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幼い頃、神様に会ったことがある

 ドイツ西部ケルン。大聖堂の程近くに、立花倖の邸宅はあった。ライン川を挟んでそれを仰ぎ見る、近隣では最も広い敷地内の片隅に、こじんまりとしては居るが落ち着いた雰囲気の庭園があり、そこには母屋と比べたらずっと質素な離れが置かれていた。


 晩年、立花倖は寝たきりになるとそこへ(こも)り、特定の人物以外とは殆んど会うこともなく、歴史の表舞台から人知れず去っていくこととなる。


 20代~30代を奇妙な研究に明け暮れた彼女は、やがて何かの切っ掛けを得たかのように社会に復帰すると、新垣の興した企業の技術責任者として多忙な日々を送り始めた。そして、後に創業者の新垣が早世すると、事業を引き継いだ夫人を助けるために、その後釜に座った。


 やがて事業規模が大きくなり手に負えなくなった彼女は、各部門に最高責任者を置きトップを辞すると、顧問としてまた研究職へと戻った。その頃には、若い頃の彼女の理論は学会でも認められて、またその美貌も相俟(あいま)って、世界的な知名度を持つに至っていた彼女の下には、彼女を慕って弟子入りを希望する若い才能が集まってきた。そして、その弟子たちが現在、彼女たちが築き上げてきた企業を支えていた。


 ケルンの邸宅の離れで、木漏れ日の美しい庭園を眺めながら、春のようなそよ風を受けて、年老いた倖はうとうとと転寝(うたたね)をしていた。そんな彼女の下に、一人の女性がやって来た。


「お母様。上坂(こうさか)さんがお見えです」


 うとうとしていた倖はその声にはっと目を覚ますと、ベッドの傍らに行儀良く佇む娘を仰ぎ見た。


 娘と言っても血が繋がっているわけではない。彼女は新垣と白木の10人いる子供の一人であった。ドイツ生まれのドイツ育ちで、よほどこちらの水があっているのか、仕事で海外を飛びまわる倖の代わりに、ずっとこの屋敷に住み着いており、何が気に入ったか知らないが、気がつけば彼女の養子になっていた。家の事はからきしの義母に変わって、家事全般はすべて彼女がやっていた。


「先生、お忙しいところ、失礼します」


 やがて、娘に連れられて、上坂と呼ばれた男が入室してきた。50代の精悍な顔つきをした男で、引き締まった体と、何一つ見逃さないといった感じの鋭い目は、格闘家か殺し屋かと言った風体であり、とても世界でも高名な学者であるとは思えない、そんな男であった。


「お久しぶりね、上坂君。先生はやめてちょうだい。寝たきりの老人に、忙しいなんて嫌味な人ね」

「夢を見るのにお忙しいのでしょう」


 男はなんの(てら)いもなく言った。


 彼は倖のかつての弟子で、彼女が夢を見ながら何かをやっていることに、薄々感づいているようだった。しかしさばさばとした性格なのか、深く追求してくることは一度も無かった。


 倖の弟子の中では一番出世し、一番付き合いが長い相手だった。


 元々、彼の出身地が東京の七条寺であり、その懐かしさから必要以上に構っていたのだが、実力は折り紙つきだったようで、あれよあれよのうちに出世した。現在では倖の後任として、会社の技術顧問を請け負っている。


 そのせいもあってか、毎月、律儀に月次報告をしにやってくる。


「……チェコの工場ですが、二班ほどがストライキに入り、ドレスデンのラインに回しました。あと、今週トゥールーズの開発部門で、新型エンジンのテストが開始されます。今月の報告は以上です」

「そう、いつもご苦労様。でも、もういいのよ? 毎月大変でしょう、あなたも忙しいでしょうから」


 報告を聞き終えた倖が言うと、上坂は黙って首を振った。寡黙で必要以上のことをしゃべらず誤解されがちだが、意外と思慮深いところがある男だった。恐らく、見舞いと言うと倖が嫌がるから、月次報告という形でやってきているのだろう。


