それでもやるのか
過去の立花倖が残した手記には、一度だけ彼に言及した記述があった。新垣の出世作であり、後々自分と天王台がくっつく原因となった出来事、究極のオナホ製作。その切っ掛けを作ったのが、藤木の父を名乗る謎の人物の存在であった。
しかし、この人物は渦中の事件が解決すると、天使とともに消えてしまった。まるで示し合わせたかのような退場の仕方は、彼と天使が協力関係にあったと邪推するものであるが、今となってはそれもいささか疑問であった。
何故なら、天使=立花倖であるならば、彼女はこの人物が何者であるかを知っていなければおかしい。しかし、いくら考えてもそれらしき人物に心当たりが無い。
突然の間違い電話で登場した彼が一体何者であるのか。殆んど直感でしかなかったが、もしかして過去に藤木の電話に度々かけてきた人物ではないかと訊ねてみれば、
「はい、そうですよ」
と、彼はあっさりと答えるのだった。
こんな簡単に答えちゃっていいのだろうか……戸惑いながらも、倖は疑問について質問してみた。
「ふむ……私が何者であるか、知ったところで何の意味もありませんな。寧ろ弊害が大きいかも知れませんし、匿名希望とでも名乗っておきましょうか。それよりも、まさかこんな不可解な出来事が起きるとは……私も想像してませんでしたよ。普通に藤木の携帯にかけたつもりなんですが。よっぽど、彼とあなたは縁があると言う事でしょうか、いやはや、感慨深い」
「ちょっと待って。名乗れないってことは、あたしの知り合いなの? 過去に、天使に協力していたのはあなたなんでしょう?」
「はて、どういう事です?」
じれったく思いながらも、倖は事の顛末を根気よく説明した。気を悪くして逃げられては元も子もないのだ。向こうはどうか知らないが、こっちからこの男に接触する方法が分からないのだから。
「……すると、お嬢さん。あなたが天使なる少女の正体なのですか?」
「恐らくは。確信は持てないわよ? 状況的にそれが一番ありうるってだけ」
「まあ、そうかも知れませんな……」
「……本当に、知らなかったの?」
「ええ、知りませんでしたよ……さて、質問の答えですが、私はあなたの知り合いではありません。少なくとも、あなたと私は現時点で会ったこともないでしょう。そして、天使の協力者かと問われれば、それも違いますね。逆に問いたいのですが、あなた、どうやって過去に干渉してるのです?」
「分からないわよ。あたしは、過去に起きた出来事から、どうやら未来の自分が、過去の自分たちに何か介入を行っていたと気づいただけ。今はその方法を探しているところなのよ」
「なるほど……天使なる少女の存在は、私も少々不審に思ってましてな。元々は藤木に興味があって……あ、別にホモじゃありませんよ? ……少し調べていたのですが、すると彼の周りに、どうにも怪しい天使なる人物が見え隠れする……てっきり、私は同業者か何かだと思ってたのですがね……そうですか、違ったのですか……なるほどなるほど……ふーむ」
すると、その男は受話器の向こう側でぶつぶつと独り言をはじめた。殆んど聞き取れなかったが、何か天使に関して思うところがあったらしい。
彼は暫く考え事をするかのように沈黙すると、やがて何かを決心するかのような態度でこう言った。
「もしかすると、私とお嬢さんは、今日ここで出会ったのかもしれませんね」
「……え?」
「薄々、感づいているのでしょう。私が何者であるのかを」
それは、もちろんそうだ。いや、彼が一体どこの誰かまでは分からないが、少なくともその存在がどういったものなのか、それはある程度予測できている。
これから自分は、天使となって過去に介入することになる。そこに、自分とどうやら協力関係っぽいようなことを言っていた、彼が居るのだ。となれば、答えは一つしかない。
「お察しの通り、私は未来人です。今から数十年先の未来……ここではない、他世界の住人です」
遠い未来、文明は崩壊した。
世界人口の半数以上が失われ、残った半数が今でも終わりのない戦争を続けている。経済などとうにずたずたで、貨幣には価値が無くなり、人々は物々交換して糊口を凌いでいる。疑心暗鬼の中で隣人すらも信用出来なくなり、殺人が横行し、自殺も絶えない。暗黒時代に突入したのだ。
その原因を作ったのが、電話の声の主であった。彼は人類で始めて、タイムマシンの開発に成功したグループの一員だった。
「タイムマシンと言っても、恐竜時代に遡ったり、太陽が死滅する間際の未来に飛んだり出来るような、純粋なタイムマシンではありません。平行世界を移動する装置。それはドラえもんのひみつ道具で言ったら、もしもボックスに近いものでしてね? あの時こうしていたら、世界はどう変わっていたのだろうと言う事を確かめることが出来る、そういった機械だったんですが……
