全力で虎の威を借る人たち・2
晴沢成美は正確には文芸部員でないが、今年の春から部室に入り浸るようになった中等部の生徒だった。成美と言う名前が学校のそれと被るから、クラスメイトや知人からは、なるみと呼ばれている。
中等部三年生は、中学の廃校が決まり、新入生の受け入れを止めてからの最後の学生で、校内に40名しかいない中学の制服は物凄く目立った。彼女はその最後の三年生の中でも破格に金持ちの娘で、成績も運動神経も抜群に良いのに気取ったところがないという、絵に描いたような優等生であり、高校へ上がったら白露会入りは間違いない、校内でも指折りの有名人であった。
そんな彼女が何故こんな弱小クラブに入り浸っているのか。
切っ掛けは新学期が始まって数日したある日のこと。いつものように藤木が部室に顔を出そうと階段を上がってきたら、廊下の片隅で窓の外をぼんやりと見つめる人影があった。中等部の制服でやたらと目立ち、何をしてるのだろう? と藤木も気になったが、だからと言って声をかけるまでもないので、無視をして部室で同人誌の製作活動を黙々と続けていた。
しかし、それが三日も四日も続くと流石に気になってくる。おまけに文芸部は先の理由で廊下で活動しているので、パーティションの隙間から、あの目立つ制服がちらちら見えて、気にするなと言ってもなかなか難しい物があったのだ。それで、声をかけようかどうしようかと悩んでいたのだが、そんなとき、ひょっこりと彼女の方が部室に顔を覗かせたのだ。こっちが気になるなら、向こうもこのパーティションの中身が気になっていたようである。
ここで何をしているのかとの問いに、ありのままを答えたら、それで会話は終わってしまった。こちらからも何をしていたのか問いかけようか思案していると、おっとりしている先輩が、立ってないで座ったらどうかと椅子を勧め、なるみも素直な性格をしていたからか、軽く頷きパイプ椅子を引き出してあっさり座った。それを見届けた先輩は、またしれっと本の世界へ旅立ってしまい、あたりは沈黙が支配した。
なにこの雰囲気……と重苦しい状況を打開しようと、なにか会話はないかと探していたら、藤木はふと気づくのだった。
なるみは椅子に座りながら、心ここにあらずといった感じで、窓の外をぼんやりと見つめている。
一体何を見ているのかと目で追ってみると、どうやら河川敷の野球場で練習をしている野球部のようである。しかし野球に興味があるのでは無さそうだった。河川敷を見つめる彼女の目は、きっと恋する乙女のそれだ。それに気づいた藤木は、途端に興味が無くなって、話しかけることを止め、先輩と同じように自分も自分の作業に没頭するのだった。
そんな風に、殆ど共通点の無い三人が、一箇所に集まりばらばらのことをしながら、数十分の時間が過ぎた。やがて日が傾いてきて、肌寒さを感じるころになると、先輩がパタンと本を閉じて言った。
「何か温かい飲み物でもいれましょう」
そして、お茶を飲みながら三人で休憩を始めたのだが、
「ぶうううぅぅぅーーーー!!!」
突然、晴沢成美がお茶を噴き出して、藤木の原稿を汚すのだった。
「ぎゃあああああ!! なにすんじゃああ、おのれはっ! 原稿一枚描くのにどんだけ時間がかかると思っとんじゃあ!」
「ななな、なにするはこっちの台詞ですよ! あなた、なにやってるんですか?」
「はあ?」
「はわわ。はわわわわわわ……」
彼女は藤木の原稿を指差し、携帯バイブのように震えている。
なんのこっちゃ? と思い首を捻りながら原稿をよくよく見てみたら、
「あ、やべえ……おっぱいがいっぱい」
