いつから、気づいてたんです?
超絶マッハで校舎を飛び出すと、藤木は雨にぬれるのも構わずに部室棟へとダッシュした。たちまち上着が水を含んで重くなる。ズボンの裾がふくらはぎに張り付いて気持ち悪い。髪の毛がびしょ濡れて、前髪から滴りおちる水滴を見て少し後悔したが、もはやこうなってしまっては仕方ないと、藤木は更に加速して校庭を駆け抜けた。雑木林まできたら多少マシになったが、結局部室棟へと飛び込んだときには全身水浸しで、ジュクジュクになった靴の中で水溜りが出来ている始末であった。
靴と靴下を脱ぎ、カバンと一緒に昇降口に立てかけると、上着を担いで階段へと足を向ける。部室棟はまるで人の気配がなく、真っ暗で、もしかして担任教師に騙されたのではないかと心配になったが、4階に差し掛かると上から明かりが漏れてきたのでホッとした。
廊下を奥へと進むと、パーティションの隙間から、窓の外をぼんやりと眺める晴沢成美の顔が見えた。降り頻る雨にうんざりと言ったアンニュイな雰囲気は、普段から、気がつくと窓の外を見つめている乙女のそれとは少し違って、なんとなく子供っぽく見えた。
「おーい、なるみちゃん!」
靴を脱いでいるから足音がしない。そのせいで藤木が上がってきたことに、まだ気づいていないようだった。脅かしてはいけないと思い、少し遠巻きに声をかけると、なるみはびくりと肩を震わせてから、キョトとした顔を向けてきた。
「……先輩? どうしたんですか。何か忘れ物ですか?」
「ふっ……ああ、そうさ、君と言う宝物をね」
「はあ……道理で雨止まないわけですね」
なるみは溜め息を吐きつつ、肩を竦めて窓の外へと目をやった。ザーザーと、一段と雨が増したような気がする。
藤木はペタペタと素足のままでパーティションを潜ると、手近に会ったパイプ椅子に腰掛けた。
「あの、立花先生を知りませんか? ずっと待ってるんですけど」
「うんうん。それなんだけどさ、あの人すっかり忘れてたみたいで、もうちょっと待っててくれって。いま学年主任に怒られてる」
「ええー」
「まったく、とんでもない奴だよな。こんなときに、こんな人気の無い場所で一人待たせるなんて。何かあったらどうすんだよな」
「大げさな。心配しすぎですよ」
「大げさなものか……」
と、言いかけたときだった。雨の音を掻き分けて、市内放送が流れ出した。
それは昼休みの物騒なものとは違って、毎日流れる夕刻を告げるメロディーだったが、すっかり暗くなった空と、誰も居ない学校の部室棟の中では、酷く不気味に聞こえた。
遠き山に日は落ちて。
本来なら日はまだまだ上空にあるはずだった。厚い雲に覆われて、それさえも見えない。
「……少し前までは、この時間はまだここに三人で居たんでしたね」
ぼんやりと聞くとは無しに聞いていると、なるみがポツリと呟いた。
市内放送の無愛想なメロディが流れて、遠くの方で小学生が家路につく声が聞こえて、目の前の野球グラウンドからは体育会系の良く分からない掛け声が上がり、キーンキーンと金属バットの甲高い音が響き渡る。
藤木がエロ同人の原稿を描きながらはあはあ言って下ネタを飛ばし、なるみがセクハラ発言にプリプリと抗議して、朝倉はまったく動じることなくパラパラと本のページをめくっていた。たまにユッキーがやってきて、ドン引きするような馬鹿をやって、マジ突っ込みを入れさせられる。
そんな毎日が、ほんの少し前まで続いてた。
「そうだな……早く日常に戻れるように、さっさと生徒会をどうにかしないと」
ストレスどころか、夏のイベントの原稿も溜まってしまう。そういや、溜まりに溜まった精力が爆発して、今朝、七条寺上空をぶっ飛んだのだった。由々しき事態はすでに起きてる。
