4
とは言え、話しかけなければ何も始まらないので、藤木は顔を引きつらせながら小町に声をかけた。
「あ~……小町さんや。これ、聞こえてんの? 聞こえてるなら嬉しいけど……いや、若干残念な気もするけど……とにかく! 聞こえてるんなら返事してくれないか」
「え? え? ちょっ、マジどうしたの、これ? 藤木? 藤木なの?」
小町は戸惑い、警戒感を露わにしながら、椅子を一回転させつつ、周囲をぐるぐる見回している。その様子からすると、取りあえず、声は聞こえているようである。ほっとしながら藤木は続けた。
「聞こえてるなら良かった。いや、俺もどういう状況なのか、良く分からないんだけどさ。とにかく順を追って説明するから、落ち着いて聞いてほしいんだ」
「おおお、落ち着いてって言われても……なんか凄い気持ち悪い。なんなのこれ。あんたどっから声出してるの??」
言いつつ、小町は不安げにキョロキョロと部屋を見回している。キーキー音を立てて椅子が回った。
「どこって言われてもこことしか言えないんだが……つーか、さっきからバリバリ周囲にガン飛ばしてるけど、多分俺の姿は見えないと思うぜ」
「ええー? わけわかんないよ! なんであんたの声だけ聞こえるわけ? なんか頭の中に直接響くって言うか……凄い気持ち悪いんですけど! あんたまさか……わらひが寝てるあいらに、奥歯に骨伝導スピーカーとか、ひかけてないでひょうね?」
言いながら小町は口の中に指を突っ込み、難しい顔をしている。
「即座にそんな犯罪チックな発想が出てくるところは、ある意味マジで尊敬するけど、取りあえず、落ち着いて話を聞いてくれないか」
「落ち着いて聞けって言われても……あんた、これすっごい気分悪いわよ。自分のことじゃないから分からないんでしょうけど」
「そうなの? いやまあ、どうしてそうなったのかも、とにかく話を聞いてもらえれば説明がつくかも知れんから。さっきから話が進まなくて困ってる」
「うーん……わ、分かったわよ……とにかく、話を聞けばいいわけ?」
「そうだ」
「お、おっけーい! どんと来なさい」
まだ納得いかなそうな不安げな目をしながらも、小町は口をへの字に曲げて腕組みし、聞く体制に入ったようだった。
「えーっとだな。まず何から話したらいいだろうか。最初から説明するとだな。あー、信じてもらえるか分からないんだが……取りあえず信じてくれとしか言えないのだが」
「うん」
「そもそも事の起こりは、俺が家に帰ってきたら、いつものように母ちゃんはパートに出かけてて、夜になるまで家の中は無人であり……」
「あのさあ、話が進まないって言うけど、それって歯切れが悪いあんたが悪いんじゃないの。もっとはっきりしなさいよ! はっきり!」
「むぅ……つまりだな、言いにくいんだが、今日学校から帰ってから、部屋で、オ、オ、オナニーを……」
「だ、だだだだだ、だからっ! オオオ゛オ゛ナ゛っオナってないってばっ!」
何しろ、オナニーしてましたなどとは言いづらく、なかなか上手く説明出来ずにいたら、オナという単語に反応して、小町がぎゃあぎゃあ喚きだした。
「ばっ、違うって、話を聞け」
「ひどいよっ! 油断させといて、まさかそっちに話の矛先を向けるなんてっ! 誤魔化せたと思ったのに! 上手く誤魔化せたと思ってたのにっ!!!」
「いやいやいやいや、誤魔化せてるわけねえだろが。図々しいにも程がある……って、違う、話したいのはそっちじゃなくてだな。つまりオナっつっても、おまえじゃなくて俺が……」
「違う違う違う違うのよ!? そもそもですねえ、オオ゛、オナ゛二ーじゃないですしぃぃ! たまたま! たまたまなんですよ!? あんたが見たのはたまたまなんですよっ!?」
「いやだから、たまたま連呼されても困るんだが……」
「それよっ! たまよっ! あんただって良くやってるじゃないっ! こう、パンツに手を突っ込んで……そうっ!! ポジを……ポジを直すでしょうっ!!」
小町はまるで獲物を狩る獣のように、鋭い眼光を一回転させ、周囲を威圧した。その眼光は凄まじく、体があったらおそらく死んでいたに違いない。しかし藤木は恐怖に慄きつつも、突っ込まずにはいられなかった。
「ポジておまえ、なんのポジションを直すと言うんだ。まさか本当に金玉ついてるとでも言うのか、こん畜生」
「ポジっていったら、そりゃポジよ! クリポジに決まってる!」
