トイレ貸してくれませんか
乗車を渋る立花倖に、冗談でアンパンと牛乳を買ってくるからと言ったら、本当にコンビニまで走らされた。レジで支払いを済ませているとき、しまった、この間に逃げられるのでは……と思い至り、急いで戻ってきたが、相変わらず車はそこに居て、ホッとするのも束の間、飯だけ受け取ってなおも乗車を渋る担任教師に、
「いいからさっさと乗せろよ。ごたついてると本当に警官来るぞ。そこかしこに居るのは分かってるだろう?」
と言うと、仕方ないわね……といった具合に渋々乗せてくれた。
散らかし放題の助手席の私物をどけようとしたら、頭を叩かれ狭い後部座席へと追いやられた。助手席にはノートPCが置かれており、カーナビと、なにやら暗くて良く分からないウィンドウがスライドショーのようにピコピコと光っては消えていた。
と言うか、この人、かなりの確率でパソコン弄ってるな……秋葉系なのかしら? 萌え萌えキュンとかやるのかしら? と覗き込むと、良く見ると画質が荒いが、どこかの建物を映し出した防犯カメラの映像のように見える。
刻々と視点が切り替わるその映像に、ハッとして視線を上げてみれば、どう考えても目の前にそびえるでっかいマンションのそれとしか思えない。
「ユッキー、こんなのどうやって仕掛けたの」
「仕掛けてないわよ。そんなことしたら犯罪でしょ?」
「……じゃあ、どうやって映してるってんだよ、これ」
「………………」
犯罪でしょ?
その辺を突っ込んでも仕方ないので、黙って映像を見てみると、マンションの反対側を多く映しているようだった。これなら不意に監視対象がおかしな動きをしても対応できるだろう。一体何を、と言うか誰を監視しているかは言うまでもない。
時折、小さな機械音がして、アンテナか何かが動いている。何だこれは、ボンドカーか?
「邑楽の在宅は確認出来てるのか?」
「邑楽? 一体誰のことだったかしら。うちのクラスじゃないわね」
「そういうのもういいだろ、まどろっこしいだけで」
「……ちっ」
女の人の舌打ちって、男のそれより怖いんだが、何でなんだろう。ゾクゾクする。
「夕方に警官が訪問してたとき、反応があったわ。それから動きがないから、居るでしょうね」
「そっか。いや、さっき、郵便受け見てきたんだけど、チラシが投げ込まれ放題でね。人が住んでるようには見えなかった。つか、家族はどうしてんだ。外泊中か?」
「邑楽はあのマンションで一人暮らしよ」
思わず口がポカンとなった。え? っと思って、改めて目の前のマンションを見上げる。その重厚な作りとセキュリティは、藤木の住む団地とは比べ物にはならない。まごうかた無き高級マンションである。下手したらその一部屋で、藤木の団地の一棟が買えるのではなかろうか。
「別に珍しくもないでしょう? うちの学校なら。あれくらいの家に住む子はいくらでも居るわよ」
「いやいやいや……つっても、子供一人住むのにあれって、頭いかれてるとしか思えないぜ……ん? つーか、邑楽って二中出身だったよな。あれ?」
「中学の時から既に、ここで一人暮らししてるわね」
呆れ果てて物もいえないとはこのことである。
「そりゃまた、なかなか愉快な家庭環境で育ったようで。実家は近いの?」
「親権者である父親は都心に住んでるわ。創業明治の総合商社の家系の傍流で、いわゆる財閥筋。祖父は国会議員、その父も、その祖父も国会議員という政治家一家ね。母親は取引先の成金会社の令嬢でやっぱり大金持ち。中学時代にそんな両親が離婚して、紆余曲折の末に非行に走ったみたい。体面を気にする親戚連中に爪弾きにされて、以来ここで一人暮らしって感じね」
「意外と可哀相な奴なんだな」
「まさか。こんなところに一人で住んで御覧なさい。羽を伸ばしすぎて、あっという間にロクデナシと馬鹿の集会所に早変わりよ。警察に通報されたのも一度や二度じゃすまなくて、今では警官の巡回先に入ってるくらいね。問題を起こしても親戚がもみ消すし、同情の余地もないわ」
なるほど。それにしても滅茶苦茶詳しい……どうやって調べたかはさておき、興味津々ってことは確かなようだった。恐らく、藤後や台場に関しても相当詳しく調べていると思われる。
「集会所ってことは……藤後玲もかつてここに入り浸ってたって、そんな感じか」
「……知りたかったのはそのこと? あんた、一体何をかぎまわっているか知らないけど、もうやめなさい。子供が興味本位で首を突っ込んで良い類の話じゃないわ」
そうお題目を唱えるみたいに反射的に言ってから、一拍置いて、
「……藤後の名前は、どこから出てきたのよ」
胡散臭い物でも見るような目つきで聞いてきた。これが気になるってことは倖も、マンションの周りにいる不審な奴ら同様に、藤後を目当てにやってきたのだろう。
さて、藤木は警察無線で偶然聞いてしまったわけだが、彼女は一体どこからその情報を仕入れてきたのだろうか。