ついうっかり、部外者がいると言うのに、いつものようにエロシーンを黙々と描いていた。藤木は文芸部の部室でエロ同人を描いている。自然の成り行きというか、理由は他にもあるが、なにしろ先輩は全く拘らない人なのだ。
スパーン! という音が廊下に響き渡り、なるみはダッシュで廊下を駆け抜けていった。キーンとする耳鳴りと、頬に火のような熱さだけが残された。あらあらとだけ呟いて、先輩は何事も無かったかのようにお茶を啜っている。こりゃもう、二度とあの子はここに来ないだろう……ちょっと悪いことをしたなと、その背中を見送りながら、藤木はそんな風に考えていたのであるが……
ところがどっこい、以来、彼女は毎日のように部室に顔を出すようになった。
彼女の心の中で、一体どんな化学反応があったかわからない。しかし見た感じ、はじめの衝撃ほどはエロ同人に抵抗感もないようで、寧ろ興味が有るような素振りは、からかうには格好の題材であった。
文芸部は活動内容が滅茶苦茶なので、新入生の勧誘を行っていなかったのだが、来るものを拒むつもりもなく……中等部の生徒であるから正式な部員ではないが、藤木は今年入った新入部員のように思っていた。ゆくゆくは同人活動も勧めよう。
「大体、なんで先輩はいつも学校で18禁原稿描いてるんですかっ! そういうのは、家で描きなさいよ、家でっ!」
「馬鹿めっ。家で同人原稿なんか、出来るわけないだろうが」
「どうしてですか? 親にばれたら怒られるとか?」
「誰にも邪魔されない家でエロ漫画なんて描いてみろ、オナニーしちゃうじゃん。作業にならんわい」
「……最低だ……こんな最底辺の人間はじめて見たわ」
ドン引いたなるみが突然思い出したかのように、藤木からぱっと離れて距離を取り、パイプ椅子を悪役レスラーのセコンドみたいに高々と掲げている。
振り下ろされては溜まらんと手で制しながら藤木は尋ねた。
「ところで、先輩は?」
「もも子先輩ですか? まだですけど」
「え? 変だな……俺より先に教室出たから、てっきり部室に来てるかと」
と、藤木が言い終わるより先に、突然ガタガタっとした音が辺りに響いた。
二人が音のするほうを向くと、キィ~……っと軋む音を立てながら、廊下の隅っこに置かれていた掃除用具入れの扉が開いた。
「ごきげんよう」
中から現れた朝倉先輩は、まるで何も無かったかのように平板に答えた。どうしよう、これは突っ込むべきか……思案していると、なるみの方が先に突っ込んだ。
「ごきげんよう……って、どっから出てきてるんですか、もも子先輩。意味わからないんですけど」
「んー、そうかな」
「何かの罰ゲームですか?」
「えー、違うよぉ。藤木君が言うから」
「え、俺?」
先輩が何を言ってるか分からない。なるみが胡散臭いものでも見る目つきで見ている。藤木が首を捻っていると、
「そうだよぉー。この間、部室になるみちゃんが来たら、隠れていれば面白いものが見れるんじゃないかなって、藤木君がね」
あー……確かに言った覚えがある。
「面白いものは見れましたか?」
例えばエロ同人誌を片手に見ようかみまいかソワソワしている後輩とか。
「うん、まあまあかな」
先輩はしれっと答えると、引きつった顔をしてうろたえているなるみの前で、ばってんにした両手を高く掲げて、
「ギルティ~!」
「う、うわあああああああ!!!!」
アホな先輩二人にプライドを粉々に打ち砕かれて、今日も後輩は忙しそうである。
朝倉もも子は藤木と同じ2年4組のクラスメイトであるが、年齢は1つ年上の留年生であった。藤木が入学したときから既にダブっていたから、留年したのは1学年のときであるようだが、その理由は良く分からない。面と向かって聞くようなことではないし、朝倉自身も語らないので、当然といえば当然だ。だが、彼女のその美しい顔を、覆い隠すように伸びた、長い長い前髪に隠された額の傷や、常に付けているリストバンドから察するに、恐らくのっぴきならない何かがあって、長期療養を続けていたのだろうと、漠然とそう考えていた。
