恋人の名は成実と言った
まだ夏の暑さが残る放課後の河川敷に金属バットの音が響いていた。
クラスメイトたちに懇願されて、いやいや付き合わされた晴沢成美が野球場に姿を現すと、それに気づいた兄がキャッチャーマスクを取って手を振った。
「きゃー! お兄さーん!」
と、友達連中が恥ずかしげもなく黄色い声援を上げると、なるみは居た堪れなくて、顔を真っ赤にして伏せた。
晴沢成美は幼い頃は兄にべったりで、どこへ行っても後ろについていくような少女であった。兄の伊織も面倒見がいい性格で、嫌がらずに妹の相手をしていたから、近所では仲がいいと評判な、そんな兄妹であったらしい。しかし、中学校に進学してお互いの生活がバラバラになると、物理的にも思春期特有の自意識的にも段々と疎遠となり、徐々に話をしなくなっていった。
成長期が訪れて急に男らしくなった兄が、夢中になっている野球のせいで汗臭いのも嫌だったし、吐き気がするくらいご飯を食べるようになって、それを見てるだけで胸焼けがしたし、おまけにその食べ方が汚かったり、男友達の中心で、いつの間にか野太くなった声でガハハと笑う声も嫌だった。けど、一番嫌だったのは、家へ連れて来たクラスメイトたちが、こぞって「お兄さん、格好いいね」と言うことだった。
いやいや、兄はそんなに格好良くないよ。ずぼらだし、がさつだし、風呂上りはパンツ一枚でうろつくし、股間をぼりぼりとかいた手を洗わずに、ご飯を食べていたのを見たときは、夢でうなされたよ……といくら説明しても、彼女たちは兄のことをまるでジャニーズのアイドルみたいに、キャーキャーと騒ぎ立てるのである。
だから本当はもう、友達を家に呼んだり、野球の試合に連れて行ったりするのは嫌だった。けど、それをしてしまったら、学校で孤立してしまわないかと不安だったし、そしてなによりも、兄の友達である、藤原騎士に会えなくなるのが嫌だった。
いつも女の子たちに囲まれてちやほやとされる兄。そんな兄といつも一緒にいて、あぶれてぼんやり佇んでいるのが彼だった。
少々口下手で顔が怖く、なによりも体が凄く大きいから、彼はまず間違いなく初見の女の子には怖がられた。それを自分でも分かっているのか、伊織が女の子に囲まれると、自主的に距離を取って遠巻きに眺めているような、そんな人だった。
なるみも兄をちやほやする友達には付き合いきれず、自然と距離を取っていたから、気がつくといつも隣に彼が居た。
正直、初めは少し怖かった。けど、すぐに慣れたのは、きっと藤原騎士が彼女持ちだったからだろう。藤木の言ったとおり、相手が自分に好意を向けることが決してないという状況は、とっても気楽なことなのだ。でもそれは、自分の気持ちを抑えられる、そんな人に限るのだと思う。もしもその人のことを好きになってしまったら、その決して交わることのない関係性に打ちのめされてしまうだろう。
そう、いつしかなるみは彼に惹かれていった。
普通に暮らしていたら絶対に気づかないが、ナイトは地元ではかなり有名な野球少年で、その名は全国に轟いて、中学三年の夏には甲子園常連高からの誘いがちらほらと舞い込んでいたらしい。試合が始まってしまえば、彼は兄など足元にも及ばないくらい、誰よりも輝いて見えた。
兄はそれを自分のことのように誇らしげに語っていた。だが、もしそうなってしまったら、彼と兄は別々の道を歩むこととなり、そして、なるみはもう彼と会うことが出来なくなってしまうだろう。
それを考えると胸が苦しくなる。でも、もっと苦しくなるのは、
「成実っ!」
2アウトのバッターを三振にしとめて、ベンチに帰る彼が、バックネット裏にいる彼女を見つけて、嬉しそうに手を振ることだった。
彼の恋人は成実と言った。
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「きゃー! お兄さーんっ!!」
クラスメイトたちが黄色い声援を上げる。耳がキーンとして、頭の中身が何もかも、かき乱されるようだった。なるみは決して、彼女たちのように声を張り上げることは出来ない。