「昨日、邑楽が叫んでたぜ。藤後も俺も、藤原に殺されちゃう~って。相当ビビッてたな、あれは。どうしてだろう」
「ふーん。直接、その場に居たわけじゃないから知らなかったけど……それで?」
「ん?」
「あんたは、何をしにここに来たのよ。まさか、良く知りもしない男の見舞いにきたわけじゃないでしょう? もし馬鹿なことを考えてるなら……」
「いや、そのまさかだよ」
何を言ってるんだ、この男。そんなこと信じるわけがない……とでも言いたそうな顔で睨まれた。
「ホントだって。ちょっと様子を見に来ただけだよ。あわよくば、邑楽と会って話を聞けたらいいなって、その程度だ。だってさ、昨日、藤原に殺されるとか言ってたけど、あれってなに? って聞いたところで、答えるとは思えないだろ」
「そりゃ、そうね」
「知りたいことっつったら、それだけだよ。まあ、インターホン押す前に諦めたけど。いやあ……大人気だな、藤後玲。いったいどこに、どうやって隠れてることやら……」
「やっぱり……あんたは、逃げ回ってる隣町の事件の犯人が藤後だって知ってたみたいね」
「まあな」
「報道もされてないのに、どうやって調べたの。あんた……一体どこまで知ってるわけ?」
どこまでって、ちょっと殺人犯が誰なのか分かってるだけで、あとは何も知らない。
「ユッキーこそ、何をどこまで知ってるんだ。つーか、あんたこそ何がしたいんだ? ここで、あわよくば警察やヤクザを出し抜いて、もしもあんたが一番初めに藤後玲を見つけたとしたら」
「…………」
「別に、危険なことすんなとか、野暮なことは言わないよ。それより、そろそろ情報交換といかないか? まあ、ぶっちゃけ、俺は第三者だし、隠すようなことなんて何もないんだし、そっちさえ良ければなんだけど」
立花倖は藤木の瞳の奥をじっと覗き込むように見つめた。藤木が何を考えているのか、その真意を探ろうとでもしているのだろうが……正直言って、彼にはそんなものなど何もないから、ただ目の奥が痒くて仕方ないだけだった。
ここで目を逸らしたら負けだな……と、我慢して目を見開いていたら、鼻がむずむずしてきた。そのせいで、よほど間抜けな顔をしていたのだろうか、はぁ~っと呆れたような溜め息のあとに、倖は言った。
「いいわ。はっきりいって、こっちには隠すことがいくらでもあるけども。あんたのその間抜け面に免じて多少は考えてあげる。一応、あの夜、部室棟で中沢をとっ捕まえた件は評価してるのよ。この手の探偵紛いなことは得意みたいだし、あんたの持つ情報によっては、信用してやらないこともないわ」
「すっごい上から目線ありがとうよ。そんじゃ、どっからいこうか」
「待って!」
その時、マンションで動きがあった。
ノートPCのモニターの中の、恐らく邑楽の家の玄関がスーッと開いた。中からは少しやつれた様子の邑楽修が出てきて、廊下をキョロキョロと見渡している。誰かに監視されていることは意識しているのかも知れない。
やがて、彼は玄関から出ると、鍵をかけてエレベーターへと向かった。風呂に入ったばかりなのか、ボサボサの頭にジャージの上下と言うラフな出で立ちで、やがてエントランスホールから外に出てくると、駐輪場に止めてあった自分の自転車にまたがって、どこかへ行った。
助手席のノートPCを乱暴に手に取ると、倖はカチカチとそれを操作する。すると、モニターのウィンドウが次々と切り替わって、自転車に乗る邑楽を追いかけていった。
「……この方向は、コンビニね」
行き先はどうやら、先ほど藤木が使いっぱしりさせられた近所のコンビニらしく、倖はパソコンを膝に置いたまま、エンジンをかけずに、バッテリーだけでモーターを動かし、車を発進させた。
殆ど音を立てずに車は進み、やがて件のコンビニを見渡せる場所まできて止まった。マンションで、邑楽を張っていたほかの連中も一斉に移動したらしく、見ればすぐ近くの電信柱の影に、力士崩れみたいに屈強な、どうみてもヤクザがじっとコンビニ方面を凝視していた。通りすがりのおっさんの耳にワイヤレスイヤホンが突っ込まれている……
そんな衆人環視の中、暫くして邑楽が自転車に乗ってやってきた。彼は店の前でそれを止めると、中に入り、入り口付近の雑誌コーナーへと向かって、今日発売の漫画雑誌を手に取り、その場で読み始めた。
それからは殆ど動きがなく、時間だけが過ぎていった。彼は本当に立ち読みにきただけのようで、時折、焦れて彼の様子を覗きにいった監視者が店内に入っても、びくともせずに漫画雑誌をペラペラ捲っている。
「大金持ちのくせに立ち読みかよ。買って家で読めばいいのに……」
連載を追いかけてる漫画が1つや2つしかないなら、ゴミが増えるだけだし立ち読みでもいいが、あれだけ熱心に熟読している様子を見ると、おそらく、買っても元が取れるに違いない。
