俺を男にしてくれないか
警察署に入るのは初めてだった。普通に暮らしていたらまずお世話にならないし、出来れば一生お世話になりたくない行政施設のナンバーワンであろうその建物は、いつ建てられたのか築年数の読めない老朽化した建築物で、ただ頑丈さだけが売りの無骨なコンクリート壁に囲まれた、目の前を通るときなんとなく顔を伏せてしまいそうな、物騒な外観をしていた。
しかし中に入ればそんなこともなく、どこかの古い病院や市役所のような受付のある1階を抜けて、2階以降は昭和の映画に出てきそうな事務所が並んでおり、サラリーマンのような若いスーツや、制服を着ていなければ勘違いしてしまいそうな、近所のスーパーでレジを打っててもおかしくなさそうなおっちゃんが詰めていた。ただし、みんなガタイだけはいい。その事務所の隣と言うか、壁も挟まない続きの部屋に、学校の指導室のような、もしくは懺悔室のような取調室がいくつか置かれていた。
藤木はその一室に連れて行かれ、若くてどこかぼんやりとした雰囲気の男に調書を取られた。昨今の情報可視化の影響か、それともそれが取調べではないからか、扉は開け放たれており、ひっきりなしに人が通り過ぎるからかなり落ち着かない。
「……それで、君が旧校舎に行くと、立花先生と生徒会長さんが先に居たと」
「はい。それから暫くして、野球部の連中が、中沢に連れられてやってきました」
「その時に、不審な人影を見かけたりとかはしなかった?」
「いえ、まったく。普段どおりと言うか、寧ろ普段より人が少なかったです」
「建物内に入って不審に思ったことは?」
「一階の教室に複数人の足跡がついてたので、どうやら普段から誰かが出入りしていたんじゃないかと……」
「なるほど。それから、建物内が汚れているので、みんなで掃除をした」
「と言うか、換気が先ですね。窓を開けていたら、掃除用具を持った董家と藤原がやってきて、それじゃって感じに」
「その時、立花先生はどこにいたの?」
「あの人は中央の階段でずっと座ってました。俺らだけ働かせて」
「そのあと、全員で掃除を?」
「いえ、今度は二手に分かれて、掃除班と換気班とで、俺は換気班で、2階より上の教室を開けて回ったんです。で、4階の音楽室に鍵が掛かっていたことに気づきました」
「その時、そのドアを開けようとはしなかった?」
「しましたけど、鍵が掛かってちゃどうしようもないですからね。まあ、いいやって、諦めて1階に戻りました」
「鍵は立花先生が持っていたそうだけど」
「ああ、はい。1階で掃除してた誰かが拾って持ってきたって言ってました」
「そのあと、保健室へ移動した……これは全員で?」
「はい。全員です」
「立花先生も?」
「あー、あの人だけ中央階段にいましたね。居眠りしてましたよ」
「君たちが保健室に居たときに、音楽室からピアノの音が聞こえてきた」
「正確には違います。俺と松本の二人は、中央階段で立花先生と話していました」
「……その時には、もう凶器のバットは昇降口から消えていた」
「はい……それで気味が悪いから、腕っ節の強そうな奴らで音楽室に向かいました」
「立花先生も一緒に」
「はい。一応、自分が現場責任者だからって言ってましたね」
「先生は音楽室には入らなかった?」
「ええ……入りませんでしたよ」
「そうですか。どうもありがとう」
おいおい、なんか立花先生って連呼しすぎやしないかい。もしかしてあんたの好みだったか。場合によっては電話番号くらいなら聞いてきてやってもいい。下手な考えはよして、仲良くしようぜ。
「第一発見者で、死体の確認をしたのは君だそうだけど。こう言ってはなんだけど、君はとても落ち着いて見えるね」
「……あまりに想定外な出来事だったもんで、いまいち現実感がなくって」
刑事さん、自分なんかよりも立花先生の方がずっと怪しい動きをしていました。間違いありません。
通り一遍の事情聴取を終えて、調書を取り終えると、刑事は藤木にもう帰ってもいいと言った。また何かあったら連絡をするかも知れないが、今日はこれでお役ごめんだそうだ。
やたらと立花倖のことを聞かれたが、警察は彼女のことを疑っているのだろうか? 怪しいと言えば、怪しいが……あの年中学年主任に追っかけられてる、問題教師が殺人なんて物騒な真似をするとは思えない。きっと勘違いだろう。しかし……