藤木が彼女と知り合ったのは一年前、学校カリキュラムの無謀さに音を上げ、将来を諦観していたころのことだった。学校に来てはいたが授業についていけず、力いっぱい暇を持て余していた藤木は、このままでは退屈で死んでしまうから、何か部活でも始めようと考えていた。
とは言っても、成美高校は元女子高である。なかなか男子がすんなりと入って行けそうな部活はなく、ほとほと困り果てることとなる。他の男子はどうしてるかといえば、スポーツ科に入る予定だった、県内外から連れてこられた特待生たちが集う野球部があるのだが、それなりに運動神経に自信があるものはそこへ入部して、あとは藤木と同じ帰宅部であるようだった。
そいつらを集めて何かしようか……思案に暮れながら、取りあえずどんな部活があるか見学してみようと、部室棟へとやってきたのだが、その女臭さに気が引けてまごまごしていたら、四階の片隅で奇妙なパーティションで区切られた空間を見つけた。
気になった藤木は、なるみのときと同じように、ひょっこりとその内部に顔を突っ込んだ。
中を覗けばそこには朝倉がぽつんと一人だけ座っていて、生気の無い顔でぼーっと本に目を落としていた。所作はとても綺麗なのだが、不思議と存在感が薄く、まるで幽霊でも見ているような気がした。やがて、顔を覗かせている藤木に気づき、顔を上げると、
「どうかしましたか?」
まだ珍しい男子生徒が不躾に覗いていると言うのに、動揺などはおくびも見せず、実にフラットに彼女は言った。ここで何をしているのかと問えば、部活と言う。何の部なのかと聞けば、文芸部と言う。
「へえー、文芸部ですか」
その言葉に藤木は興味を持った。実は彼は中学時代も文芸部であったのだ。
とは言え、中学のそれは生粋の文芸部とは言えず、元々は学校が部活動を義務付けたせいで、やる気の無い面子が集まる定番の部活であったのだが、そんな奴らが暇つぶしにライトノベルを持ち込んで、知らず知らずのうちにどっぷりとハマり、気づけばアニメやゲームへ手を広げ、ツイッターやラインで情報交換を始めると、当たり前のようにエロ同人へと辿り着き、そのエロスパワーは凄まじく、雑コラを作るものが現れたら、今度はトレス台を買ってきて本格的にエロ漫画を描き始めるものも現れて、あれよあれよと言う間に気がつけば、そこは文芸部と言う名の漫画研究会と化していた。
そいつらとコミケへ行ったりして同人活動に嵌まった藤木が懐かしく思っていると、怪訝に思った朝倉が首を傾げて、どうかしたのかと問う。
「ああ、実は俺、中学のとき文芸部だったもんで、懐かしいなあ、と思って。どんな活動してるんですか? 男子部員とかって需要ありますかね。なんちゃって」
「そうですか。ではどうぞ」
「はい?」
「入部希望でしたら、どうぞ。特に申請する必要もありませんし」
「えーっと?」
話が見えず藤木が戸惑っていると、朝倉が抑揚の無い口調でぼんやりと言った。
「そうでもなければ、男子生徒がこんな場所、歩き回らないでしょうし」
ああ、なるほど、そのとおりだ……と、妙に納得した藤木は、それ以上考えずにパイプ椅子を引き出し、そこへ座った。別に文芸部に決める必要もないのだが、よくよく考えても見れば、他に入れそうな部活も無い。それになにより、目の前の女子生徒のことが気になった。その女生徒は藤木が座るのを見届けるや、何事も無かったかのように、また本へと没頭し始めた。