このまま動きがないなら、その姿を見守りながら、情報交換の続きをしようか……と言いかけた時だった。
「お、動いた……」
彼は読んでいた雑誌をパタンと閉じると、店内をぐるりと一周してから、レジへと向かい、店員に何か声をかけた。店員にぺこりとお辞儀をすると、バックヤードへと入った。どうやら店員にトイレを貸してもらったらしい。
「……マンションの方に藤後が現れるかも知れない……戻ろうか」
「いや、やめた方がいいだろ」
今の今まで見つからないのだ。正直、あれだけの人数に見張られていたマンションに、藤後がひょっこり現れるとは思えなかった。それより、こっちを見張っていた方がいい気がする。立ち読みを終えたら、すぐ家に帰るとも限らないのだし、もしかしたら、このあと別の場所にも行くかも知れない。そして、そこに藤後が現れないとも限らない。
それもそうか……という倖と、じっと邑楽がトイレから出てくるのを待っていたのだが……それにしても遅い。
「遅いわね……大かしら? 家でやんなさいよ、家で」
「いや、もしかしたらビニ本を読んでいてついムラムラきて、オナってるのかも知れないぞ」
「それこそ家でやんなさいよ! ……あんた、時折発想がフリーダムになるわよね」
下らない会話をしながら、待つこと数分……それでも、邑楽は出てこない。
「なんか……おかしくね?」
……本当にオナってて、遅漏の男ならいざしらず、仮にウンコでも長すぎる時間が過ぎていた。流石にこれは変だ。
顔を見合わせた二人は、車を降りるとコンビニへと向かった。通りすがりに電柱の影のヤクザをちらりと流し見たら、今にも人を殺しそうな形相で焦れていた。ちびりそうになる。コンビニに着いたら店員にトイレを貸してもらおう……
ピンポンピンポンとチャイムを鳴らして自動ドアが開かれると、奥から店員が出てきてレジに立った。藤木は真っ直ぐにレジへ行くと、
「すみません、トイレ貸してくれませんか」
「はい、どうぞ」
商品には目もくれず、一直線にトイレに向かう。トイレは男女に分かれた個室で、邑楽が変態でもない限り、入ってるとすれば男の方だ。しかし、そのドアは開いていた。
「やられた……」
そしてもちろん、女便所の方も空である。
トイレはバックヤードの入り口にもなっている。覗き込むと、奥には店内よりもずっと暗い倉庫が続いていた。藤木はトイレを素通りし、
「あ! ちょっと、お客さん困りますよ」
と言う店員を無視して、商品倉庫へとずかずか入っていくと、その奥に外へ出れる裏口を見つけた。コンビには川沿いに建っており、藤木たちが見張っていたのは住宅街側、裏口から外に出ると、すぐに川沿いの道に繋がっており、街灯の少ないその道路に人影は全く見つけられなかった。
追いかけてきた店員に問う。
「なあ、あんた。さっき男が店内で立ち読みしてたろ?」
「……おまえが、あいつを追っかけてきたヤンキーか?」
と、突然、店員が藤木に掴みかかってきた。
「いたたたたっ!」
「ふざけやがって、警察に突き出してやる!」
手首を捻られ、あっという間に組み伏せられてしまった。藤木が弱いわけではない。コンビニ店員が強いのである。ホントだよ?
……あの時、邑楽が店員に話しかけていたのは、トイレを貸してほしいと頼んでいたのではなく、追われているから裏口から逃がしてくれと言っていたのか……今、それがわかっても、後の祭りだ。
言い訳の言葉を探しつつ、倖に助けを求めようと声を上げようとしたときだった。
「おい、君、警察なら間に合ってるぞ。離してやんな」
裏口の扉が開いて、てっきり倖が出てくるかと思いきや、見知らぬおっさんが出てきて言った。手に警察手帳を掲げて、店員の肩をぽんと叩くと、川辺の道を左右に見渡し、
「なるほど……やられたな。君、どっちに行ったか分かるか?」
「俺が来たときにはもうとっくに……」
店員に組み伏せられながら藤木が返すと、彼は舌打ちし、苛立たしげにタバコを取り出すと火をつけた。
「ちっ……ヤクザにあれだけ露骨につけ回されたら、逃げたくもなるわな……それで、君はいつまでその子を押さえつけてるつもりだ」
おっさん……刑事がじろりと睨みながらそう言うと、コンビニ店員は大人しく藤木を解放した。彼自身は一体何が起きてるのか理解しきれていないようで、オロオロとしている。
刑事は携帯無線機に向かって、邑楽に逃げられたことを伝え、なにやら指示を飛ばすと、
「……あまり期待は出来ないが……俺はあっちを探すから、君はこっち側を行ってくれ。10分ほどしたら公園で合流しよう」
「まだ店内に連れがいるんですけど」
「あの姉ちゃんなら、とっくに車に戻ってるよ。今頃通りを探してるはずだ。もしも邑楽を見つけたら、彼女に連絡を取りな」
刑事はそういうと、藤木の返事を待たずに駆け出した。川沿いの道は薄暗く、あっという間にその姿は見えなくなった。
戸惑うコンビニ店員を残して、藤木も夜の町へ駆け出した。




