先輩と僕の不適切な関係・1
幼い頃の記憶は殆ど無い。自分がどういう家に生まれ、どう育ってきたのか、もう思い出すことが出来ない。
中沢貴妙の思い出は、12年前、冷たい風の吹きすさぶ黄昏時に始まった。
その日、彼の両親は、近所のショッピングモールの屋上広場に彼を置き去りにし、そしてついに迎えにこなかった。迷子センターに保護された彼が、都合よく手にしていた、玉木家の住所の書かれた紙切れは、今まで縁もゆかりもなかった血縁者に、彼の人生を委ねるものだった。その時、彼は生まれて初めて自分に祖父や異母姉妹が居ることを知り、そして自分が捨てられたことを知るのだった。両親にもう二度と会うことが出来ないと知るのは、もう少しあとの話である。
玉木家の長男であり中沢の父である玉木博士は、早世した祖母の唯一の忘れ形見で、かつては厳格な祖父、雄三に跡継ぎとして厳しく育てられ、雄三の期待に応えるべく、彼の言うことは何でも聞く操り人形のような生活を送っていたらしい。
性格は穏やかで誰にでも優しく、成績は優秀、特に絵画や芸術方面の才能に秀で、若い頃はいくつかの個展で表彰もされる腕前であった。女性によくもてたがそれを鼻にかけず、聖人君子っぷりをいかんなく発揮して、世の人々の関心と嫉妬を一心に浴びていたそうである。
だが、得てしてそういう人物は、表面のとっつきやすさとは裏腹に、何を考えているか分からないところがあるものだ。学校を卒業すると、彼は資産家である家業を手助けするため、祖父の扱っていた事業のいくつかを継承して仕事にまい進し、祖父の持ってきた良縁を受け入れ結婚し、そして二人の娘を授かった。夫婦の仲は睦まじく、娘を可愛がる姿は誰の目にも好意的に捉えられ、結婚生活は順風満帆に進んでいると思われていた。
しかし、そんな傍目には人生の最高潮の日々に、突然彼は蒸発する。
今にして思えば、ずっといいなりの人生だった彼の鬱憤が、ついに破裂しての出来事だと憶測も出来るが、当時の玉木家の人々にはまったく寝耳に水で、特に妻である姉妹の母親は、まだ幼い子供を二人も抱え、玉木家での立場もあってものすごく動揺し、心労と産後の肥立ちの悪さから、幾度も倒れては入退院を繰り返すこととなる。
何故、博士は失踪したのか? その理由が判明したのは六年後のことである。
ある日、玉木家に突然警察から連絡が入り、孫である中沢貴妙を保護したこと、その子が遺書らしき手紙を持っていたこと、そして、その遺書に書かれた場所で、その子供の両親らしき二人の遺体が発見されたことを告げられた。
なんてことはない。玉木博士は、金持ちの息子という自分に、親のいいなりの人生に嫌気が差して、妻も娘も居るにも関わらず、逃げ出して別の女と家庭を築いて、そして失敗したのだ。
玉木家に引き取られた幼い中沢少年は、自分が何故そこへ連れてこられたのかも、どうして両親と会うことが出来ないのかも、突然現れた祖父が彼を煙たがり、他の人間が何故自分にいじわるをするのかも分からず、玉木家の片隅に監禁されては日がな一日泣き伏す日々を過ごしていた。
夫が失踪して以来、妻は心労から生死の境をさ迷って、それからやっと立ち直った彼女は、ただただがむしゃらに娘に英才教育を施した。そうしないとアイデンティティが保てないからだ。
実家に帰っても恨まないと祖父は言った。しかし、打算もあったろうが玉木家に残り、家に尽くした彼女を不憫に思った祖父は、失踪した息子を勘当し、跡継ぎを孫の玉木咲子にすると宣言して遺言状を作った。そして玉木家は咲子を中心にして回り始め、咲子もその期待に応えるべく、その溢れんばかりの才能の片鱗を見せはじめた。
そんな矢先に博士が死に、中沢が玉木家へ転がり込んできたのである。一堂は、博士の行いにショックを受けると同時に、幼い中沢少年を憎悪の対象として見做しても仕方ないことだったかも知れない。
本家の陽も当たらない奥座敷に監禁された中沢は、実にあからさまに虐待された。突然現れた直系男子に憎悪の炎を燃やした母親は、まだ年端もいかぬ子供を、殴り、蹴り、満足に食事も与えず、罵詈雑言を浴びせかけた。そのあまりの執念に恐れをなして、家政婦ら使用人も手出しが出来ず、中沢は日に日に弱り始め、流石にこれはまずいと思った祖父が、離れに掘っ立て小屋を建てるまで、執拗な虐待が続いた。
