アルテミシアは犬の名前ではない
「どうしたもんかなあ……」
球場から離れて、土手の階段に腰掛け溜め息を吐いた。ここ数日は好天に恵まれて、今日も汗ばむくらいの日差しが河川敷に集まった人たちに降り注いでいた。ジョギングをする初老の男性が、汗だくのままかけていく。マルチ商法のパンフレットにでも載っていそうな、ウザいくらいさわやかな家族連れが、広げたシートの上でお弁当を食べていた。
川べりでは、釣竿をもった小学生たちがぎゃあぎゃあと騒ぎながら、十数秒おきに針を投げ込んでいる。ザリガニくらいしか釣れそうにない川であるが、何か釣れるのだろうか? まあ、釣れたとしても、あんなに騒いでいては魚も寄ってはこないだろう。
球場を遠めに眺めてみたら、また守備練習を再開していた。藤木のことは貫徹無視する腹らしい。松本の鋭い打球を、ショートストップが華麗に捕球する。そんな光景をぼんやりと眺めていたら、リードをひきづりながらトボトボと犬が歩いてきた。毛並みはいいが、やけにしょぼくれて見えた。
「まるで今の俺みたいだぜ……ふふっ」
などとほざきつつ、飼い主とはぐれたのだろうか? と、辺りを見渡してみても、そのような人物はいない。放っておくのもなんなので、とりあえず保護するためにリードをひっ掴むと、よほど人に慣れている犬であるのか、尻尾をパタパタさせて、キャンキャンと藤木の足に嬉しそうにじゃれ付いてきた。
「おー、よしよし。太郎? 花子? ペス?」
「キャン!」
「ペス? ペスなの?」
「キャンキャン!!」
「そっかそっか……よーしよしよし、可愛いのう……まったく、野球部もこれくらい素直ならいいのに」
犬呼ばわりしているのを知られたら、また怒らせそうであるが……藤木が人懐こい犬を本能の赴くままカイグリカイグリしていると、ざっざっざっと土手の上から足音を立てて、行きにすれ違ったロードワークの野球部員が降りてきた。
どのくらい走ってきたのだろうか? 上半身はびっしょりと汗で湿っており、厚い胸板が浮き出るように、ベッタリと服がくっ付いていた。まだあどけなさの残る顔をしていたが、とにかく体の大きな男だった。改めて近くで見てみても、身長は軽く190センチを超えているように思える。しかし、これだけ目立つ風貌なのに、今まで存在に気づかないなんて、ちょっと解せない。
はあはあと息を整え、その場でストレッチを始めた男に、藤木は声をかけた。
「おまえさあ、野球部員だよな?」
「……いえ。違います」
男は、藤木のことを知っているのか、一瞬戸惑いを見せたが、相手が上級生であるからか、体育会系の習性で素直に返事を返してきた。玉拾いの彼とは違い、こっちは出世しそうである。
「え? 違うの? うちの学校だよな。他に体育会系の部活ってないじゃん?」
「あ、はい……自分、リハビリで。監督にお世話になってて。治るか分からなくて」
そういうと、男は頭をかきながら、右肩をグルグルとまわして見せた。その動作が少しぎこちない。言葉が足りないが、言わんとしているところは分かった。恐らく、元々は野球をやっていたが、肩の怪我のせいで続けられなくなったのだろう。それで野球部には所属していないが、リハビリを野球部の監督が面倒見ていて、一人だけ別メニューでロードワークしていた、という感じか。
「ああ……そら大変だったね」
「はい」
治るか分からないと言っているから、恐らく相当重症であるのか……多分、肩を怪我したらやれないポジション、投手だったのではないか。藤木は野球を見るのは好きだが、やったことは数えるほどしか無い。そんな自分が気休めを言っても何の慰めにもならないだろう。黙って視線を外すと、さっきまでカイグリまくっていた犬が、うっとりとした目つきで藤木の足に股間を擦り付けていた。
ずる剥けである。
「ぬわああああああっ!!!」
犬はビンビンに勃起した一物を突き出して、腰をカクカクしながら荒い息を隠そうともせず、一心不乱に股間のものを藤木の足に擦り付けていた。時折ぴゅっぴゅっと嬉ションまで飛ばしてくる。制服のズボンに染みが広がり、生ぬるい感覚が足元を襲い、全身の毛がそばだった。