かき乱されたのはなるみだけじゃなかった。代わりに守備に付く高校生たちの目つきも、いよいよ変わってきた。
「らっしゃー!」「うぇーい!」「ってこー!」「っらー!」
腹の底から大きな声を出して、相手チームを威嚇するように叫んだ。殺気立つ高校生相手に、中学生が心なしか小さくなる。声援では明らかに負けてるので、せめて試合だけは絶対に勝とうと、野球部は気合を入れて守備についた。
しかし、グラウンドとはあらぬ方向から声がかかって、せっかくの気合は上滑りになった。
「おお、野球部頑張れよー!」「ああ!? 同点じゃねえか。金玉付いてんのか金玉」「晩飯かかってんだ、死ぬ気で走れよー!」
土手の方からだみ声が聞こえてきて、チンピラみたいな集団が降りてきた。見ると高校の制服を着ているから、信じられないが自分たちの先輩らしい。グラウンドに散らばった9箇所から「ちっ」と舌打ちが聞こえた。多分、ベンチも舌打ちしてるはずである。
「おー、こっから良く見えっぞ」「つーか何で今日こんな人多いわけ?」「さあ、知んね。俺らだって、よく分からないで見に来ただろう」「相手、強豪校とかじゃないの? ……ってなんじゃこりゃ。中坊じゃん」「そうなん?」「ああ、地元シニア」「ふーん。藤木そう言うの詳しいんだっけ?」「いや、全然。プロ野球見るくらいだな」「じゃあなんで知ってるの?」「このチームって、珍しいことに女の子が一人いるんだよ。ほら、あそこ」「あ、ホントだな。おっぱい」「おっぱい」「おっぱいやん……おっぱいあると、ただの野球のユニフォームがやけにエロく見えるよな」「そういや、ナックル姫って居たよね」「ああ、居たな。今思えば何か特殊なプレイにしか聞こえん」
彼らは、なるみたちの横に陣取ると、フェンスを掴んでガシャガシャ音を立て始めた。まるで檻に入れられたゴリラのようである。クラスメイトたちは眉を顰めると、嫌そうな顔を隠しもしないで、彼らと距離を取った。
「しかしなんだね野球って、なんなんだろうね、始めに考えた奴は頭おかしいよ? 玉を棒で叩いたり、ミットに突き刺さしたり、ばっちこいとか、後ろは任せろだとか、なんかあいつら狙ってんじゃないのかってくらい、無駄にゲイっぽく叫ぶよな。やけにケツがパンパンしてるし。ガチホモのプロもいるし」
「いや、ビリヤードの方がエロくないか? 玉を棒で突いたり、穴に入れたりするんだぜ。きめ細かい布で、キュッキュッと玉を磨くのも、なにか白い粉で、棒の先端を擦るのも、誘ってるのかってクラクラくるね。おまけに、野球と違って女子のプロもいるんだぜ?」
「女子ってのがポイント高いよな。女子の玉遊びって言葉が、それだけでグッと来る。そういえば、バスケって玉の感触に慣れるために、一日中玉を弄び続けたりするらしいな」
「玉、一日中弄ばれるって、考えようによっちゃ地獄じゃね? 1時間もしたら変な汗かいてぐったりしてそう」
「……なあ、棒遊びする競技ってないんかな。いや、玉遊びもいいよ? いいけど……でも棒じゃないと、俺はイケないと思うんだ」
「ああ、確かにイケない」
「棒遊びっつったら……バトンとかかね。チアリーディング? あ! 察しちゃったよ。やっぱ野球エロいわ。ホモもどんと来いだし、あいつらに死角はねえわ……」
うんざりするような下品な会話を飛ばしまくる高校生たちが隣に来たせいで、クラスメイトたちの神経は千地と乱れたようだった。気がつけばヤケになったかのように、より一層声を張り上げて兄に声援を送りだした。さっきまで、その声に苛立ちを覚えていたのに、今はもうそんな気がしない。
それはもっとうんざりするような声援が、隣から出るからだろうか? なるみは苦笑いした。
高校生たちは賭けをしているようで、二陣営に分かれて一球一球ごと、お互いの足を引っ張り合うかのような野次を飛ばしあっていた。野球部員がキレて返事を返すと、ゲラゲラ笑った。露骨に金銭のやりとりを示唆しているから、決して褒められたものじゃなかったが、クラスメイトと彼らと、どちらの方がちゃんと野球観戦を楽しめているかといえば、多分彼らの方なのだろうと思う。