 倖の足腰が立たなくなって、寝たきりになってから、数ヶ月が経過していた。初めはうざいくらいに訪れた見舞い客も今は途絶え、体力は衰え、起きているのか寝ているのか、分からないような日々が続いていた。


 自分は、もうそんなに長くないだろう。倖にはそれが分かっていた。また、来月もこうして月次報告を聞けたらいいのだが、恐らくそれも難しいだろう。


「上坂君が娘を貰ってくれたら良かったのに」


 気がかりは娘のことだった。


 娘は母親の白木そっくりで、かなりの美人であったが変態ではないのでとてもモテた。しかし、生来の出不精が祟ってか、まるで良縁に恵まれない。知人も数えるほどしかなく、今では付き合いのある男性は、目の前の男くらいのものだった。


 しかし、倖がそんなことを言うと、上坂は溜め息を吐いて頭を振った。


「私のプロポーズを振っておいて、そういうのは酷というものです」

「……二回りも年上の、お婆ちゃんをからかう物じゃないわよ」


 どこまで本気か分からないようなそれをあしらって、倖はからからと笑うと床についた。久しぶりの来客で、体力を使いすぎたらしい。少し、風にも当たりすぎた。


 上坂は窓を閉めると、頭を下げて部屋を辞した。入れ替わりに娘がやってきて、ベッドのすぐそばの椅子に座って、何か編み物をしていた。誰に作っているのかと聞けば、多分、倖に作ってると言うだろう。しかし、それを着ることはもうない。



 

 転寝(うたたね)から目覚めると、介護ベッドの引き出し机に置かれたノートパソコンを開いた。この時代、そんなレトロな機械を弄るのは、世界でもほんの一握りに違いない。


 かつて、藤木の父を名乗る未来人から手に入れた出来損ないのタイムマシンは、やがて時が過ぎて技術が追いついてくると、倖にも改造が可能になった。彼女は、過去の介入が失敗に終わるたびに、その改良を重ね続けていたが、やがて仕事が忙しくなったり、自分が年をとってくると、それも困難になってきた。


 元々、過去への介入は睡眠を利用したものであるから、その挑戦回数にはどうしても限界があったのだ。仮に一日一回行ったとしても、1年で365回。30年かけて、ようやく1万回程度なのである。


 もっと機械的に出来ればいいのだが、残念ながらそれは人間には無理である。だから、倖は多世界を利用することにした。人間の人生が繰り返す輪であるなら、自分が死んだら、またいつか同じような人生を送る自分が現れるはずだ。その時、その自分が同じ間違いを犯さないように、マシンに情報共有機能をつけたのだ。


 すると、やはりと言うべきか、同じような考えを持った、かつて失敗した自分たちがいたようだった。同じ失敗を重複して数えることもあったが、その失敗回数は天文学的数字に上り、彼女を絶望的な気持ちにさせた。


 しかし、それでも彼女は挑戦し続けた。時間を見つけて、改良を加え、失敗を繰り返してきた。それは終わりの無い悪夢を見続けているようなものだった。1万回以上も、自分の人生の失敗を見届けているのだ。気が狂ってもおかしくは無いはずだ。しかし、目が覚めると、また同じような夢を見るために、知恵を絞る自分がいるのだ。


 でも、その失敗するということすら、あと何回残されているのだろうか……


 人間には寿命と言うものがある。気がつけば倖は年を取り、体は痩せ細り、美貌は失われ、時折パソコンのモニターに反射して見える顔は、皺だらけでみすぼらしくなっていた。


「……また、パソコンですか?」

「うん」

「あまり、無理はしないでくださいね」


 パソコンを弄るたびに落胆している義母を見て、娘が複雑そうな顔をしていた。彼女は、母が何をしているかを知らないかったが、もしも知っていたら、もっと強く止めていたことだろう。