犬の喜び方は見る分には直情的で親近感さえ覚えるが、自分に向けられたらたまったものじゃない。
「ぎゃああ! ペス! やめんか、ペス! この馬鹿犬が!!!」
藤木は足にすがり付いてくる犬を、蹴り上げるような動作でブンとすっ飛ばした。空中に飛ばされた犬は、猫とは違って器用には着地できず、尻餅をつくようにして地面に転がると、悲しそうな声で、
「クゥ~ン……」
と一鳴きし、潤んだ目で藤木を見上げてきた。泣きたいのはこちらである。
しかし動物虐待みたいで気分が悪い。咄嗟のこととは言え、もう少し優しく引き剥がせばよかった……誰かに見られて無いだろうな……と辺りを見渡してみたら、案の定、少しはなれた場所で、じーっと小学校低学年くらいの少女がこちらを見つめていた。
見てましたか……藤木は背筋をピンと伸ばして、冷や汗をかきながら言った。
「……違うのよ?」
「じぃ~~~……」
「いや、その、違うのよ? お兄さんとペスは、ホントはとっても仲良しなのよ?」
「じぃ~~~……」
言い訳をする藤木を見向きもせず、少女はじっと犬を見つめている。
「…………って言うか、もしかしてこの子、お嬢ちゃんの犬?」
「うん」
マジか……飼い主にとんでもないところを見られてしまった……
藤木は引きつった笑みを浮かべながら、リードを少女に渡した。
少女は少し戸惑った表情を見せてから、その場に座り込んで、よしよしと犬の頭を撫でた。その表情は愛犬を労わるように慈愛に満ちていた。と言うか、絶対誤解している。どうにかして自分は無害であると説明したいが、なんと声をかけていいか分からない。とりあえず、無難に愛犬のことを褒めておく。
「いやあ……その……人懐こくて可愛いよね。ところで、なんて名前なの?」
「……アルテミシア」
「へー、アルテミシア。いい名前だねえ、素晴らしい、きっと将来美人さんになるよ」
と言うか、ペスなんてどこにも掛かってないではないか。ペスと呼んだら凄い反応していたが……迷子になるわ、飼い主以外に懐くわ、発情するわ、大丈夫なのだろうかこの犬は……そもそも、チンポついてるし、こいつはオスだろう。アルテミシアって……
ひでえネーミングセンスと思いつつ、そんな具合に二人で犬を撫でていると、
「あの……」
背後から女性の声がかかり、振り返ると険しい顔をした女性が佇んでいた。はて? どちら様かと首を傾げていたら、
「ママー」
少女が嬉しそうな声を上げ、その女性に向かって駆け寄っていった。
どうやら彼女の母親が迎えに来たらしい。いや、もしかしたら手分けして犬を探していたのかもしれない。彼女は娘を抱きしめるように身を寄せ、ホッとした顔をしてから、また藤木を警戒心露に見つめてきた。
もちろん藤木に何の気もないが、娘が見知らぬ男と居たら不安だろう。こりゃいかんと挨拶しようと立ち上がったら、まるで変質者でも見るような目つきで、母子は一歩遠ざかった。
おいおい、その反応は勘弁してくれよ……
どうにか誤解を解こうと藤木は、身振り手振りを交え、まるでドブのように汚いと評判の愛想笑いを振りまきつつ言った。
「あいや、別に自分は怪しいものじゃなくってですね? ここに座っていたら、トボトボとやってきたものだから、ちょっとそちらのアルテミシアちゃんを保護していただけなんです。虐めたりなんなりしてませんよ? ちょっとこう頭をなでなでしたり……腰カクカクされたりしたがな……いやいや、仲良くやってましたとも。ええ、やってました」
気色満面、そう宣言すると、母親はより一層眉を顰めて、娘に向かって尋ねるのだった。
「そうなの? アルテミシア」
「うん!」
アルテミシアと呼ばれた少女が、力いっぱい返事した。
……なんだって?
「あのね、ママ。あのお兄ちゃんがね、アルテミシアのこと可愛いねって」
「まあ!」
え、あれ? 確かに言ってたけど……
「将来美人になるよって」
「んまあっ!」
あれー?
まるで汚物を見るような目つきに変わった母子は、犬を連れて後ずさるようにジリジリと後退していった。
と言うか、自分の娘に犬みたいな名前付けてるんじゃない!
