貧乏くじを引くものたち
スマホから聞こえる不快なベル音で目を覚ました。
ここ数日はろくに眠ってはいなかった。それがあっさりと目を覚ましたのだから、よほど長くベルが鳴り続けていたのか、それとも深い眠りにつけずにいたのか。ともかく、起きてしまったのは仕方ない。藤木は溜め息のように深くて長い欠伸をすると、ベッドから転がり落ちるようにして体を起こした。
昨夜は疲れて着替えをせずに眠ってしまったようだ。靴下を履いたままの足がやたらと重く感じられる。寝汗でベトベトになったカッターシャツを乱暴に脱ぐと、PCが点けっぱなしの机の椅子に放り投げた。
机の上には描きかけの同人原稿と、ヘッドセットと、二十歳未満は飲食禁止であるところの力水の空き缶が転がっていた。新学期が始まってからずっと描きつづけていた原稿だったが、締め切りを過ぎても完成の目処がたたず、ついに昨晩音を上げて、朝までサークルメンバーに総括と言う名のリンチを受けていた。飲んでなきゃやってられない。それもこれも……
「……今度、着信音変えておこう」
電話自体があまり掛かってこないので、デフォルトで放置していたが、このベル音はいただけない。いっそ無音に変えてしまおうか……鳴り続けるベルを無視して、液晶モニターから目を背けながら手に取ると尻ポケットに滑り込ませた。
顔を洗ってキッチンへと移動する。まだ六月だがここ数日は夏日の連続で、今日も例外なく汗ばむような陽気だった。リビングの時計を見上げると午前11時30分、午前中からこれかと思うと溜め息も出る。
母親はパートに出かけていて居ない。天使は確か鈴木たちと遊びにいくとかなんとか言っていた……どうでもいいが、やたらとエンジョイしまくってるが、天界とかなんかその界隈的に、あんなんでもいいのだろうか?
トーストをトースターにセットし、コーヒーメーカーにコーヒー豆をぶち込んで、冷蔵庫から取り出した卵を二個割ってかき混ぜる。テレビを点けてチャンネルを回すがロクな番組がやってない。仕方なくひな壇芸人みたいなコメンテーターがずらりと並んだ報道番組にあわせて、フライパンを火にかけバターと油と卵を流し込んだ。プレーンオムレツを作ろうと思ったが、端っこが焦げ付いて上手くひっくり返らず、途中で諦めてぐちゃぐちゃとスクランブルエッグにする。腹に入ってしまえばどうせ同じである。携帯のベルが止んだ。
『……署によりますと、○△容疑者は15日未明から16日朝にかけて、自宅で□◆さんを暴行しつづけ殺害した疑いで逮捕、容疑者は「イライラしてやった。殺すつもりはなかった」と供述しているとのことです……続いてのニュースです。昨夜未明、東京都○×市で起きた刺傷事件は犯人逃走のまま一夜が明け、現場近辺の住民たちは不安な夜を過ごし……』
どうでもいいが、左翼系のテレビ局ほど日中の報道番組に力を入れてる気がするのは気のせいだろうか。そういや人権だのなんだの言いだすのは、主婦とか小母ちゃんが多いよな……そんな具合にどうでもいいことを考えながら、スクランブルエッグを皿に盛ると、香ばしい香りを漂わせているコーヒーをマグカップに注ぎ、トーストにブルーベリージャムを塗りたくりながら一口すする。
尻ポケットに入れていたスマホがまた鳴りだした。
「出なきゃ駄目かなあ……」
天を仰ぎ、誰にともなく呟いた。えいやっと勢いをつけてスマホを取り出し、着信名を見てみれば、『品川みゆき』と表示されている。今日も昨日も一昨日も、ここ最近は彼女からしかかかってこない。多分、着信履歴を見てみたら、何十件も並んでいるはずである。自然と漏れてくる溜め息を噛み殺しつつ、藤木は手のひらで二回三回とスマホを弄んでから、観念したようによろよろと体を揺らしながら通話ボタンを押した。
「あ、もし……」
「遅いよっ!」
開口一番怒鳴られた。そりゃ、意識的に無視していましたが……
「いや……寝てたんですってば。つーか、なんですか? 日曜ですよ? 朝ですよ? 全国的にお休みですよ?」