 しかし、倖は追い立てられるようにパソコンを手にしていた。


 多分、自分の人生も失敗なのだろう……だが、その失敗はただの失敗じゃない。次に繋がる失敗なのだ。例え自分が死んだとしても、次に繋がるのなら、最後の瞬間まで諦めたくはない。


 倖はそう自分に言い聞かせると、最近では中々上手く動かせなくなった指で、パチパチとキーボードを叩き始めた。


 幼い頃、神様に会ったことがある。


 こうして、過去への介入を始めてわかったことだが、それは本当に神の奇跡に相応しいほどの偶然だった。どうして、あの時彼が自分のもとにやってこれたのか……どうして、そんな自分たちが時を経てまた巡り合えたのか。いくら考えても不思議で仕方ないほどの奇跡だった。


 何しろ、人の数だけ世界があり、その世界だって無数に分かれているのだ。それなのに、彼は偶然自分のもとに辿り着いた。そしてもし、彼が居なければ、自分はこの年まで生きてこられなかったかも知れないのだ。


 時折、弱気になって、自分の人生を悔いることがある。でも、その度に立ち直れたのは、その奇跡に感謝出来たからだった。


 こんなありえない偶然に、自分は助けられたのだ。だったら、今度は自分が助ける番ではないか……


 その気持ちだけで、彼女は突き進み……


 そして、どのくらいの時間が過ぎただろうか。


 気がつくと、日が傾いて、西の空が赤く染まっていた。


 一本打ち打法で、ようやく最後のプログラムの修正を終えた倖は、大分前から痺れて感覚が無くなっていた腰を伸ばすため、痛む体をギギギッとベッドに横たえた。


 普段なら、娘がすぐに駆け寄って手助けしてくれるのだが、今はそうしてくれなかった。もしかして、倖を見守りながら眠ってしまったのかな? と思い、彼女の居るはずの椅子を見ようと首を曲げたら、


『これ、ユッキーんちで見たことあるな……流行ってんのかね』


 そこには居らず、まったく逆の方向で、彼女は倖の弄っていたパソコンを物珍しそうに眺めていた。


『ばあさん、苦しそうだけど、大丈夫? 誰か呼んで来ようか?』


 ドキリとして、心臓が止まりそうになった。


 いや、もしかしたら、もう本当に心臓が止まっていたのかも知れない。


「懐かしい……日本語だ……」


 見慣れている、娘の顔が、今は別人のように見えた。実際、それは別人だったのだろう。この感覚は覚えがある。


「もしかして、神様ですか?」


 そう訊ねる自分の声は、果たして天に届いたろうか。


 夢を見ているのではなかろうか。


『うわっ! やべえ、日本語じゃねえや……あー、ハロー? チャオ? ニーハオ? グーテンモルゲン?』


 娘の姿をしたその人が慌てている。


「ごめんなさい。そろそろ、限界みたい」


 もっと話していたいのだけど、中々言葉が出てこなかった。どうやら、日本語を忘れてしまったらしい。ああ、どうして七条寺のマンションを引き払っちゃったのかなと、今となっては、もうどうでもいいようなことを考えていた。


『あー……ドイツ語っぽいな、これ。えーっとー……フンデルベン! フンバルトミーデル! ヘーヒルトベンデル!』


 くすくすと忍び笑いが漏れる。何かしょうも無いことを言っていたが、それすら懐かしくて仕方なかった。倖は思った。本当に神様は居るんだ。ずっと見守ってくれていたのだと……


『違う? あっそう……だよな。他にしってるドイツ語なんて無いぞ。グーテン……グーテンターク? レントゲン。アルトバイエルン。ミュンヘン? えーっと、それから、イッヒリーベディッヒ』


