女の子になったら一番やってみたいこと
鏡に映る自分……つまり馳川小町の姿を見て、藤木は言葉を失った。何が起こったかは薄々感づいてはいるが、信じられないというか、理解が追いついてこない。戸惑い、右往左往していると、鏡の中の小町も一緒に慌てふためいていた。取りあえず、落ち着こうとして、胸に手をやった。
「……つか、マジどうなってんの?」
意識しないと弾力を感じることさえない、哀れな乳をもみもみと揉みしだきながら、藤木はうーん……と唸った。独りごちた時に聞こえた自分の声が、やたら甲高く感じられた。いつもとは手足を動かす感覚が違って、妙に体が軽く感じる。
部屋をグルグルと見回しても、鏡の中にしか小町の姿は見つけられない。自分の体を確かめようと視線を下に向けてみれば、女物のパジャマの胸元からブラジャーがチラチラと覗いていた。世の中には男性用ブラジャーと言うものがあるそうだが、おそらくこれは違う。と言うか、藤木は生まれてこの方ブラジャーをつけた記憶は無い。
こうも状況が揃ってしまったら、もう考えられることは一つである。
「やっぱ、これ、体を乗っ取っちゃったってことだよな……憑依ってやつ?」
ブラジャー越しに円を描くように、少し持ち上げるような動作で胸を揉みしだきながら、藤木は独りごちた。自分の胸筋とこれと、どっちが大きいだろうかと記憶を辿ってみるが、ぶっちゃけどっこいどっこいである。だが、ブラジャーを外してみないと正確なところはわからないが、こちらのほうが若干柔らかいような気はする。そんな不埒なことを考えていると、なんだか体の奥からじんじんとした感覚が湧き上がってきて、徐々に胸の先端部分がこりこりに固まってくるのを感じた。
「って、いかんいかん……」
首をふるって胸から手を離す。このまま続けてしまったら、変な気分になってしまう。これ以上はいけない。
ところで、どうでもいい話であるが、ブラジャーのホックは指で押さえつけながら摘むようにして外すんだぜと、中学の頃履歴書の職業欄にダンサーとか書いてそうな友達の兄さんが、得意げに語っていた記憶がある。かなり胡散臭い奴だったから、本当かどうかクラスの女子に聞いてみたのだが、変態扱いされるばかりで答えてはもらえなかった。あの歯がゆい思いは未だに忘れられない。ここは一つ、実地をもって確かめねばならないのではなかろうか。あくまで試しである。
結論からすると、それは無理だった。嘘と言うか無理である。背中のホックに手をやってみた瞬間、指で押すなんて体勢が苦しすぎると気がついた。「あ、これは男の視点だわ」と妙に得心が行き、改めて、女性が一人でホックを外すなら、両腕を背中に回して、ブラ紐の間に指を通し、少し引き下げながら左右にスライドさせるようにして外さないといけないということを確認した。
艶やかで滑らかな真白い素肌の先端に、少し充血したピンク色の乳首がピンと尖っているのが見えた。しかし、その乳首が男のそれより若干大きいような気がする。他意はないが藤木はよく確かめて置いたほうがいいと確信して、パジャマのボタンをぷちぷちと外して、少し胸元をはだけてみた。
ビンビンに勃起した乳首が外気に晒されると、藤木は全身を突き抜けるような快感が走り抜けるのを感じた。股間がむずむずとしてくるが、おちんちんが起っきするときの感覚とは大分違う。なんだろう、これ、凄くもどかしい……体をクネクネさせながら、ふと、視線を上げてみると、鏡の中で鼻の下を伸ばした小町の顔が見えた。
「おっと……いけないいけない。ってか、こんなことしてる場合じゃないだろう!?」
思わず、鏡の中の小町にマジ突っ込みを入れて、はだけた胸を隠すようにして布団にもぐりこんだ。
藤木は頭を抱えた。
胸のあるなしだとか、ブラのホックの外し方とか、そんなことはどうだって良いだろう。いきなりだったから、頭がまだ上手く働いていないようだ。
「何をやってんだっ! 俺はっ!!」
そんなことをする前に、やることがあるではないか。今の自分が置かれた状況をもっとよく考えてみろ。全国6千万の男子諸君全てにアンケートしても間違い無い。女の子になったら絶対やってみたいことがあるだろうが。
「せっかく女の体を手に入れたんだ! しなきゃっ、オナニー! 他に何があるってんだっ!!!」
迂闊だった……いきなりすぎて状況確認に時間を使いすぎて、物凄い遠回りしてしまった。
藤木は布団のなかでいそいそとパジャマのボタンをすべて外し、ホックの外れたブラも脱ぎ捨てると、左手を胸に、そして右手をパンツの中へと突っ込んだ。
そもそも果たして元に戻れるのか、幽体離脱だとか憑依だとかいう単語が、一瞬脳裏を過ぎったが、この際そんなのどうでも良かった。
藤木はオナニーのとき、乳首を触らないのは家系ラーメンでライスを抜くくらい人生を損していると思ってる。だからチクニーの気持ちよさは、論文に書けるくらいに良く知っていた。しかし、小町のコリコリに固まった乳首に指が触れたとき、そんな物など全て吹き飛んでしまうような衝撃が走った。
「なん……だと……?」
生物学的に女は男の64倍気持ちいいという、嘘かホントか良く知らない噂がある。仮に男同士でも快感を比べるのは不可能であろうし、そもそもそんなデータをどうやって実測するのか甚だ疑問であったから、眉唾であると話半分に聞いていた。しかし、藤木の全身を突き抜ける、抗いがたい快感の波が、その陳腐な話が本当であると裏付けていた。