しかし、どうにかこうにか身体的な危機からは脱した中沢であったが、今度は精神的な恐怖が待っていた。まだ年端も行かぬ子供を隔離し、親にも会わせず、牢獄のような部屋に閉じ込めたのだから当然である。だが、ここまで事が拗れると、誰もが彼に両親の死を伝えることも出来ず、また後家の目を気にしてか、雄たけびのような絶叫を上げて泣き伏す幼い子供の声は封殺された。
こうして彼の性格は心の底から捻じ曲がり、陰気な少年時代を悪意に晒されながら、屈折した憎悪にも似た感情を、ドロドロに溶けた鉄のように煮えたぎらせ、日々は過ぎていくのだった。
玉木家の次女である玉木保奈美は、幼い頃はとても体が弱く、ほんの少し外気に当てられただけですぐに熱を出してしまうから、ずっと屋敷の奥のお座敷で、あまり人の目に触れられずに過ごしていた。
姉である咲子はとても優秀で、何に対してもすぐに人並み以上の能力を発揮したから、対比される妹の方は彼女の出がらしのように思われ、玉木家を取り巻く人々からは、ほとんど居ないものとして扱われた。
しかし、そんな境遇であるからか、母親と祖父にはとても可愛がられ、言えば何でも好きな物が与えられ、手の掛からなくなった姉の代わりに、甲斐甲斐しく母に世話を焼かれていた。
そんな風に甘やかされて育った彼女であったが、体の弱さから学校には通えず、日々を家の中だけで過ごしていたから友達が居らず、それを不憫に思った祖父はある日、屋敷の庭師に相談した。
その庭師は、かつて玉木家の関係する事業の拡大に伴い、潰された建設会社の社長で、借金で首が回らず女房に逃げられ、路頭に迷っていたところを助けてやった男で、以来、玉木家の近所に住まわせ、ちょくちょく仕事の世話をしてやっていたのだが、確かその男には保奈美と同じ年の娘が居たことを思い出し、玉木雄三はその娘に孫の友達になってくれるように頼んだ。
それが朝倉もも子である。
朝倉は当時から自己主張が弱い、よく言えば拘らない性格で、玉木雄三の要請をほぼ二つ返事で快諾した。昼間は小学校へ通い、学校が終わると玉木家へやって来て、保奈美の部屋へ行って、その日あったあれやこれやを語って聞かせる。そのせいで学校で友達が出来なかったが、一向に気にする素振りも見せずに、彼女は病弱な保奈美の一番の親友になった。
やがて、保奈美の体が少し良くなり、庭くらいでなら遊べるようになってくると、朝倉は離れの陰気な少年を見つけた。少年は家人の誰からも相手にされず離れで暮らし、使用人の勝手口から出て、近所の小学校に通っていた。学年が違うから気づかなかったが、朝倉もも子と同じ小学校だった。
そのことに気づいた彼女は、以来、学校帰りに声をかけたり、離れに直接行って話しかけたりするようになった。保奈美は母親から少年のことを悪く聞いていたから、初めは嫌がったが、親友である朝倉が全く拘らないので、その内気にしなくなった。
少年、中沢はその頃までには、数々のストレスのせいで陰気で内気で、何を話しかけてもロクな返事が返ってこない、少々知恵遅れ気味の少年に育っていた。尤も、実際には他人の顔色を伺い、何を言ったら殴られずに済むかと頭をフル回転させていたのだが、その頃はその聡明さがプラスに働くことは一切なかった。中沢は馴れ馴れしく近づいてくる朝倉を少々苦手にしていたが、それまで彼をまともな人間として扱ってくれる者などいなかったから、お姉さんぶるその人を、初めて対等に付き合ってくれる貴重な人として、やがて崇拝にも似た気持ちを抱くようになっていった。
中沢の暮らす離れは、使用人も必要なとき以外に滅多に近寄らず、家の中にあっても別世界で、子供たちにとっては秘密基地のような特別な施設に思えた。少女二人は、中沢と知り合うと、すぐにそこへ入り浸るようになり、三人はいつしか本物の兄弟のように振舞うようになっていったが、しかしそれはそう長くは続かなかった。保奈美の母親に見つかったからだ。