 潤んだ瞳で、もう何も見えなかった。でも、きっと今、自分は笑えているだろう。倖は最後の気力を振り絞ると、目の前にあるパソコンのエンターキーを押そうとした。


『これ、押せばいいの?』


 目の前の、誰かが彼女の手を取って、優しく導いてくれた。


『……さいならっ』


 そして、立花倖は命を引き取った。長く長く……波乱に満ちた人生だったが、その最後の顔はとても幸せそうに見えたという。


 幼い頃、神様に会ったことがある。


 その人を助けたいと、その人にもう一度会いたいと、頑張ってきたけれど、ついに倖はそこへ辿り着くことは叶わなかった。それは別世界の倖が通り過ぎた、いつもの失敗した人生の一つと同じだったかも知れない。


 でも、思い出してみればいい。彼は自分が本当に必要と思ったとき、いつも向こうの方からやって来てくれたのだ。


 だったら、もうやることなんて決まっている。いや、やれることなんて、始めから何も無かったのかもしれない。


 最後は、彼に見つけてもらおう。


 そして、彼女が残した最後のプログラムが走り出した。




Initializing interactive core system

Setting up window server

Setting up multi socket directory

Entering runlevel : 2

Loading udev: ok

Loading ACPI driver...ok

Starting System log daemon...ok

Starting System message bus...ok

..........

..........

..........

***Welcome to AYF_OS release 92248542362***

command >




「あんたは悪くないわよ」


 背後から声がかかった。


「あんだば……わ゛る゛ぐない゛っっ!!」


 振り返ると、顔をくしゃくしゃにした小町が、真っ赤な顔でそう叫んだ。


 彼女は両手で顔を覆うと、嗚咽を漏らさないように歯を食いしばって、そのまましゃがみこんで小さく丸まった。


 半年間も待たせてしまったが、彼女の藤木藤夫は今死んだのだ。


 それもこれも全部俺がまいた種だった。俺はその事実に打ちのめされるかのように、足早にその場を立ち去った。


 月が煌々と夜道を照らしている。行くあては無い。だったら、あの月が沈むまで、がむしゃらに追いかけてみようか……


 俺はデイバッグを背負うと、人通りの少なくなった夜道を歩き始めた。


 そしてどのくらいの時間が過ぎただろうか。


 いつしか俺は意識が混濁していた。自分が右を向いているのか、左を向いているのか。歩いているのか、立ち止まっているのか。呼吸をしているのか、それすらも分からない。


 ただ、曖昧な思考と、ぼんやりとした感覚で、背負ったデイバッグの重さだけが感じられていた。


 と、その時、突然機械的な音が鳴り始めた。


 ピリリリリ……ピリリリリ……


 という、当たり障りの無い、それでいて耳障りな携帯の呼び出し音が聞こえてくる。


 ハッとして腕に力を入れたら、まるで夢から覚めたかのように、周囲の景色が戻ってきた。一体、自分は今まで何をしていたのだろうか……?


 ピリリリリ……ピリリリリ……


 と、けたたましく電話のベルが鳴り響く。俺は慌ててデイバッグを下ろすと、中からスマホを取り出した。


「もしもし?」


 しかし、通話は途切れていた。一足違いだったようだ。一体誰がかけてきたのかと着信を確かめてみれば、馳川小町と書いてある。


 ……別れた直後、何かあったのだろうか。折り返し掛けなおしたほうがいいのだろうか……あれだけバツの悪い別れ方をしたので躊躇していると……


 俺はふと気づいた。


 よく見たら着信はそれだけじゃない。何しろ、家を追い出されてから結構経っている。その間に色んな人からかかってきていたようだった。


 電話だけでなくメールもかなり入っている。未読メールを確かめていたら、迷惑メールに挟まれた立花愛からのメールを見つけた。


『姉さんの恥ずかしい姿をこっそりお届け』


 これまた迷惑メールのようなタイトルのそれを躊躇無く開くと、添付されていた動画ファイルを起動した。重たいアプリが起動するまでの間、メールの本文を読んでみる。


『藤木君。いや、お義兄さんと呼ばなきゃいけないのかな? なんてね。あの堅物だった姉さんのハートを射止めた君に、こっそりと面白い映像を送っちゃうよ。これ、事務所で最近見つけたんだけど、姉さんの子役時代の貴重なVTRです。滅茶苦茶可愛いんで、始めてみたときは、腹を抱えて笑いました(笑)もしも、姉さんと喧嘩でもしたら、これを見せればすぐ許してくれるよ、きっと。じゃあね。また、ラジオの方にもメールください。それでは』