(それ見たことか)
音楽室の扉を開けて、あの光景が目に飛び込んできたとき、隣に佇む彼女の口から、確かにそんな言葉が漏れた。それ見たことかってのは、こうなることを予想していた……と捉えることも出来なくない。そんな言葉だ。
なんで、彼女はそんな言葉を口にしたのだろう。思えば、前日に電算機室で会ったときも、なんとなく変と言うか、普段とは違ってピリピリして見えた。
「すみません。俺と一緒に連れてこられた、学校の先生はまだ取り調べ中ですか?」
通りすがりの刑事に尋ねると、彼女はまだ別の部屋で聴取を受けていると返って来た。ここで待っててもいいか? と聞いても、いつまでかかるか分からないから、帰りなさいと言われ、背中を押されるようにして階段へと連れてこられた。
不満であるが刑事相手にごねても時間の無駄だろう。1階へと下りてくると、受付の前で馳川小町が婦人警官に怒られていた。
「すみません、すみません。もうしませんから」
パトカーに乗せられた藤木を見かけて、猛ダッシュで車道を突っ走って、そのまま警察署に飛び込んだものだから、ぎょっとした警官にしこたま怒られていた。平謝りである。そんな小町を呆れながら眺めていると、藤木に気づいた彼女がプンプンとした表情で近づいてきた。
聴取を受ける前に、軽く何があったかは伝えておいたのだが、
「あ! 藤木……あんた、お母さんが大変な時だってのに。警察の厄介になるなんて……あたしは情けないよ!!」
まるで信じていなかったらしく、前科一犯を決め付けられた。まあ、殺人事件の第一発見者になったなんて与太話、誰が信じようというものか。藤木だって、万引きで補導されたと言われたほうがまだ信じられるだろう。
しかし、誰に笑われようともそれは事実だし、今、容疑者のように疑われてる自分の先生がいるのだ。
「……なあ、小町。頼みがあるんだ」
「なによ」
「俺に……俺に、オナニーをさせてくれ!」
ブーっと、受付の中に居た警官が飲んでいたコーヒーを噴出した。
「ちょっ、あんた……急になに言い出すのよ!?」
「頼むよ。時間がないんだ。俺は今すぐオナニーしなきゃならない。馬鹿なお願いだってことは分かってる。でも、こんなこと、小町にしか頼めないんだよ」
通りすがりの婦人警官が、手錠に手をやった。
「あああ、あんたねえ……正気なの?」
「マジも大マジだ。無理いってるのは分かってるよ。でも今やらなければ、俺は一生後悔する。それは間違いないんだよ。だから頼むよ、小町。俺を男にしてくれないか!」
「そんなこと言われても……あんたねえ、時と場所を考えなさいよ」
「今すぐじゃないと駄目なんだ!」
「あんた……ホントに……本気なのね!?」
「ああ! もちろんだっ!」
「ああぁ~……もう、仕方ないんだからぁ~……今回だけなんだからねっ!!」
「っっ! ありがとうっ! 小町っ! 恩に着るぜ! ……あ、おまわりさん。トイレどこですか?」
「さっさと帰れよ」
物凄い顔で睨まれました。
小町と自分の死体を、公園の車椅子用トイレの中に置いて、藤木はふよふよと幽体離脱して警察署へと舞い戻った。
先ほど、自分が連れてこられた取調室を覗いてみたが、そこも、隣接する別の部屋にも立花倖の姿は見つけられなかった。戻ってくるのに少し時間を食ってしまったので、もしかしたら入れ違いで帰ってしまったのかも知れない。
さて、どうしたものかと、手当たりしだいの部屋に壁抜けしていたら、上のほうの廊下で気になる張り紙を見つけた。
『○×市会社役員刺傷事件、成美高校殺人事件合同捜査本部』
合同ということは、警察は二つの事件を同列に扱っていると言うことだ。警察は、旧校舎の殺人犯と、逃走犯が同じであると考えているのだろうか。
あのピアノが鳴り出したとき、藤木たちもまず真っ先に、逃げ回ってるらしい凶悪犯の姿を連想した。やはり、犯人が成美高校に潜伏している可能性があったということだろうか? ぞっとしないが、もし、そうであるなら、倖は事件とは関係ないことになる。
興味を引かれた藤木が室内に入ると、丁度、問題の事件の会議中であった。
「……これにより、逃走中の犯人は地図上の円形内に潜伏しているものと思われます。それには成美高校も含まれます」