「あひぃっ! こ、こんなっ! すっごっ! 乳首が! 乳首が射精しちゃうよぉ~」
意味不明な台詞を叫びながら、藤木は快感に仰け反った。全身が弛緩して、脳内麻薬がどんな分泌をしているのか、甘ったるいピンク色の気持ちだけが脳を支配していた。乳首でこれだ。パンツの中のあれを触ったら、一体自分はどうなってしまうんだろう……
はぁはぁと荒い息を弾ませながら、藤木は上下する胸元を擦りながら、いよいよパンツの中に突っ込んだ指を肝心な部分へと這わせた。
「っっっ!!?? しゅっ、しゅごいぃひぃぃいい~~! 女の子、しゅっごいよう~」
藤木は興奮し、エロ同人のような台詞で喘いだ。
「ああぁああぁ~! 駄目駄目駄目! 飛んじゃう飛んじゃう! クリオナっ! しゅっごい! しゅごいよぉ~! もうセックスのことしか考えられない」
「……何が凄いんだって?」
「クリオナっ! クリオナがしゅごいのぉ! ああああ~~~!! いくいくいくっ! 飛んじゃうっ! 飛んじゃううううぅぅぅぅ~~!!! ……うぅぅ~……うー……うー??」
目をつぶって、左手を胸に、右手を股間に這わせていた藤木が、何か不穏な空気を察知して目を開けると……目の前に幼馴染の部屋の天井が迫っていた。
藤木は文字通り飛んでいた。
「……そう、クリオナ……そうね。確かに、腹筋とかがもの凄そうよね」
ごくり……
生唾を飲み込んで、藤木は体を回転させてベッドの方を覗き込んでみたら、そこにははだけた上半身を隠そうと、肩を竦めて手でパジャマの前を閉じた小町が、真っ赤な顔をしてあらぬ方向を睨みつけていた。
やばい……本能的に死の気配を感じ取った藤木は、ひっそりと息を潜め、壁抜けして、自分の部屋へと戻ってきた。
ベッドの上には自分の死体が、まるで眠っているかのように穏やかに横たわっている。
藤木は一縷の望みをかけてその死体に触れてみるが、小町のときにあったような重力に引っ張られるような感覚は起こらず、死体はうんともすんとも動かなかった。
カリカリ……カリカリ……
窓の方から何かを引っかくような音が聞こえる。動け、動け、動け! 動け、動いてよ! 今動かなきゃ、何にもならないんだ!
カリカリ……カチャッ……
今動かなきゃ、今やらなきゃ、俺が死んじゃうんだ! いや、もう死んでるけど! 生き返らされて、また死んじゃうんだ! もうそんなの嫌なんだよ!
ガラガラ……
音を立てて窓が開かれた。カーテンが動いて、何者かが部屋に侵入してくる。藤木はブルブルと震える体を必死に抑えつけて叫んだ。
「だから、動いてよっ!」
駄目でした。
藤木が処刑されていると、ガラガラと押入れが開いて中から天使が出てきた。天使は一瞬、ぎょっとした顔を見せたが、いつものことだと気を取り直し、邪魔しないように端っこを歩いて部屋を出て行こうとしたが、小町が処刑しながら尋ねるものだから足を止めて、今朝起こった一部始終を聞いて、あちゃー、ついに気づいちゃったかと、ミサワみたいな顔をしながら言った。
「気づかないでくれるのが一番なので黙ってましたが、ぶっちゃけ、憑依は始めっから出来たんですにゃ」
「ちょっと待て、俺は最初にテクノブレイクしたとき、気づかない小町に対して色々とアプローチしたぞ? 体に触れるどころか、乗り移れないかなと、体の中に留まってみたりもした」
「げっ! あ、あんた、そんなキモいことしてたわけ!?」
「いでででででっ!!」
小町の折檻が強まり、藤木が悲鳴を上げるが、天使はお構いなく続けた。
「それは小町さんが起きて自分の体の主導権を握っていたからですにゃ。操縦席に二人は座れないにゃ? でも、今回は小町さんが眠って意識を手放していたから……」
「なるほど、寝てる人間は動かせるってわけか……ごくり」
「……あんた、まさか馬鹿なこと考えてないわよね?」
「いやいや、まさか! そんなこと考えて無いよ」
「ホントかしら」
「それより聞いてくれ……俺、本当はさっき、もう死んでも良いかな、なんて思ってたんだ……でも、そんなの何も知らない子供の強がりだって、俺、気づいたんだ! 気づいたら、もう後には引けないよ。まだまだ、俺の知らない世界がこの世には広がってる。俺はそれを探求しに出かけなければならない。だから小町。お願いだ。ちょっと体を貸してくれないか?」
「いやよっ!?」
「そんなにべも無くっ! お願いだよ! 後生だから、俺にもう一回……もう一回、あのトキメキを感じさせてくれっ! クリスチアーノさせてくれええ~~!!」
「やっぱあんたもう死んどきなさいよっ!! 止めないからっ!!」
ギャーギャーとわめきながら、一方的に藤木がボコられてるのを尻目に、台所の母親の手伝いをしに天使は部屋から出た。
「……今回はちょっと、早いかな……」
中からどっすんばったんと近所迷惑この上ない音が聞こえる中、天使は扉を見つめながら、誰にともなく独りごちた。幾千幾万の死を見届けてきて、そんな感傷に浸るものでもない。だが、崩壊の兆しを見つけては、溜め息が自然に零れるのを、天使は止めることが出来なかった。




