付けてった。警察に捕まることも一度や二度じゃなかったが、少年法の範疇でうまいこと逃れてな、親も投げちまったもんだから、まあ、好き放題やってたよ」
どう考えても、ガキが無茶苦茶やっているのは分かってる。だがそれに決して手を出すことが出来ない。その悔しさは分かる。改めて警察は防犯組織ではないと痛感させられる。もしも、この時に、近隣住人とのトラブルを理由に色々と手を回すことが出来たなら……そのあとのことは起こらなかったのかも知れないのだ。
「計画と言っていいか分からんが、藤後が最初に口に出したのは夏休み前、丁度今の時期だったらしいよ。『最近売れてきたアイドルを、拉致ってまわそうぜ』ってな。誰のことかは言わんでも分かるだろう。胸糞悪い話だが、不良連中の間じゃこういうのは逆に受けが良い。実に軽い調子で言ってたらしいから、最初は誰も本気とは思ってなかったんだが、奴は本気だった」
「北辰愛……つまり立花愛は、ストーカー被害で一度署に相談に来たことがあって、その時に担当したのが俺だ。どうやらおかしな連中に目を付けられてるらしくて、一度車で連れ去られそうになったと言う。だが、この時点で警察に何か出来ることもないんでな、可哀相だが、連中をマークすることだけを約束して、彼女には帰ってもらった」
「それで失望したのかも……いや、普通に恐怖からだろうな。何しろそこそこ名の知れたタレントだし、事務所がボディーガードをつけたんだ。それで収まりゃ良かったんだが、馬鹿な連中がちょっかいかけるのをやめないもんで……結局、いわゆるその筋の奴らが出てってヤキを入れた。それで、奴らはビビッて手を引いたんだが……立花愛には、彼女にそっくりな妹がいた」
「姉が駄目なら妹をやっちまおうって、実に簡単に決めたらしいな。元々、その子は藤後たちの通う中学校のマドンナだったらしいし、姉がタレントって以外は普通の子だ。その日も普段のように徒歩で学校へ行って、そして帰りに簡単に拉致られて、邑楽のマンションに連れ込まれた。こういう考えなしの奴らってのは、共犯者を求める傾向が強くて、以前、姉を拉致ろうと持ちかけられた連中にも声が掛かった。そのうちの一人がビビッてヤクザに連絡し、ヤクザは自分たちには関係ないからって、警察に通報した。信じられねえ話だろう?」
「もう犯人も分かってるし、現場に踏み込むだけなんだが、ここで変な力が働いてな。邑楽ってのは政治家の家系で、醜聞を嫌った親戚連中が手を回したのかも知れない。それに通報してきたのがヤクザと言うのも問題だった。捜査令状が下りなくてまごついていたら、2日も過ぎてしまった。俺はもう、気が狂いそうになったよ……そして、焦れまくった俺たちが、もう犯罪上等で踏み込もうとしたとき、ようやく礼状が下りたんだが……俺たちが邑楽の部屋に足を踏み入れたときは、そこはもぬけの空だったんだよ」
「後になってしまえば、その子が自力で逃げ出して、他のやつらが追っかけてったって分かるんだが、当時の俺たちはそれが分からないからな、現場に残っていた邑楽にかなり無茶な尋問をして……それが後々問題になって、事件をうやむやにされるんだが……まあ、ともかくよ、逃げた彼女を追って不良連中が、多分追い詰めてしまったんだろう。その朝、救急の方に彼女が自殺を図ったって通報が来てな。本当に警官になって、ここまで無力感に苛まれたのは初めてだったよ」
「良かったのか悪かったのか分からないが、飛び降りたその子は一命を取りとめた。そんで、意識が回復したら、つらいけれど立件するかどうか? って、家族と話し合っていたんだが……その彼女が目覚めて開口一番言うんだな。仕事に穴を開けてすみませんって……」
立花愛は言っていた。恐らく、この時点で、立花成実は北辰愛になってしまったのだろう。
「専門家が言うには、辛い思いをしたせいで、記憶が混濁している。特に、自分は姉じゃないのに姉のせいで酷い目にあった、ということが、自分は姉であると言う事に帰結してしまったんじゃないか……だとよ。そんなわけで彼女は、自分が立花愛であると思い込んでいたし、自分が怪我をしているのは階段から落ちた程度のことと思っていた……現実を、拒絶しちまったんだろう……その姿を見た家族は、立件を断念した」
「そりゃ、こっちからどうこう言える問題じゃない。それは分かる……しかし、当時は本当に悔しくて、警察をやめようかと何度も思った。だが、それも酒を飲んで忘れた……そして、俺たちが事件のことをすっかり忘れたときだった。あの姉ちゃん、立花倖が連絡を入れてきたのは」
「あの姉ちゃんは姉ちゃんで、納得がいかなくて独自に調べてたんだろうな。そしてどうやら、事件のとき、藤後が撮っていたらしきビデオがあると突き止めた。自分たちの姿が映っているから、今まで隠して、出てこなかったんだろう……それが、金にでも困ったのか、藤後がヤクザに売り込んでいるって情報を、彼女は手に入れた」
「最初、警察に不審を抱いていた彼女は妹のタレント事務所に相談して、その伝でまあ、別のヤクザに捕まえさせえて、ビデオの場所を吐かせようとしたそうなんだ。でも失敗した。それが数日前の、隣町の会社役員刺傷事件だ。そして、ここでようやく俺たちに連絡が入り、今度は失敗するわけにもいかないと、管轄ではないんだが、張り切って捜査していたわけだ。学校とか、ガキが紛れ込みそうなところは片っ端から調べてな……結果はこの通り、逃げられっぱなしなんだが……くそっ」
そういって、刑事は吐き捨てるように舌打ちした。
なるほど、それでか……なんとなく、構図がつかめてきた。
藤後玲がとんでもない奴だと言うのは理解した。しかし、それだけだ。藤後玲もただの人の子。手足が何十本もあるわけじゃない。ただのガキが逃げ回ってるだけなのに、ここまで警察が手を拱いているのは何故か。そして素人の藤木が、何故かさっさと犯人を特定できてしまったのは何故か。それは見ているものが違ったからだ。
警察も倖も、始めから藤後玲という悪を見ていて、ここ数日に起きた出来事を、それに付随するものと勘違いしている。いや、正確には付随するもので間違いない。だが、それは藤後を中心としたものではなく、もっと別の何かだった。
警察は始めから、藤後玲の失踪と、旧校舎の殺人を別物と考えるべきだった。そうすれば、殺人事件に付随する情報として、藤後玲の居場所など容易に想像できたはずなのだ……
藤木は全てを聞き終えて、
「邑楽を探しましょう……早く見つけないと」
そう言うと、藤木は自分が旧校舎で死体を発見して以降、事件について調べてきた全てのことを刑事に伝えた。
「多分、邑楽修は殺されるでしょう」
こんな奴、別に殺されても構わない……ぶっちゃけ、本心ではそう思っていた。だが、かといって、人が殺されるのを黙って見過ごしては、後悔しか残らないだろう。
そして藤木は徹夜で警察と共に彼を探し……
翌日、その死体を発見することとなる。