「次」
「えー、本日、午後17時30分過ぎ、その成美高校旧校舎内において発生した殺人事件ですが、被害者は病院に搬送されたのち、死亡が確認されました。死因は頭部殴打による失血死。死体の損傷は激しく、死後も執拗に殴られたと見られます。被害者は台場聖15歳。同校に在籍中の生徒で、今年の四月入学。素行の悪さが指摘され、現場にはタバコを吸いに度々訪れていたと、学校関係者の供述で推察されます」
「逃走犯、藤後玲とは、出身の七条寺市立第2中学校の同級生で、中学時代の仲は良かった。証言によると、被害者は逃走犯の言いなりで、いわゆる舎弟の関係であったようです。卒業後も度々市内で一緒にいるところを目撃されています」
「凶器のバットですが、同校野球部2年の董家拓海の所持品と断定されました。凶器は同日、董家によって旧校舎に持ち込まれたものの、いつの間にか無くなっていたと、目撃者全員が証言しています」
「殺害現場の音楽室の鍵ですが、事件発覚前に、旧校舎1階にて、同校野球部1年邑楽修によって発見され、同校英語教師、立花倖に預けられたそうです。立花倖は旧校舎内で、ずっと単独で行動しており、鍵も所持していたことから、唯一凶器を音楽室へと運べた人物と推察されます」
「補足ですが、事件発生時、音楽室からピアノを叩きつける音が上がったことを、目撃者全員が証言しており、死亡推定時刻とも合致していることから、犯行はその直後に起きたと考えられます。立花倖はその際、同校の生徒と一緒に居たことが確認されています」
やはり、あの人疑われてたのか……状況を整理すると、かなり疑わしいことは藤木も気づいていた。だからこそ、こんな無茶をして警察署を覗きに来たのだが……
「えー、その立花倖ですが。先ほどまで続けられた取調べで、台場に対しては明確に殺意があったと供述しています」
……は?
「しかし、犯行は否定。自分ならもっと上手くやるだろうと言っていました。ただの強がりだと思いますが」
「私見は慎むように」
「えー、被害者である台場、逃走犯の藤後、そして立花倖に関しては、添付資料の第33号事件を確認してください」
第33号事件? 何の事だろうと、誰かが資料をめくらないか見渡してみるが、誰もぴくりとも動かなかった。見る必要もないほど良く知ってるということか? 一際貫禄のある老刑事がぽつりと呟く……
「……あの天才姉ちゃんか」
「事件後、侵入者がいないか学生が確認したところ、旧校舎内の全ての教室内は無人であったそうです。また、校舎東側の外部階段ですが、非常口には鍵が掛かっており、開閉された形跡は見当たらなかったと鑑識から報告がありました」
「鑑識からはもう一つ。旧校舎内全域に途切れ途切れにルミノール反応があり、恐らく、第一発見者の靴に付着した血液が原因だと思われますが、それ以前についたものも、いくつか発見されたと報告があがりました」
……少し気になる情報もちらほら出てきたが、それよりも倖のことである。第33号事件とはなんぞや? と、諦め悪く刑事たちの持つ資料を一つずつ確認している時だった。
藤木は、ふっと頭の中の血液が弾けてしゅわしゅわするような感覚がして、それからぐいっと体が引っ張られるような感じが襲ってきた。かと思うと、途端に視界がグルグルと回りだし、ピンホール映画のように視界が狭まっていくのを感じた。
あ、やばい。これ、体に戻されてるんだ……
と思う間もなく、藤木が目を開けると、ばつの悪そうな顔をした小町が藤木を覗き込んでいた。何があっても30分たったら戻してくれと頼んでおいたが、まだそんなには時間は経ってない。
どうしたのだろう? と思ったら、コンコン、コンコンと執拗に扉を叩く音が聞こえた。どうやら、タイムリミットの前に、お客さんが来てしまったらしい。
障害者用のトイレのでっかい扉を開けたら、心底迷惑そうな顔をした車椅子の男が、じろじろと二人を覗きこんだ。いや、別に特殊なプレイをやっていたわけじゃないよ。栗の花の匂いがするかも知れないが、それは気のせいだ。
藤木は屈辱に顔を真っ赤に染めている小町の手を引いてトイレから出た。考えることは山ほどあったが、どうにもまとまらなくて、もやもやが募るばかりであった。