「あのねえ、あなたにそんなものなんてあるわけ無いでしょう!? 休日だなんだって言うのなら、あたしの方が言いたいくらいよ! 誰のせいでこんな目に遭ってると思ってるのさ」
「あー……そりゃ、俺のせいかも知れませんが」
「分かったらさっさと学校に来なさいっ! サボろうとしても無駄よ? 後回しにすればするだけ後がきつくなるんだからね」
「いや、行きますよ? 行きますけどね……ちょっと休み無さすぎですって。まさか俺、こうまでプライベート削る羽目になるとは思わなかった。ずっと大事にしてた用事あったんすよ? 四月からずっとそのために用意してたのに……くそっ。全部オジャンですわ。どうしてくれるんだっつーの、ちくしょう」
「…………それもこっちの台詞よっっ!!!」
「うっひっ!」
大声に驚いて受話器を耳から離したが手遅れらしく、キーンと耳鳴りがした。
「あのねえ? あたしはもう三年生なの。受験なの。他の子達は塾に通ってるのよ? 休日まで学校行事に勤しんでるなんて、あたしだけよ。どんだけ余裕あるっての? ……って、余裕なんかないわっ! 死ぬわっ! 爆死だわっ! このまま行ったら、あたし完全に死ぬわよっ! どうすんのよ、あたしの人生。路頭に迷ったら、誰のせいだっていうのよ!? 責任取れるってのっ!?」
「わあー、すんません、すんません!」
「分かったら、ぐだぐだ言ってないでさっさと来なさいっ! 今日もたっぷり仕事あるんだからねっ!」
「うぅ……仕方ないなあ」
「仕方なくないっ!」
「はいっ!!」
「もう……それから来るついでに河川敷で野球部の松本君を呼んできて」
「……は?」
「前から言ってるでしょう? 野球部の部室問題、やっぱり無視は出来ないから。今日中に片付けちゃいましょう」
「いや、だから俺が行っても……」
「だまらっしゃい! 話にならないから、もういい加減に許されてきなさい。それじゃあね」
「……って、もしもし? もしもーし!? おいっ! こらっ! 品川ああああぁぁぁ~~~!!!!」
ツー……ツー……と、ビジートーンが流れる。
「……あのアマ。言いたいことだけ言って電話切りやがった……」
ちっと舌打ちをして、藤木はスマホの通話を切った。折り返しかけなおしてもいいが、圧倒的にこっちの立場が弱いのだ。どうせ文句を言っても覆るわけがない。
藤木は癖になってしまった溜め息を吐くと、トーストとスクランブルエッグを胃袋に流し込んで、シャワーを浴びるために風呂場へ向かった。6月に入り、気温が一気に上昇した。制服のカッターシャツは半そでになり、もう少ししたら梅雨が始まるだろう。
休日ダイヤのバスを二台乗り継いで学校へとやってきた。
いまいちエンジンのかからない寝不足の頭をぶんぶん振るって、盛大な欠伸をかましながら藤木がバスを降りると、金属バットの甲高い音が河川敷に響き渡っていた。うぇーいとか、だっしゃーとか、独特の掛け声があちらこちらから上がってくる。体育会系の掛け声の意味不明っぷりに、常々なんでああなっちゃったのだろうかと謎に思っていたが、多分疲れきった体から自然に湧きがって来るのだろう。今、頭の中でうぇーいがグルグルと回っている。
日曜だと言うのに河川敷の市営球場では、成美高校野球部が練習をしていた。藤木が日曜日に学校に来るなどと言うことが、今までになかったので気づかなかったが、普段から休日だろうが祝日だろうが休みなく、朝から晩までみっちり練習ばっかりしているようだった。
ガチで甲子園を目指しているのだから、それくらい当たり前だと、口で言うのは簡単であるが、実際にやってみればそんなのは苦痛でしかないはずである。試しに二週間程度でいいから休みなく働き続けてみれば分かるだろう。藤木はすでに音を上げつつあった。
河川敷へ降りる階段に差し掛かる。野球部員の一人が駆けて上がって来る。ロードワークに向かうのだろうか? 学校指定のジャージの色が、1年生であることを示していた。藤木は年上にへりくだることと、年下に偉そうに振舞うことには慣れていた。主将を呼んで来てもらおうかと呼び止めようとしたが、徐々に近づいてくるその体躯が異様に大きいのに気づき、出かかった声が詰まってしまい、そのままスルーした。筋骨隆々、おまけに190センチは下らない高身長だ。