なるみが続けた。
「先輩が生徒会長になるんじゃないんですか?」
「とんでもない。さっさと後任選挙やるつもりだよ。今はその準備で忙しいわけ」
「そうなんですか? 先輩がやってくれたら、楽しくなりそうなのに」
「俺が全然楽しくないよ。みんな嫌がるだろうしね」
「来年、私が高校に入ったら、先輩たちが迎えてくれたら嬉しいですよ。先輩が生徒会長で、もも子先輩が副会長で」
小町が書記あたりで、ユッキーが顧問でもしてるのだろうか。なんだか少女マンガとかにありがちな展開である。
例の事件後、忙しすぎて放課後に部室に寄ったことは殆ど無かった。補習もあれば、生徒会の雑用もあり、野球部ともやりあっていたのだ。そんな時間なんてない。
朝倉が補習が終わったあと、どうしていたかは知らないが、多分彼女も部室に立寄らずに家路についていたのではなかろうか。あの日、この場所を守ると言ったけれども、その結果として彼女はこの場所から解放され、気がつけばみんなで集まることが少なくなっていた。ここに固執する理由など元々なかったのだし、別にそれはそれで構わないと思っていた。
だが、河川敷のグラウンドに行って野球部にほうほうの体で追い払われるたび、ふと見上げると部室棟の四階の窓に佇む姿を見つけて、藤木は少し寂しく思っていた。その視線が一体何を捉えているのか、ほんの少し気にはなっていた。
機会があれば、いつか聞いてみようかと思っていたが、何しろ忙しい上に、昼は昼で小町までやってくるようになったので、ここのところあまり会話が無い。そんなことを考えていたら、同じようなことを考えていたのだろうか、
「ところで、藤木先輩と馳川先輩って、付き合ってるんですか?」
なるみがとんでもないことを言い出した。
「おおお、恐ろしいこというなよ!? 今ちょっと涅槃が見えたよ!」
「わっ、凄い反応ですね。なんかもう、意識しちゃってるのが見え見えみたいな」
「冗談じゃない」
「照れなくてもいいのに。馳川先輩も先輩のこと好きだと思いますよ。もも子先輩がちょっかいかけるの、凄く嫌がって見えますし……先輩も、結局は馳川先輩の方を受け入れてますよね。阿吽の呼吸というか、当然みたいに」
そう言ってクスクスと笑う。そのはにかんだ笑顔は大変魅力的であるが、
「あのね、なるみちゃんが思ってるような色っぽい話は絶対無いよ。小さいころからよくからかわれるけどね、幼馴染の関係性って、そんな単純なもんじゃないって。そりゃ、子供の頃から一緒だから、仲良さそうにも見えるし、ツーと言えばカーな部分もある。間違いなく付き合いやすい異性であるけどね」
「羨ましいですねえ」
「でも、逆にそれがネックっつーか、子供の頃から一緒って、兄妹みたいなもんなんだよ。なるみちゃんだって、お兄さんとそういった面はない? お互いに知り尽くしちゃってて今更というか」
「うーん」
「それじゃ例えばなるみちゃんはお兄さんと付き合うことが出来る?」
「おぞましいこと言わないでくださいよ。気絶しそうになりましたよ」
「そうだろう? それと一緒だよ。俺も小町とどうこうなるかもって想像しても……ええ~、ないわ~……って感じだもん」
「同じ血を別けた兄妹と、幼馴染じゃ全然違うと思いますけどね……」
久しぶりに二人っきりであるからか、なるみにしては珍しく食いついてくるので、藤木は苦し紛れに強引に話を変えた。
「そう言う、なるみちゃんの方はどうなの。切っ掛けくらい掴めたの」
「え?」
「いつも見てるじゃない、好きなんだろ? あー、なんてったっけ。藤原騎士?」