ところで、お嬢さんはラリイ・ニーヴンというSF作家の『時は分かれて果てもなく』という短編小説を知ってますか?」
ある時、平行世界へ旅行する方法が発見され、その平行世界との貿易を行い巨万の富を得た平行世界事業団。その関係者が次々と謎の死を遂げていった。捜査を開始した刑事はやがて真相にたどり着く。
彼らは無数に存在する平行宇宙の中に、自分たちの世界とそっくりな世界が多数あることに気がついた。そこにいる自分たちは、巨万の富を得た自分とは違い、あらゆる局面で失敗する。何故なら、それは自分たちがもしも失敗したら、どうなっていたかと言う世界だったからだ。
要は、彼らは人生のあらゆる選択で成功を勝ち取ってきたと思っていたが、それは無数に枝分かれした世界の一つに過ぎず、どんな突拍子も無い賭けであっても、成功する世界もあれば大失敗に終わる世界もある。人間の努力や運などは関係なく、単に世界が二つに分かれてるだけだと気づき、彼らは絶望して自殺してしまったのだ。
「我々の世界でも似たようなことが起きましてね。こんな精神的、宗教的な話ではなく、もっと俗物的なものでしたが……平行世界を自在に移動する方法を得た人類は、そこで成功体験だけを求め続け、その結果、他者との交流を絶ってしまった。株式に売り手と買い手がいるように、成功する人がいれば失敗する人もいる。全員が成功するなんてことは土台無理な話で、蹴落とすべき他人が必要なんです。
それに気づいてしまったら、家族であっても自分の人生に枷をはめる障害に過ぎず、排除したほうが自分にとって都合が良くなる。結果、自分に都合のいいだけの平行世界に逃げ込んだ人類は、当然のようにそこで孤立し、やがて孤独に耐えかね自殺した」
経済面での理由から、マシンは先進諸国に先行的に販売されていた。事件が明るみに出ると、開発者グループは危険に気づき、販売をストップさせたのだが、それを後進国は不公平だと言い出し戦争が始まった。人口減と社会的混乱が続いていた先進国になすすべはなく、間もなく世界は血みどろの戦争時代に突入するのだった。
「私達のグループにも、マシンを使って自殺した者も居れば、今回の件で絶望して自殺した者も居ます。私は現存する平行世界を含め、人類がどれくらい生存しているのかと調査していたのですが……そんな時に、私達のタイムマシンが作られるよりもずっと以前に、おかしな痕跡を発見したんです。私達と同等の方法で、多世界を移動している存在が居る……藤木君とあなたのことです」
「どういうこと? ……つまり、彼はあんたたちのマシンを使って、未来から来たと言うことかしら」
「いいえ、違うんです。それは絶対に有り得ない。彼は自然に発生した、多世界を移動する能力を持った人類ということです。こんなことが起こりうるのかと、初めて知ったときは驚きました。もしかしたら、人類には彼のような存在が、度々生まれてきていたのかも知れません。私は私が生まれる以前に遡ることが出来ないので、それは分かりませんが。もしもそうなら、何か私達の世界の助けになるようなヒントでもないだろうかと、彼の様子を探っていたんですよ」
結果としては天王台も彼も似たようなもので、ヒントになりそうなものは無かったらしい。結局、彼は人類の進化形態の一つのようなもので、突然変異だったのだろうと結論づけた。
ところで、タイムマシン、タイムマシンと連呼しているが、一体どういうものなのか……尋ねても居ないのに、男はそのことについて説明をし始めた。
「タイムマシンの存在に関しては、否定派肯定派、様々な議論がされていますが、あなたはどうお考えですかね。それは実現可能なのか、否か……」
「……議論するまでもないわよ。無理なら、あたし=天使という図式が崩れるんだから……けど、そうね、真面目に答えれば、現状では未来へ行くことは可能かも知れないけど、過去に戻れるとは思えない……と言ったところね」
「スティーブン・ホーキング博士のおっしゃる通り、もしもタイムマシンが作れるのであれば、どうして未来人が大挙してやってこないのか? という疑問がありますな。タイムパトロールなるものが、それを阻止しているとか、理由にもならない理由を挙げる人も居ますが……」
男はそう前置きすると、有名なタイムパラドックスについて言及し始めた。
「タイムマシンなんて物があると、色々と不条理な事態が起こりえます。タイムパラドックスなんてものは、その最たる例でしょう。
例えば、親殺しのパラドックス。タイムマシンを手に入れた私が、過去に戻って私が生まれる前に親を殺してしまう。すると、私はどうなってしまうのか?
