表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
121/124

あ、藤木?

 幼い頃、神様に会ったことがある。


 思えば立花倖の原点は、全てそこにあったと言って過言ではない。


 新進気鋭の女優の隠し子として生まれた彼女は、生まれながらにして、世間の目から隠れるような生活を、送ることを余儀なくされた。彼女にとって、世界は家の中が9割で、残りはベランダから見える景色で殆んどであった。


 故に幼少時の彼女は今とは違って天才なんかではなく、寧ろ知恵遅れ気味と言っても良いような子供だった。普通なら幼稚園なり学校なりに通って、常識的に持ち合わせてるような知識すら、彼女は持っていなかったのである。


 だから、それは彼女の母親の自業自得だったと言っていいだろう。


 ある日、彼女の母親は体調を崩して仕事から帰宅すると、そのまま倒れこむようにして寝てしまった。風邪が悪化した程度にしか思っていなかったのだろうが、それは重篤な病気であった。


 体調が優れないから少し寝かせて? と言われた倖は、言われるとおりにじっと黙って母が眠るのを見ていた。やがて、その様子が段々おかしくなり、起きだしてきた彼女が薬を飲もうとして力尽き、寒い台所の机に突っ伏して眠ってしまっても、倖は黙ってその寝姿を見ていた。


 段々と、母親の様子はおかしくなっていた。最初は苦しそうだったのに、暫くすると逆に穏やかになってきた。しかし、その顔色は死人のようである。


 もしかして、死ぬのかな? と思うと悲しくなった。でも、どうして良いのか彼女には分からなかった。母親が死んだら、自分も死ぬのかな? と思うと怖くなった。でも、涙を流す以外に、彼女は何をすればいいのか分からないのである。


 誰でもいい、母を助けてくれ……何も出来ず、ただ天に祈っているしかない。


 そして、そんなときであった。


 突然、さっきまで死にそうになっていた母親が、ぬっと起き上がった。


「うわっ……気持ちわるっ!? きんもー……」


 などとのたまい、げっそりした顔を見せたかと思うと、ぱっと鏡を見つめて、突然自分の胸を揉みしだきながら、ニヤニヤとした顔を見せたのである。


 熱に浮かされて、ついに気が触れてしまったのだろうか?


 呆然と母を見守っていると、「いかんいかん」と言いながら、彼女はブルブルと首を振るって……頭痛がしたのだろうか、こめかみに指を当てながら、普段とはまるで違う口調で倖に聞いてきた。


「お母さん、調子悪いけど、何があったか話してくれないか?」


 明らかに、それはいつもの母親とは違って、別の何者かにしか思えなかった。でも、それが何であっても、今の自分よりはよっぽど役に立つ。倖は母親に尋ねられたとおり、何があったのかを正確に話すと、母親は自分で立ち上がって電話で助けを呼んだ。


 そして、またぐったりしながらテーブルに着くと、「こう言うときは救急車を呼べばいい」と倖に言った。彼女が救急車のことを知らないと言うと、119番通報のことを丁寧に教えてくれた。


「ほら、これに書いとけ」


 と言って、母親がメモ帳を渡してくる。戸惑っていると、彼女はメモ帳に『病気になったら119番』と書いて彼女に押し付けてきた。


 その後、救急車が到着するまで、その母親に乗り移った何者かと話をした。母親は明らかに倖のことを知ってるようだったが、一体何者かと聞いても答えてくれはしなかった。ただ、難しそうな顔をして、


「まあ、神様みたいなもんかな。最近、どこ行ってもそんな感じだし……」


 自虐的に笑うのだった。


 やがて、救急隊員が到着して、母親に言われたとおりに玄関を開けて応対している間に、母親に乗り移った何者かは消えていた。


 病院で治療を受け、回復した母親は倖に大いに感謝した。救急車を呼んだのは娘だと思ったのだろう。しかし、倖は自分がやったわけではないから、首を振るってそれを訂正した。そして、あの日起きた出来事を母親に言ってみたのだが、母親はそれを聞いても微妙な顔をするだけで、彼女の話を信じてはくれなかった。


 誰に言っても似たような態度で、強硬に主張しても気味悪がられるだけだった。だから、その内言わなくなったが、けれど彼女はあの日出会った神様を名乗る人物のことを、決して忘れることはなかった。


 それから暫くして、いざと言うときに母親を守れなかった自分のことを悔いて、彼女は自分にも出来ることをしたいと考えるようになった。それは学校に通ったり、勉強のつもりだったのだが、それを聞いた母親は勘違いして、倖を自分の芸能事務所に入れた。


 そう言うつもりではなかったのだが、母親との価値観の違いをその時はまだ分からず、少なくとも家に篭りきりの生活よりは、ずっと刺激的だったから、倖は子役タレントとしての生活を受け入れることにした。


 しかし実際は、隠し子がバレると困るので仕事はセーブされ、オーディションなども受けられず、コネで端役を続けていただけだったのだが……


 だが、やはり努力家な面が功を奏したのか。そんな生活を数年間続け、それでもめげずに、熱心にノートを取って頑張っている彼女の姿が気に入られ、やがて彼女は子供向け番組のレギュラーを取るにまで至った。