もはや、何を言っても焼け石に水であろう。藤木は引きつった笑みを浮かべたまま、しどろもどろになって去っていく親子を黙って見送った。親子は十数メートルほどジリジリと交代すると、そこからくるりと背中を向けて、脱兎のごとく駆け去った。
今日、何度目か分からない溜め息が出た。
取り残された藤木は腹立ち紛れに、呆然としながら傍らで成り行きを見守っていたロードワーク帰りのリハビラーに声をかけた。
「つか、おまえ見てたよな? 見てたよね? 俺なんも悪いことしてないよね!? ちっくしょう!!」
「え? あ、はい……」
「ないわー、絶対ないわー。はぁ~……まったく、どうして最近は鳥獣につけるような名前を平気でつけるような馬鹿親が増えたんだか……普通、アルテミシアなんて聞いたら犬の名前くらいしか思い浮かばんよなあ!?」
「え? ええ……まあ……」
そうは言っても、藤木の戸籍上の妹も、藤木天使であるが……その辺は黙っておく。
「あんな源氏名みたいな名前付けられて、絶対将来性格歪むぜ? はぁ~、おまえもいつか結婚したら気をつけろよ。子供のことを思ったら、自分のセンスなんて信じちゃ駄目。周りの意見をよく取り入れて、無難な名づけをすべきなんだ。くっそ、くっそ! ちっくしょう!!」
「肝に銘じておきます」
「ったく、DQNネームなんかつける親なんざ、全員死刑にすりゃいいんだよ。子供のことなんだと思ってるんだ。玩具じゃないんだぞ。馬鹿親が」
そんな風に下級生相手にぼやいていたら、野球場の方から声が掛かった。
「……とう! 内藤~! おいー!! 内藤ぉ~!!」
フェンスに張り付いている松本が、鬼のような形相でこっちを見ていた。藤木が下級生にちょっかいを掛けてるとでも勘違いしたのだろうか? そいつの相手をするなと大声で叫んでいる。おまえは独占欲丸出しのストーカーか。
「……呼ばれてるぜ、内藤。ちぇっ、なんだい、あいつ。ケツ穴の小さい野郎だなあ」
「はあ……すんません」
「別におまえが悪いわけじゃないし。つか、困ったなあ……生徒会長に言われてよ、あいつ呼んで来いって……でも、この調子じゃ今日も無理そうなんだよな。おまえ、ちょっと監督にでも掛け合ってくれないか?」
「何をですか?」
「部室がらみで折衝したいから、もう一度だけでいいから生徒会室に来いってよ。実際、部室レスだとそっちが困るんだろう。いつまでもへそ曲げてんじゃないよな。俺が悪かったからさ、なんなら土下座して謝るから、頼むよって伝えてくれ」
「はあ……言うだけなら、いいっすけど」
「それでいいよ。んじゃ、頼んだぜ、内藤」
パンッと内藤の背中を叩いて、藤木は土手の階段を上り始めた。風がびゅーと吹き抜けて、上空では黄砂が舞っていた。川べりでは飽きもせずに小学生が釣竿を振り回している。あの様子では釣果はやはり期待できないようだ。
藤木は手のひらを肩の高さに上げて、ひらひらと振った。別に背後の内藤に手を振ってるわけではなく、さっき背中を叩いたら、汗だくだった内藤の服がびちゃっとして気持ち悪かったからだ。
格好つけなければ良かった……どっかで手を洗わんと……仏頂面で階段を上っていると、
「あの……」
階段下から呼び止められた。
「内藤じゃなくって、ナイトっす……」
藤木が振り返ると、リハビラーの少年が、少し赤い顔をしながら弱々しく言った。初めは何を言ってるのか、さっぱり分けが分からなかった。
「騎士と書いて、藤原騎士です……」
どうにか聞き取れる程度の、呟くような言葉に顔が引きつった。あんなに大きく見えた藤原騎士の巨体が、心なしか小さく見える。
「え? ああ~……そなの?」
さっきまで散々DQNネームと馬鹿にしていただけに、藤木はばつが悪くて何も言えなかった。馬鹿親は死ねとか言っていた気がする……後頭部をぽりぽりと引っかきながら、見るとはなしに、対岸の部室棟の四階を見つめると、相変わらず部室に入らず、部員が廊下にたむろする文芸部の部室前で、晴沢成美がこちらを見下ろしていた。
晴天の高い空を真白い雲が勢い良く飛んでいく。七条寺を見下ろす春日山系に、入道雲が掛かって見えた。今夜はもしかしたら、天気が崩れるのかも知れない。