話題逸らしのつもりで、気になっていた疑問を口にした。突っ込んで聞くつもりも無いし、当然、否定されるだろうと思っていた。そしてしどろもどろになる、なるみをいつものようにからかって、煙に巻いてしまおうと、そんなことを考えていた。
しかし、目の前の後輩は虚を突かれたように呆然とし、ポカンと口を開けて、じっと藤木の目を見上げてくるだけで、特に何の反応も示さない。
うわ、なんだこれ……
「いや、だっていつも見てるじゃん? 最近、野球部と色々あったからさ、しょっちゅう河川敷行ってたけど、振り返るとなるみちゃん、いつもこっち見てるからさ。それに、思い返せば四月に初めてここにやってきた時も、ずっと野球場の方見てたし、まあ、そうなんだろうなって……バレバレっつーか……」
相手が誰かは分からなかったが、昼休みにたまたまその後姿を追いかけているのを見かけて、多分そうなんじゃないかな? とカマをかけただけではあるが……
なるみは暫くポカンとした表情をしていたが、やがてみるみる顔が赤くなってくると、俯いてプルプルと震えだした。目じりに涙が滲んでいる。
やべえ、どうしよう……こういう惚れた腫れたの話は難しいから、気安くからかうものでは無かったと、藤木が後悔していると、
「ちちち、違いますよ!? そんなことありませんって、やだなー、先輩。あははははは」
「いやいやいやいや、もはや手遅れだろう。つーか、否定する気あるなら、もっと早くしろよ。お兄さん思いっきり言い訳しちゃったじゃないか」
「え? いや、だって? あれ? うそですよね」
半泣きであたふたと言う姿が痛々しい。藤木としても、無かったことにしてあげたいが……
「……ば、バレバレですか?」
「バレバレです……」
気づいてないのは本人だけか。
「朝倉先輩も、ああ見えて気づいてると思うよ。多分、ユッキーも」
下手したら小町あたりも、とっくに気づいてるんじゃなかろうか。最近ちょっと河川敷に顔を出してるだけの藤木が、あれだけ目が会うのだから、野球部の中にもいるはずだ。下手したら、自分に気があるとか思ってる、勘違い系男子が発生してても不思議では無い。それくらい、しょっちゅう彼らの方をなるみは見つめていた。
そしてその顔は、誰がどうみても恋に恋する乙女である。
なるみは、暫く、うーとか、あーとか、唸っていたが、やがて脱力したかのようにペタンと窓に頬を押し当て、投げやりに言った。
「いつから、気づいてたんです?」
「いや、だから最初からだって。見た瞬間、ああ、そうなんだろうなって」
「……先輩が、そんな繊細なことに気づくようなたまには見えませんけど」
「失礼な。俺はあれだよ、いつもセックスのことばかり考えてるからね。牝の臭いに敏感なんだ」
「酷い例えですね。さすがセクハラ魔人……」
溜め息を吐くなるみに対し、藤木は一拍置いてから言った。
「つーか、なるみちゃんさ、例えば彼女持ちの男と、そうじゃない男がいてさ、どっちの方がより安心して付き合える?」
「ええ? それが今、何かと関係あるんですか? まあ……彼女持ちの方ですね」
「それってどうしてだろう。多分、そいつの好意が全然別の方向に向いてるからだよね? 自分と彼がどうこうなることはない。だから気楽に彼女のことをからかってみたり、純粋に厚意に甘えてみたりも出来る。異性が必要以上に気安いときって、大抵そんなもんじゃない」
「はあ」
「それと同じだよ。自分に絶対気が無いってのが分かってるから、いくらでもセクハラ出来るのさ」
「ああ゛あ゛あああ゛ああ゛ああ゛~~~~~~~……」
なるみは頭を抱えて呻いた。
「そんっな理由で、私セクハラされてたんですか!?」