バックネット裏に陣取る、とても綺麗な彼女にしたってそうだ。彼女の声援は、決して一人に向けられたものではなく、チームメイトの全員を理解して、一人ひとりに対して一生懸命声援を送っていた。だから彼女はあそこに居ることが許されるのだろう。あの人に好きになってもらえたのだろう。
試合は進んで7回裏2アウト。規定により、延長戦無しの最終回。あとアウト1つという場面になっても、スコアボードは最初から最後まで0が並んでいた。
高校生の攻撃で、マウンドには初回からずっと藤原騎士が上がっている。1塁ベース上には、四球で出したランナーが一人おり、おあつらえ向きにバッターボックスは4番打者。勝ち負けがいまいち分からず、質問してくるクラスメイトに説明していると、
「がんばれ!! がんばれ!!」
バックネット裏から、大きな声が響いてきた。最終回、彼氏のピンチでいてもたってもいられなくて、つい声を張り上げてしまった。そんな感じである。声を張り上げて、顔を真っ赤にして、どうしようもなく必死なのに、だけど彼女は美しい。
いいな、あれ……
羨ましいと思うなら、自分も一緒に声を上げればいいのに。兄の友達なのだから、別にいいではないか。どうして自分はそれが出来ないのだろうかと、なるみは思った。
自分には出来ないこと、顔に出すことも許されないことを目の前でやられて、ただ胸が痛むのを我慢していた。たまたま、兄の友達として出会った人で、彼女がいることも知っていた。だから、本来ならこんな胸の痛みなんて、感じるわけがない、勘違いなのだから。
「がんばれ!! がんばれ!!」
そんな単純な言葉に、泣きそうになるわけがないのだ。
「どうしたの、なるみ?」
本当にどうしたのだろうか。クラスメイトの問いかけに、取り繕おうとしたとき、
「だあああーー!! がんばれがんばれって、伊東ライフかっつーのっ!」
ドブのようなだみ声が耳に飛び込んできて、思わず咽た。
キーンッ! と金属バットがボールを叩く音がする。
「ごほごほごほっ!」
「ちょっと、なるみ、大丈夫!?」
心配するクラスメイトを手で制し、なるみは打球の行方を見守った。上空に高々と上がったボールは、風に乗って、一直線に外野フェンスを越えていった。
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雨音が五月蝿くて、話し声もところどころ聞き取れない、そんな部室棟の中で藤木はなるみの話を聞いていた。
その試合のことは覚えていた。学校帰り、いつものように、仲間と連れ立って町へ繰り出そうと正門前の橋を渡っていた。そんな時、ふと河川敷を眺めてみれば、珍しく野球場の周りに人垣が出来ている。あれはなんだ? と言うわけで、一行はバス停へ向かう足を曲げて、野球場へと降りていった。
野球部の秋季大会前の壮行試合と称したその試合は、普段の野球部の練習風景を見慣れていた藤木たちからすると唖然とするくらい、どういうわけかやけに人を集めて賑わっていた。大半は、野球部の親族で、頼まれて試合のビデオを撮っていたようだったが、それに釣られて集まってしまった散歩中の通行人はともかくとして、一体どこから現れたのか不思議になる、ヤクザっぽいおっさん連中が球場を取り囲んで、熱心に試合観戦をしている姿は奇異に映った。
今にして思えば、試合を熱心に見つめる職業不明なおっさん連中が、何者であったのか憶測も出来るが、当時はちんぷんかんぷんで、ヤクザが賭博でもやってんじゃないのか? と、あらぬ勘違いをした藤木たちは、別段急いでるわけでもなく、自分たちもあやかろうぜと、放課後の暇つぶしにトトカルチョを選ぶことにしたのだった。因みにカルチョとはイタリア語でサッカーのことらしい。野球の場合はなんて呼べばいいのだろうか。