彼女に見つかったあとは言うまでもなく、保奈美はすぐに引き剥がされ、奥の座敷に引っ込められた。朝倉も大人たちに窘められ、父親に口を酸っぱくして怒られたのであるが、しかし、自分たちの何がいけなかったのか、さっぱり理解が出来なかった。彼女は大人の言いつけを守る従順さと、子供らしい好奇心の間で板ばさみになり、もやもやとした日々を過ごすこととなった。
結局、年を取って、それを自然に理解するまで、彼女たちは大人たちの理不尽さに胸を痛めながら、そこに居るのに居ないものとして扱われる少年のことを、遠巻きに眺めることしか出来なかった。時折、こっそりと会っては会話を交わしたが、それは以前のような屈託の無いものとはいかなかった。
玉木咲子は聡明な少女で、玉木家の跡継ぎとしての自覚を持ち、祖父や母が求める自分への期待を正確に把握し、なおかつそれを受け入れていた。祖父はかつて息子に対して抱いていた希望を孫に対しても抱き、それは早熟な彼女に、子供らしからぬ苛烈な性格を押し付けたが、結果として彼女の立場を形成する一助となった。彼女は男に負けることを好まず、常に他者と競い合い、その旺盛な攻撃的野心は同年代の子供たちのリーダーたるに相応しいもので、彼女は玉木家と付き合いのある金持ちや、近隣の有力な家庭の子供たちに、強い影響を与えては女王として君臨した。
玉木家は彼女のために集まった人々で常に賑わい、彼女を中心として何事も決まった。まだ中学生という若さではあったが、玉木家の跡取りとしての将来がすでに決まっていたからか、下心を隠そうともしない男たちが常に彼女を取り巻き、その欲望を満たすためだけの甘い言葉を囁いては、彼女の関心を買おうと躍起になっていた。
そんな咲子であったが、中沢に対しては常に辛らつであった。祖父も母も、彼を居ないものと扱い、決して彼女を脅かす存在ではなかったのだが、取るに足らない相手である年の離れた異母弟を、咲子はいつも監視しては難癖をつけては虐め続けた。
それは彼女の野心が生んだ妄想だったが、中沢は相手にされていないとは言え、認知された玉木家唯一の直系男子であり、古臭い考えを持つ咲子にしてみれば、彼は彼女と親族としては同等かそれ以上の存在と思えたのだ。結局、咲子が跡取りとして決まっているのも、祖父の遺言状があるからであって、何かの気まぐれでそれを撤回されたら、病弱な妹はともかくとして、彼女と中沢は対等の競争相手になりうるという危惧があったのだ。
こうして中沢は、咲子と、彼女の関心を買いたい男たちから、理不尽な攻撃を受け続けた。もちろん、単なる子供に抵抗など出来るわけもなく、ただ惨めな仕打ちを受け続ける日々が続いた。やがて攻撃がエスカレートし、たびたび怪我を負うようになると、流石に見かねた使用人が助けに入ってくれるようになったが、口を挟むのが精一杯で根本的な解決には至らず、中沢は家の中に居ながらにして常に身の危険を感じると言う、どうしようもない日常を送らざるを得なくなった。
朝倉もも子は、中沢の住む離れの出入りを禁じられて以降も、折を見てよく彼を訪ねていた。玉木家内はともかくとして、学校で会えば普通に接することが出来たので、会えば積極的に話しかけるようになっていた。一つ年下の彼を不憫に思ってのことだったが、そんな風に彼に情を感じていた彼女は、彼が虐められる姿を見るにつけ、ついに見るに見かねて口を出すようになった。保奈美の親友とは言え、所詮は使用人の娘である彼女が、咲子に口答えするのはリスクでしかない行為だった。そして言うまでもなく、彼女もまた虐めの標的とされるのだった。
保奈美はやめてと姉に懇願したが、受け入れてはもらえなかった。母親は使用人の娘など気にも留めずに無視した。
それは中沢にとって、なによりも許し難いことだった。
自分が傷つくことはいい、もうとっくに慣れている。しかし、自分が虐められることで誰かが傷つくなんてことは、どうしても耐えられない。自分以外の誰かが虐められるのを見ていることしか出来ないなんて、到底耐えることが出来ない。それが自分が密かに思いを寄せている相手となれば、尚のことである。
自分が巻き込んでしまったのだ。だから助けたい。しかし自分に一体何が出来る?