「そりゃそうだよ。じゃなきゃ、なるみちゃんくらい可愛い子をほっとくわけないじゃん。蝶よ花よとちやほやするよ、気を引こうとして。きっと今頃、エロ同人じゃなくって、高尚な哲学書みたいな文学を書いてるんじゃないかな。ちらちらと視線飛ばしながら、ノリ・メ・タンゲレとかほざいてそう」
「……それ、逆に嫌ってる自信ありますよ」
「まあ、少なくともセクハラはしてなかったろうよ」
「今の先輩でよかったですよ、ある意味……」
溜め息混じりに呟いて、なるみは力なく半笑いした。その笑顔が、いつもよりも少し子供っぽいのは、目の前の男が自分に対し異性として意識していないと、はっきり分かったからだろうか。
クスクスと、いたずらっぽくはにかむと、なるみは言った。
「でも、もしもの話ですけど。私が先輩のことを好きだったとしても。やっぱり先輩はセクハラしてたと思いますよ」
「そうかな」
まあ、そうかもなと、漠然と考えていると意外な言葉が続いた。
「だって、先輩は初めて会ったときから、ずっとセクハラでしたもん」
「……え?」
「やっぱり、覚えてないんですね」
それは四月の部室棟の出来事ではなく。
「去年の秋、風の強い日でした。私は友達に誘われて、放課後、河川敷の野球場に行ったんです。信じられない話なんですけど、私の兄さんは結構モテまして……中学の、兄さん目当ての子達が、野球部が試合をするから紹介してって、頼まれちゃいまして。いやいやながら、私もつき合わされたんです」
「あー、兄貴野球部なんだっけ……あれ? でも」
「はい。兄さんは当時まだ中学生で、高校の野球部じゃなくって、対戦相手のシニアリーグのチームの一員でした」
それを聞いて思い出した。
去年の秋口、野球部は秋季大会前の壮行試合と称して、河川敷で地元の中学生チームと試合を行った。高校生と中学生とは言え、当時の野球部は1年生部員がギリギリ9人しかおらず、対戦相手として丁度いい相手だったのだろう。
実際には、その年早速秋季大会で結果を出した野球部だったから、そんなことはなかったのだが、しかし試合は大方の予想通りに拮抗し、スコアレスのまま最終回まで試合はもつれこんだ。
つまり、相手の中学生チームもとんでもなく強かったわけである。
当時、藤木は落ちこぼれて暇を持て余しており、鈴木たち友人と一緒に、退屈しのぎに試合観戦をしていた。放課後の遊びの払いをかけて、トトカルチョをしたのだが、全員が野球部の勝ちを予想したので賭けにならず、仕方なく藤木が中学生に賭けたことを覚えている。
「あの時の中学生チームか……」
中学生側をもった藤木であった、勝算はあると踏んでいた。藤木は自分で野球をすることはないが、何しろ親子そろって野球好きなので、観戦の方はベテランといっていいほど年季が入っていた。そんな藤木が、1回2回と試合経過を見ているうちに、あの中学生投手なら高校生を抑えられるのではないかと思うようになってきたのだ。
「あの時、バッテリーを組んでいたのが、兄さんと、藤原さんです」
そう言われて当時の光景を思い出そうとするが、今の藤原騎士とその時の投手の姿がまったく一致しない。ただ、その投手はまだ中学生だと言うのにとにかく球が速くって、そして遠めにもはっきり分かるほど、鋭く曲がるスライダーを武器にしていた。そんな高速スライダーを苦もなく捕球するキャッチャーもたいしたもので、そのバッテリーのことは良く覚えていたが……
ただ、最も印象に残っているのはそんなことではなく、
「がんばれ!! がんばれ!!」
バックネット裏で、真っ赤な顔をして、周りの目なんかまったく気にした素振りも見せずに……まるで絵画の世界から飛び出してきたかのように、信じられないくらい綺麗な女の子が、一生懸命に叫んでいる、そんな姿であった。