……え? 放置なの? 他に部員は? せめて自己紹介くらいしないのか……と、藤木は話を続けようと思ったのだが、なんだか本を読むその姿が、やたらとハマっていたので声をかけづらく……まあ、成り行きでいいやと思った彼は、適当に本棚にあったハードカバーを取り出し、それ以上考えないことにした。
翌日、同学年の他のクラスからしれっと出てきた朝倉を見つけて、「タメなのかよっ!!」と突っ込む羽目になるのだが……
文芸部員は結局、彼女のほかにはおらず、どうして一年生の彼女がたった一人でそこにいたのか? 気にはなったが、その頃にはもう彼女の額の傷に気づいていて、あまり突っ込んだことも聞けずに漫然とした日々を過ごすことになった。
朝倉は一見ミステリアスだが、実際はおっとりとして、何事にも拘らない性格のようで、藤木が何をやっていても文句を言わなかった。ラノベを持ってきて本棚に置いても、スナック菓子を持ってきて本を読みながらパリパリやっても、そのうち小説すら読まなくなり漫画雑誌ばかり読んでいても、一向に気にせず一人活字を追っていた。かといって、無視しているわけでもなく、話しかければ応えたし、世間話もすれば、休憩中にはお茶やお菓子を一緒に食べたりもした。要はちょっととっつき難いだけの人であり、慣れてしまえばさほど気にならず、藤木は段々と本性を現しながら、気楽に付き合うようになっていった。
その最たるものが同人活動であり、彼女は藤木がエロ漫画を描いていても、まるで気にせず受け入れて、寧ろアドバイスをしてくるくらいだった。
それは迂闊だったのだが夏のある日、藤木は家で夏コミの原稿をやっていたのだが、オナニーのしすぎで捗らず、仕方なく夏休み中の学校へとやってきた。そして中学のときのように部室で作業をしていたのだが、何しろ気配の薄い朝倉であるから、原稿作業に没頭していた藤木は気づかず、一部始終を目撃されることになった。
しかも場面はもろだしのPたちが、シンデレラな女の子たちを壁に一列に並べて、スパーンスパーンと突き上げてるという、言い訳のしようもない陵辱シーンであり、おまけに、ふきだしに『らめぇ! お尻で妊娠しちゃうぅ~!!』と『中に出してっ! 衣装が汚れちゃうからぁ~!』のどちらを書き入れた方がより頭が悪いだろうかと、うんうん唸っている真っ最中であったのだ。
「んー、そこは中に出して、衣装が汚れちゃうの方が良いと思うな」
抑揚のない声が耳元で響いて、思わず、大切な玉稿をぐしゃぐしゃに丸めるくらい動揺した。
「オー! ノォォォーーー!!?」
叫んでも後の祭りである。あまりの出来事に心臓をばくばく言わせて固まっている藤木を尻目に、しかし朝倉はいつも通り平板な調子で、
「らめぇ、お尻で妊娠しちゃうは、わけわからなくてインパクトはあるけど、中に出して、衣装が汚れちゃうの方が、自然に状況を説明できている分だけ、読者の心に響くと思うなぁー」
などとのたまい、脇に置いてあった他の原稿を手にとって、パラパラ眺めていた。藤木はごくりと生唾を飲み込んで、
「先輩……ごめん、もう一度言って?」
「んー? らめぇ、お尻で妊娠しちゃう……よりは、中に出して、衣装が汚れちゃうから……の方が、私は好きかな」
ありがとうございます。ありがとうございます。どうして自分は今日、レコーダーを持ってこなかったのか……悔やまれるが、藤木は心の奥底にその台詞を深く深く刻んだ。
拘らない人だとは思っていたが、ここまで拘らないとは……藤木は、他のページの台詞も相談するふりをして彼女に読ませ、ほっこりしながらその日の原稿作業を進めた。朝倉は本当に抵抗感が全くないようで、純粋に物語の流れを追ってアドバイスしてくれるので、それ以来、藤木は同人原稿のネームを描くときは相談するようになった。