高らかに宣言された言葉にくらくらと眩暈がした。
「お、お、おおおお……ぶっちゃけんなよ! もっとオブラートに包めよ! つーかクリポジって初めて聞く単語のはずなのに、一発で理解できちゃう自分が悲しいよ!」
「分かるってことは、藤木も良くやってるってことじゃない。ほら、みなさいっ!」
「なんでおまえ、そんな自信満々なの!? 別にいいけどよ……ああ、それじゃあ、なに? お前はパンツの中で、ポジが乱れちゃうような、クリをしていると言うの!? 特殊な洋物ポルノでしかお目にかかれないような、やばい肉体改造をしていると、自ら認めちゃうわけなんだな? ケツの穴に手首を突っ込んじゃうような、あれだよ! あれ!!」
「……………………え? 藤木、そんなの見てるの?」
「あれ、おかしいぞ。はしご外されたの、俺の方!?」
小町のアホな発言に、思わず本気(と書いてマジ)突っ込みを入れたせいで、収集のつかない方向に話が逸れていった。
そしてそのアホは、相変わらず全盛期のエメリヤーエンコ・ヒョードルのような鋭い眼光をあちこちに飛ばしながら、虎視眈々と藤木を見つけ次第狩る体勢で、ぐるぐると椅子を回していた。
藤木はどうやって話を戻そうかと頭を痛めていたが、そんなとき、
ブツッ……
と音がして、小町がぐるぐる回っていたせいで、体に巻き込まれたヘッドホンのコードが、スピーカーから外れ、
『俺も……俺も男なんですよ……言ってる意味分かりますよね』
起動しっぱなしだった乙女ゲーの音声が大音量で流れ出した。
この声は聞いたことがある。確かこれは深夜アニメで売れ線の声優の声だ。
小町は突然大音量で響き出したいかがわしい声に大いに焦り、椅子から転げ落ちた。
『動かしますよ……かわいい反応だ』
「ぅぅうっほおおおぉ~~うぅぅ!」
『少し強いほうが良いみたいですね……ふ』
「ちょ、ちょ、ちょ、まっ! ちょとまっ!」
『あなたの口が素直でなくとも、ここはそう言っている……』
「とと、とまっ、止まってっ!」
『動くなって言ったでしょう? ふふ……今のは失敗だから……やり直しです』
「ざっけんなよぉおおぉぉうぅ~~! 止まんのは、おめえのほうだろおおぉ~! あああぁあぁあああ、止まれよっ!!」
『……ここで、やめてもいいんですよ?』
「くっ……くううぅぅぅぅ~~~……」
『もしかして、イッたんですか……?』
流石にプロの声優だけあって、あえぎ声は艶かしく艶やかであり、野郎のそれを聞いてもちっとも嬉しくなかったが、その役者魂には感服せざるを得ず、敬意を払わねばなるまいと思った。
だからなんだと言う訳ではない。
藤木は想定外の事態に直面すると、やたらと冷静になる性質だった。
そして、抑揚のない口調で淡々と言った。
「あのさ、わかったからよ。まずは音声、止めようか」
『さあ、めくるめく官能の世界ですよ』
「……はい」
『ああ、小町さん、素敵だ。溺れてしまいそうです』
「へえ……ヒロイン、小町って名前なんだ」
『もう、もう我慢できない! 俺をっ! 俺を受け取ってくれっっ!!!』
「はい……」
『ああぁあぁあああぁあ……小町っ! 小町好きだ愛してるぅぅっ!!』
背中を丸め、首をすくめて、小町は小さくなりながらカチカチとマウスを鳴らして、若干手間取りながらも、どうにかメディアプレイヤーの動作を止めた。
それから、キコキコと椅子を鳴らしながら、体に巻きついたコードをいそいそと外し、背筋をピンと伸ばして床に正座した。
そして、上体をゆっくりと屈体させていくと、上半身に押し出されるように、太ももに置かれた手のひらが前方へと滑っていく。人差し指を、ちょんと触れ合うように揃え、三角形を描くように手を地面につくと、一直線に伸びた背筋を床と平行になるまで屈めながら息を吸い込み、そして最後に息を吐き出すようにして、深々と頭を下げた。
どこの修羅場に出しても恥ずかしくない、見事な土下座である。
「オナってました」
そしてゲロった。
藤木はかける言葉を失った。というか、そもそも自分はここへ何しに来たのか、思い出すのにほとほと苦労するほど、脳に深刻なダメージを負った気がしていた。
そう言えば、自分は死んでいたんだっけなあ……と、他人事のように思い出しながら、藤木は涙やら涎やらで床をべとべとにしながら咽び泣く小町を見下ろし、長い長い溜め息を吐くのだった。