ドッペルゲンガーと言うのもある。過去に戻って、過去の自分の代わりに私が何かを選択してしまったらどうなるのか? また、親殺しのパラドックスのように、過去の自分を殺してしまったら?
他にもDNAのパラドックスなんてものもあります。自分が生まれる以前に戻って、母親を妊娠させる。その子供はやがて大きくなって、また過去に戻って母親を妊娠させる。要するに、父親が自分だったとすると、両親から半々に受け継ぐと言われるDNAは一体どうなってしまうのか?
これらの矛盾が生じる限りは、タイムマシンを作ると言うのは不可能なことのように思えます。しかし、逆説的に考えれば、これらの矛盾に抵触しない方法であれば、タイムマシンの製作は可能なのではないでしょうか。ところで、そんな方法はあるんですかね?」
「あるわね……必要条件は二つ。タイムマシンは自分の生まれる以前には戻れない。自分自身に会うことは出来ない。その二条件を満たすような方法なら、過去に戻れるというのかしら?」
「ふむ。概ね正解ですな……しかし完全ではないです。
例えばタイムリープなんてものはどうですかね。自分の肉体ではなく、精神だけを過去に戻す、あれです。過去の自分の体に、精神だけを戻すわけですから、自分が生まれる以前には戻れない……そして、精神だけの移動であるから、過去の自分と出会うこともない……
しかし、これも駄目です。例えば、私がタイムリープして、過去の私にタイムマシンの設計図を書いて残したとします。過去の私はそれを元にタイムマシンを完成し、私がしたように、過去に戻ってタイムマシンの設計図を自分に教えるとします……過去の私も今の私も同じ私ですから、すると、この設計図は一体どこから出てきたのでしょうか? 鶏が先か、卵が先かという事態になりかねない。
要するに、タイムリープとは、ドッペルゲンガーに会っているのと同じ状況なのです。考えても見れば、タイムリープした自分が自殺することだって出来るのですよ。
つまり、私たちは物理的にも精神的にも、過去に戻ることは出来ないし、そこに変更を加えると言うことは不可能なのです」
男はまるでタイムマシンなど作ることは出来ないと言わんばかりに話を締めくくった。しかし、それならば、そもそも自分で未来人と言い切った、この男の存在はなんであると言うのか。
「愚問ね。あんたの言う過去を変えられないと言うのは、同一時間線上の過去のことでしょう。しかし、他の平行世界ならば変えられる」
「……それでも、お嬢さん、あなたは過去を変えようと言うんですか? 何のメリットもないですよ?」
始めから気づいていた。もう、何年もかけて、倖が変えようとしたノートの中の世界……天使が居た世界は、もはや彼女の過去ではなく、他の世界のことなのだ。
あの日、天王台元雄の記憶を失った時点で、倖はその世界から移動した。
だから、彼の言うとおり、自分が天使となって、過去を変えても、それは平行世界の出来事で、今の倖自体には何の関係もない。天王台が生き返るわけでもないし、倖が若返るわけでもない。どこか別の世界の、天王台と倖が幸せになるだけなのだ。
それでもやるのか。
気がつけば三十路を越えている。不摂生で肌は荒れ、皺も増え、女としての魅力も年々失われていっている。周囲には狂人扱いされ、会社ではお荷物だ。家族だって、いつまでも自分の相手をしてくれるわけではないだろう……
これは分水嶺だ。男は初めに言った。小説の例を挙げて、自分の選択なんてものは、無数にある分岐の一つに過ぎず、今、世界が倖が選択した世界と、しなかった世界に分かれようとしている。ただそれだけのことなのだ。
自分はまだ若い。まだ引き返せるだけのバイタリティも残している。新垣だって理解してくれるだろう。金も地位も名誉も得ることが出来るはずだ。本気で探せば、良縁だって見つかるはずだ。
それに自分がやらなくても、他の平行世界の倖がやってくれる。それだけの話だ。
「それでも、やる」
倖がそう決断すると、男はさもありなんといった塩梅で、それじゃ対策でも練りましょうかとあっさり応じた。恐らく、どちらの選択を選ぶか初めから分かっていたのだろう。もしくは、どちらを選ぼうが、彼には関係ないことだからだろうか。ただ、彼女の決意の程を試しただけなのかも知れない。それくらい、この決断はメリットに欠けていた。
それでも、彼女は選んでしまった。他の選択肢は考えられなかった。
頭の中には、どうしてこんな馬鹿げたことをしているのだろうと、他人事のように思っている自分が居る。でも、見たことも会ったこともない誰かのために、泣けてしまう自分も居るのだ。何かをごっそりと、心の中から持ってかれてしまったような、どうしようもない後悔がすでにあるのだ。
なら、貧乏くじを引くのは自分でありたい。そう倖は思っていた。