 動画ファイルが起動される。それを見て、俺は度肝を抜かれた。


『にゃんにゃん体操! にゃーん! ねこにゃん、ぽちにゃん、ねこにゃんにゃん。ポチは子猫のポチにゃんにゃん!』


 猫のコスプレをした子供時代の立花倖が、下手糞な歌付きで、もの凄く恥ずかしい踊りを踊っていた。あまりのギャップに意識を失いかけたが、なんとか踏ん張った。爆笑しそうな気を必死に静めて、深呼吸をする。これは恥ずかしい、ホントにもう、リーサルウェポンと言って良いだろう。立花倖限定の。


 ボロボロボロボロと涙が零れた。


 ああ、そうだったのか。天使はここに居たんだ。彼女が天使だったんだ。


 何故、彼女が姿を隠してまで、あんなことをしていたのか……それは未だによく分からない。でも、その正体が、彼女であるなら……天使はやっぱり天使だったと言うわけだ。


「帰りたい……」


 自然と言葉が漏れた。


「帰りたいなあ……」


 あの、懐かしい日々に。


 小町が居て、天使が居て、母ちゃんなんかクリーチャーでさ。学校では鈴木たちと毎日馬鹿を繰り広げてて、放課後は朝倉先輩となるみちゃんをセクハラして……


 そしてたまに、学年主任に追いかけられたあの人が逃げ込んでくるのだ。


 どうして、遠ざけてしまったのだろう。きっと、天使は自分のために、奔走していてくれたのだ。それなのに、なんの理由もなしに怪しいからって、疑ってかかってしまった。


 帰りたい。あの頃に。帰ってやり直したい……


 そんなことを考えながら道を歩いていると……


 やがて、意識は混濁し……


 俺は自分がどこの誰かも分からなくなっていた。


 世界は暗闇に包まれ……




 そして、俺は知らないベッドの上で目を覚ました。


 ピッピッと何かの機械の音が聞こえた。何の音だろうと、そっちの方を見てみたら、心電図やらなにやらがゴテゴテと見えてぎょっとした。コーホーと、まるでベイダー卿のような呼吸音が聞こえると思ったら、呼吸器をつけた自分のものだった。


 それがもの凄く息苦しくて、外そうと思って手を動かそうとしたのだが、腕が全く上がらない。それどころか体が拘束されてるかのように重く、身動きがまったく取れなかった。


 なんじゃこりゃ? と思い、懸命に辺りを目だけで見回すと、突然、目の前に自分の顔が飛び込んできた。


「天王台!」


 いや、それは自分の顔じゃない。藤木藤夫の顔である。


 なんだかごっちゃになってる……


 また誰か別人になっちゃったのか? いや、でも何で藤木が生きてるの? ……と、ポカンと口を半開きにしていたら、


「天王台! お、おおお、おおおおお! 先生! 先生、天王台がっ!」


 仰天した藤木が、叫びながら部屋を飛び出していった。


 気がつけば、俺は病院のベッドにいた。


 よくよく見たら、何となく見覚えのあるその部屋は、かつて夢の中で見た天使を追いかけて辿り着いた、市民病院の個室だった。


「馬鹿ね、あいつ……ナースコールすればいいのに」


 小町の声が聞こえたと思ったら、彼女は呆然とする俺の上に乗り出すようにして、壁にかかっていたナースコールのボタンを押した。そして、まるで慈しむような顔をして、俺のことを見下ろすのだった。それはやり遂げたといったような、すがすがしいものにも見える。