ただ生きること以外、何をすることも許されない自分に。
中沢は天を呪った。今更ではあるが、どうして自分がこんな仕打ちを受け続けねばならないのか……咲子に罵られ、取り巻きの男たちにからかわれ、殴られ、蹴られ、そして自分をかばおうとして、最愛の人が傷つけられる。自分が一体何をしたと言うのだ。何故こんな苦しい思いをしなければならないのか。
死ねばいい……いやいっそ、どうにかして咲子を殺せないか……
多分、あいつ一人だけであるなら、小学生とは言えもう高学年の自分ならやれるのではないか……
否応なく溜まり続けるストレスに屈し、彼は危険な妄想を抱くようになっていった。だが臆病で常識的な性格はそれを許さず、日々悶々とした思いを抱きながら、耐え難い毎日を過ごしていくしかなかった。
そんなときに奇跡が起きた。
なんと、咲子が誘拐されたのだ。
身代金目的の犯人からの電話に、玉木家はてんやわんやの騒ぎとなった。
だが、やれることは結局二つしかない。犯人の要求を聞くか、聞くふりをして警察を呼ぶかである。
当初は金で解決するなら犯人の要求を聞こうという意見が勝っていた。しかし、人の出入りが激しい玉木家で、それは無理な注文だったようだ。一体誰かは分からないが、気がつけばいつの間にか、勝手に警察に通報されがなされており、更にはマスコミにリークまでされてる始末だったのだ。
咲子の身を案じていた母親は発狂した。警察に通報したら殺すと、犯人は電話越しに言っていたのだ。それなのに、マスコミにまでばらされて、そのマスコミが玉木家の周りを取り囲んでいるのだ。犯人が気づかないわけがない。
だが、起こってしまったものはもはや取り返しもつかず、祖父は粛々と警察と連携してことに当たった。発狂する母親に警察を追い出せと言われるが、そんなこと出来るわけもなく、彼女を一喝して、逆に熱心に警察に協力した。
だが事態は知ってのとおり、最悪の結果を持って終了することになる。
玉木咲子はもう二度と帰ってこないだろう……そう犯人に告げられたのは、それから間もなくのことだった。そしてそれ以来、犯人から一切の連絡が途絶えた。
意気消沈する玉木家内で、中沢は一人ほくそ笑んだ。もちろん表面には出さないが、これでやっと朝倉が解放されると心の底から喜んだ。しかし、残念ながらそれは叶えられず、事態はまたややこしい方向へと突き進んでいくこととなる。
誘拐事件から一月後、町の水がめである春日連峰のダムから咲子の死体が上がった。遺体の損傷は激しく、それはもはや彼女と判別がつかないケロイド状の何かであったが、着ている服とDNAが決め手となって、それが咲子だと断定された。
その知らせを受けて間もなく、彼女の母親の気が完全に触れた。
母親はダムから上がった娘の死体のことを思うと水が飲めなくなり、もちろんそんなことは生物学上ゆるされるわけもなく、あっという間に衰弱した彼女は泡を吹いて倒れ、面会謝絶の病棟へと押し込まれることとなった。
さて、こんな糞みたいな出来事の真っ最中に、また糞みたいな出来事が起きた。
咲子の死が世間に伝わると、今まで彼女に粉をかけてきた男たちは、弔問に訪れるついでに、錯乱した母親を案じて心を痛めていた、次女の保奈美に近づいた。姉の影に隠れて目立たなかった保奈美は、ちょっとちやほやしてやれば簡単に靡くだろうと、咲子のことを口実に、保奈美が心配であるといって彼らはあからさまに保奈美に粉をかけ始めたのだ。