とまれ、そんなわけで賭け金がかかっていたあの最終回。そのままいけばドローで済むはずの場面で、「がんばれ!! がんばれ!!」が聞こえてきたのである。
中学生チームに賭けていた藤木は苛立った。
当たり前だろう? あれだけ緊迫した場面なのだ。彼女にそんな風に応援されて、頑張らない男がどこにいるというのか? あの場面、藤木の脳裏を過ぎったのは、直球勝負。ただこれだけ。自分の好きな女の子に格好付けるために、変化球を投げる男なんか居やしまい。
その考えは同じくバッターボックスに立っていた四番打者も同じだったようで……結果は高々と上がった打球は楽々と外野フェンスを越えて、サヨナラ2ランホームラン。なのに打たれた張本人は苦笑しつつも、どこか清々してるのである。
そりゃ突っ込みたくもなる。
「あれで少し気が楽になりました」
でも、あの突っ込みを聞いて、なるみの胸の痛みは笑いに変わったらしい。藤木の財布の中身は傷んだが、それは重畳であった。
もっとも、それより気になることが別にあるが。
「なるみちゃん。ライフしってるの?」
なるみは明後日の方向を向いていた。そして、薄く笑いながら自虐的に言った。
「本当は、なるみって呼ばれるのは好きじゃないんですよ……」
ただ、そう呼ばれていると、藤原騎士が振り返ってくれて、そして勘違いだったと言う顔をしてどこかへ行ってしまう。そんな一瞬を、彼女はずるずると続けているらしい。多分それは、叶わない願いと知りながら。
クラクションが鳴って、正門方向から車のヘッドライトが近づいてきた。
倖に送られて、団地前のバス停までやってくると、雨はいくらかマシになっていた。尤もマシになっただけで、まだまだそれは止みそうもない。車を降りて、なるみに手を振って分かれると、藤木は自宅の窓を見上げた。
自宅も、隣家の窓も明かりがついている。小町も天使もとっくに帰宅しているのだろう。本来なら、まだ帰宅する時間で無いし、母親はまだパートの時間だろうから、夕飯はどうしたものか……と、頭を悩ませながら玄関のドアを潜ると、
「うおぅええぇぇ~~~~……」
と言ううめき声と、胸がむかむかするような、酸っぱくて不快な臭いが家中に立ち込めていた。
「くっさ……おい、誰かいるのか?」
室内に声をかけるが返事が無い。
天使が帰宅してるはずだし、あの馬鹿がなにかやらかしたのかな……と、靴を脱ぎながら考えていると、ふと、昼間のサイレンを思い出して背筋が寒くなるのを感じた。
そういえば、凶悪犯が逃げ回ってるんだっけ……
いや、まさか……と首を振り振り、玄関を上がると、
「おおぅえぇえ~っ! おうぅいえええ~!! おおっうぅええぇぇ~!!」
っと、また強烈なうめき声が聞こえた。オフコースが歌っているわけじゃない。聞こえてくるのは洗面所のほうである。
「おい!? どうした、誰かいるのか!?」
藤木は警戒し、必要以上に大きな声を上げながら家に足を踏み入れると、洗面所に続く角を曲がった。
声の主は洗面所にはおらず、手前のトイレの中に居た。ドアを開けっ放して、四つんばいになりながら、上半身だけがトイレに入っている。
「母ちゃん!?」
覗いている足は天使ではなく、母親のものだとすぐわかった。若さというか、張りが違うと言ったら殴られそうだが、とまれ、パートに行ってるはずの母が一体? 戸惑いながら藤木がトイレに近づくと……
「おぅおぅえええぇぇぇぇ~~!!!!」
トイレの中で母親がビクビクと体を痙攣させて、盛大にゲロをはいていた。
吐しゃ物が辺りに飛び散って、物凄く不快な酸っぱい臭気が辺りに立ち込めている。思わず鼻を摘みながら、
「母ちゃん!? 母ちゃん!? どうしたんだ、母ちゃん!?」
藤木が驚いて母親の肩を掴み揺すると、彼女は真っ青で死にそうな顔をしながら、
「ふ、藤木……助けて……救急車……」
と弱々しく呟き、ゲロの中にダイブした。
「母ちゃああああぁぁぁぁ~~~んっっ!!!」
藤木の叫び声が団地中に響き渡る。藤木はゲロ塗れの母親をトイレから引きずり出すと、一目散に救急車を呼ぶためにリビングの電話へと急いだ。