 心臓がドキリと高鳴った。何か、とてつもなく大切な人を見ているような、そんな気分だった。それは小町に対してではない。


「はじめまして……ううん。久しぶり。実は、あなたの顔を見るのは、これが初めてなのよ。なんか変な気分ね」


 小町はそう言うと苦笑した。もう間違いない……こいつは、天使だ。


 俺は必死になって声を出そうとした。けれども、呼吸器が邪魔をして上手く話せない。


「どうしたの? どこか、痛いの?」


 俺は首を振るうと、必死になって腕を動かそうとした。もの凄い激痛が走ったが、そんなのはお構い無しに腕を上げると、なぎ払うように呼吸器を叩き落した。あまりの痛さに気が遠くなる。


「お……ま……天……し?」


 必死に痛みに耐えながら、霞む視界で彼女を捕らえつつ、どうにかこうにか声を出す。しかし声が掠れて思うように話せなかった。


「無理をしないで。あなたの体は半年間も眠ってたのよ。いきなりは動かせないわよ」


 半年? 寝てた? ぜえぜえと呼吸が乱れる。彼女は叩き落とされた呼吸器を取り上げると元に戻し、そしてそっと俺の手を握った。


「最後に逢えて良かった……これで、心残りは無いわ」


 どういうことだろう? まるでこれから死ぬようなことを言う彼女を、怪訝な表情で見ていると、


「多分、もう分かってると思うけど、あたしは……あなたが失敗して、死んでしまった世界の立花倖よ。わけあって、正体を明かすことは出来なかったんだけど、あなたが失敗しないように誘導するのがあたしの目的だった……」


 そして、彼女は色々なことを教えてくれた。


 実は藤木は生きていたこと。なのに乗り移ってしまった自分のせいで、二人とも死ぬと言う最悪な結末が訪れていたこと。それを修正しようとして、彼女と小町が奔走していたこと。


「これがとても大変な仕事で、長い年月がかかったわ……ううん、実は結局、あたしにはどうしようも無かったの。何とかあなたを助けようと、何度も何度も挑戦したけど、結局、あなたを助けることは出来なかった……だから、最後に賭けに出たのよ。きっと、あなたがあたしのことに気づいたら、探しに来てくれるって……だから、こうしてゴールで待ってたの」


 そう言って、彼女は笑った。


「あんたなら、あたしのことを見つけてくれるだろうって、半ば投げやりだったのよ? でも、そしたら、本当に目を覚ますんだもん。まったく、今までのあたしの苦労はなんだったんだろうって……笑っちゃうわ。笑っちゃう……」


 そう言って、彼女は泣いた。


「でも……本当に良かった。本当に……もう、あまり時間はないの。だから最後にお願い」


 俺は必死になって呼び止めようとした。けれども、声も出なければ体も動かない。


 ただ、あーとかうーとか、唸り声みたいなものが出るだけだ。


 あとは涙が出るくらいだが、それじゃ彼女の姿が良く見えなくなってしまうから、懸命に堪えた。


「えーっとね……その……あたしはもう居なくなるんだけど……あたしのこと、可愛がってあげてにゃん?」


 指きりのように小指を立てて、そして彼女は居なくなった。


 まるで白昼夢でも見ていたかのような、唖然とした顔の小町が残されていた。彼女は自分の指先をぼんやりと見つめている。


 俺は必死になって、殆んど動かない腕を動かし、その手に縋ろうと持ち上げた。でも、小指を立てようと頑張ってはみるのだが、もどかしいほどに動かない。


 小町はそんな俺に気づいたのか、そっと俺の手を取った。


 そして、二人の小指が絡まりあったとき……


 さっき飛び出していった藤木が病室へ戻ってくるのであった。


「……あんた、先生を呼びに行ったんじゃなかったの?」


 車椅子に乗った女性を連れて。


「だから、先生だろ?」


 俺は今度こそ、涙を堪えることが出来なかった。




(テクノブレイクしたけれど、俺は元気です・完)


最後まで読んでくださってありがとうございました。また新作も書き始めたので、そちらの方もよろしくお願いします。ではでは。


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