保奈美はショックを受けた。彼らが自分に興味を示しているのではなく、玉木家の財産に目がくらんでいることはすぐに分かった。この、自分に近づいてくる、人間の形をしたものは一体なんなのだろうか……保奈美は軽い男性不審となり、今まで以上に引っ込み思案をこじらせて、奥の座敷に引っ込んでは、外に出ることを嫌がるようになった。
葬式とは、その人の人生の縮図のようなものが現れる。祖父は咲子が死んで始めて気づいた。彼女を取り巻く世界は、こんな下劣な下心をむき出しにした屑のような人間たちで構成されていたことに。
次々とやってくる弔問客は、通り一遍の挨拶をしたあと、それで、跡継ぎはこのあと誰に? と暗に尋ねてきた。そのハイエナのような姿は、彼らの中に本気で咲子の死を悲しむ者も、玉木家に同情するものも居ないと気づかされた。そして祖父は彼らを出入り禁止にした。
今まで、孫のため、家のためとやってきたことは、全て無駄だったのだ。それは咲子が死んでリセットされたからではない。そもそもやり方が間違っていたのだ。そして、今にして思えば、息子の博士が何を考えて家を飛び出したのか……それが分かる気がしてならないのである。そこに残されたのは後悔しかなく。跡に残されたものといえば、虐待され、心を痛めた幼い少年がいただけだった。
自分はもしかしたらやり方を間違えていたのかも知れない。ようやく自分を省み始めた祖父であったが、しかし、もはや手遅れだった。保奈美は完全に人間不信に陥り、玉木家は先の事件もあって深く沈み、浮上する切っ掛けを失った。
そして悪いことは続くものである。さらに、追い討ちをかける出来事が起きた。
咲子と保奈美の母親が錯乱し、入院してからおよそ半月。
ようやく少し落ち着きを取り戻した彼女が、玉木家へと戻ってきたのだが……
彼女は一見すると落ち着いて見えたが、やはりかなりおかしくなっていた。
「可哀相な保奈美……卑劣な誘拐犯に殺されてしまうなんて……」
帰ってきた彼女は、目の前に保奈美がいるにも関わらず、死んだのは咲子ではなく保奈美であると信じきっていた。
保奈美が彼女に呼びかけても、目の前の娘が保奈美であると認識しても、
「可哀相な保奈美……でも咲子じゃなくて良かった……」
彼女は死んだのは、手をかけて玉木家の跡取りとして育った咲子ではなく、保奈美であると頑なに信じているのだった。
そしてそれ以来、何かに取りつかれたかのように、母親は居もしない『誘拐犯によって殺された保奈美』の無念を晴らすべく、駅前で事件の情報提供を求めるビラを配り始めた。その無駄な行為は近隣の玉木家を取り巻く人々の失笑を買って、玉木家の体面を著しく損なうものであったが、しかし、誰もそれを止める気力が起きなかった。
保奈美は事ここに及んで、自分が母親に可愛がられはしていたものの、明らかに咲子と比べて軽んじられていたことを知り、一連の事件によって負った心の痛みに耐え切ることがついに出来ず、ぽっきりと心が折られた。
そして奥の座敷に引きこもった彼女は、唯一、親友の朝倉だけを頼りにして、世間との関わりを完全に閉ざしてしまったのである。
こうして、咲子の誘拐事件を切っ掛けに、玉木家の人々はぐちゃぐちゃバラバラとなってしまった。母は錯乱し、娘は引きこもり、長男は始めからいないこととされていたから変わりないが、祖父は自分が今までやってきたことは全て間違いであったと悟り、年相応に一気に老けた。