「でけえ……あんなん居たっけ?」
1年生であれだけでかいなら、3年になったらどうなるのだろう。2メートル超えるのではなかろうか。運動部にはたまに規格外な奴がいるものだが……普通に道を歩いてるだけでも、勝手に筋肉が鍛えられるんだろうな、うらやましい。などと考えながら河川敷に降りて野球場を囲むフェンスの前までやってきた。
生徒会の資料を見た限り、野球部員は全部で30人ばかり居た。去年、発足した当時は9人ギリギリしか居らず、今年度に倍以上の新入部員が入った計算である。
「よう、精が出るな。生徒会なんだけど、主将呼んでくれる?」
外野のフェンスを背にして立っていた玉拾いらしき一年生部員に横柄に声をかけた。
部員は突然背後から掛かった不遜な声に背筋を伸ばして振り返ったが、そこに居たのが藤木であることに気づくと、露骨に、
「ちっ……」
舌打ちして不機嫌な顔を隠さずにそっぽを向いた。
「おいこら、それが下級生の態度か。いいからさっさと主将呼んで来い」
「……ちっ」
野球部員は二度舌打ちすると、面倒くさそうな素振りを隠そうともしないで、ダラダラと小走りにホームベースの方向へとかけていった。
球場のあっちこっちで、しゃらあああとか、ありょーしゃあああとか、変な掛け声が上がる。監督らしき男性が、竹刀を地面に突き立てながら、一塁ファールグラウンドで素振りをしている部員たちを睨みつけていた。野球部主将である松本は、バッターボックスの上に立って、部員たちに声をかけながら金属バットでノックをしている。どうやら守備練習の最中らしい。鋭い打球がセカンド方向に飛ぶと、内野手が華麗に飛びつき、一塁手へと送球する。
打つほうも取る方も本当に上手かった。感心しながら見ていると、ノックが一段落した隙を見計らって、さっきの玉拾いの部員が松本に声をかけた。それまで五月蝿いくらい声を上げていた野球部員全員の顔が、藤木の方へと向けられた。
不穏な空気が辺りに流れる。いや、何もそんなに注目しなくっても……藤木はにこやかに手を振った。
キーンッ! ……ガシャッ!!
と音がして、硬球が藤木のいる外野フェンスに突き刺さった。
「おお、すげえバットコントロール……めっちゃ怒ってるね」
中沢下ろしのサバゲー以来、藤木は野球部員に目の敵にされていた。結果的に恥をかかせた上に、部活動においても未だに部室レスと被害を受けているのだから、怒るのも当然かも知れない。その件に関してはなんとかしたいのであるが、しかし、
「あのさあ、とりあえず一回生徒会室来てくんない? 話し合わなきゃ何も始まんないじゃん?」
ホームプレート上で睨みを利かせている松本に大声で呼びかける。
キーンッ! ……ガシャッ!!
と、返事代わりにボールが飛んできた。
「……いや、だからさあ。俺が悪かったから、とにかく品川先輩とだけでも話してくれないか。俺が邪魔だってんなら、どっか行ってるからよ」
キーンッ! ……ガシャッ!!
フェンスにボールが突き刺さる。これじゃ埒が明かない……どうしたものかと腕組みするが、ろくな案が思い浮かばない。仕方なし苦し紛れに、
「…………クリトリスは穴じゃないぞ~!?」
「っ!? うおおおおおおおおっぉぉおおおおお~~~!!!!」
キーンッ! ガシャッ!! キーンッ! ガシャッ!! キーンッ! ガシャッ!!
「はい、はい、はい、はい。すみません、すみません」
老朽化する金網をガタガタと揺らして、次々と硬球が外野フェンスに突き刺さった。まともに応対してもらえないので、仕方なし、いっそ怒らせた方が反応してもらえるんじゃないかと思ったのだが、裏目に出たらしい。野球部主将の松本は外野フェンスへと鋭い打球を打ち込みまくる機械と化した。
こうなってしまってはなすすべなく、藤木はすごすごとその場を退散した。