 キッズ向け情報番組で、猫と、ねずみと、ウサギのコスプレをした少女たちが、番組のメインパーソナリティのアシスタントをするような内容で……彼女の役どころは、猫のポチ。語尾には常ににゃんと付け、下手糞な演技でたどたどしく喋る彼女は、やがて番組内でも人気が出てくるのであった。


 そして、その人気が仇となったのか……番組開始から数ヵ月後。番組の熱狂的なファンで、特に彼女に(よこしま)な考えを抱いていた大きなお友達が、仕事帰りの彼女を強引に連れ去るという事件が起きたのである……


「…………天使は、あたしだ……」


 その後、丸一日拉致監禁された倖は、突然気まぐれを起こした犯人に解放されて事なきを得る。犯人に言われたとおりに他人に助けを求め、保護された彼女は警察署で起こったことを正確に伝えた。捕まった犯人は、事情聴取で、かわいそうになって心変わりしたと答えたらしく、それが彼女の供述と一致したとして、事件はそれで解決した。


 倖は少し釈然としないものを感じていた。あの時、自分を解放した犯人は、明らかに前日までのそれとは違う印象だった……実際、もしかしてと思い、去り際に犯人に尋ねてみたりもしたのだが……しかし、もっと幼い時のようには素直に信じられず、事件が解決してしまったら、もうそれ以上考えることはしなかった。



 

 弁護士である新垣の父親から、天王台元雄の墓の場所を聞きだして、倖はその日のうちに訪れた。末妹は少し驚いていたようだが、黙って付き添ってくれて、墓の前で手を合わせて熱心に祈る姉を見ると、気を利かせてどこかへ行った。末妹がどこかへ行くと、倖は誰憚ることなく泣いた。頭の中は冷静なのに、何故か無性に涙が出た。


 警察署に保管されていた自分の手記を読み進めたのだが、そこに書かれていたおよそ半年間の出来事は、全て創作小説のようにしか思えなかった。何一つ身に覚えが無いのである。実際、ここに書かれているような出来事は起こらなかったし、誰に聞いてもそう言うに違いない。


 だが、それを一笑に付してしまうには、あまりにも自分の感情がそばだっていた。記憶には無いけれど、これは現実に起こった出来事だ。仮に体が憶えてなくても魂が憶えている……


 更に、天王台元雄と言う寝たきりの少年の存在が、彼女の確信を強固に裏付けた。この、記憶に無い少年を、何故か保護していたと言う事実。そんなことしたところで、何の得にもならないこの事実を考えれば、過去に自分の知らない何かが起きたことは明白だった。


 そして手記によると、どうやら天使は藤木の身に何かが起きるたびに、色々理由をつけて誘導したり、裏で動いていたような節がある。更には、彼と出会う前から、何か仕込みを行っていたようである。


 もはや、間違いないだろう。彼女は未来から来た介在者であったのだ。


 その目的が何であるかはまだ分からぬが、彼女が過去に介入していた証拠として、まず真っ先に思いつくのは、天王台の体の確保しかない。多分、天使は過去の倖に何らかの手段で近づいて、それを行ったのだろう。


 それが何故なのか……そんなのは彼の魂を元に戻そうとしたに決まってる。それくらいしか思いつかないのだ。


 しかし、彼女はそれを成し遂げる前に失踪した。しかもその原因を作ったのは、恐らく立花倖本人なのである……


「はぁ~……」


 ため息が漏れた。もし、その考えが確かなら……彼を死に至らしめたのは自分ではないか……


 目の前にある、天王台の墓石を前に、彼女は青ざめた……


 過去の自分も、どうやらその事実に思い当たり、後になって彼のために尽くそうと色々奮闘していたらしい。この手記を残したのもその一環なのだろう。もしかしたら、彼と二人で暮らし始めた頃には、自分が天使であるという可能性も考えていたかも知れない。だが、それがどうであったかは、もはや自分にも思い出せないのだ。


 ならば、やることは決まっているだろう……


 今度は自分が天使になる番だ。天使になって、今度こそ、天王台元雄に起きた一連の事件に終止符を打つ……自分はそのために生まれてきたのだ。今となっては、それがあたりまえのことのように思えた。


 天王台元雄の墓は、七条寺市外れの市営墓地の片隅に、こじんまりとして置かれていた。そのままだと引き取り手がなく、無縁墓地に埋葬されそうだったところを、新垣の父が気を利かせて建ててくれたらしい。


 これが彼の人生の結末でいいのだろうか。こんな風の吹きすさぶ、寂しくて狭い場所に押し込まれて、誰からも思い出してもらえない……


 そんなのは悲しすぎるだろう。


 このままじゃ終われない。もしも、自分が天使であるのならば、まだやれることがあるはずなのだ……


 倖は改めて墓に手を合わせると、熱心に拝み、そして決然と立ち上がった。

 

 

 

 とは言え、何から手をつけて良いのかさっぱり分からない。


 天使は自分である……その確信があるから、過去に介入する方法がきっとあるはずだと断言できるわけだが、しかしその方法が分からない。


 とりあえず思いつくのは、手記にもあるように、かつて自分が思いついた、五次元を介した拡大多世界解釈である。もし、自分の仮説どおりに、人間の魂のようなものが、余剰次元に存在するというのなら、自分の魂も当然そこにあるわけで、そこを通してなら彼の人生、つまり彼を中心とした過去に介入することは可能である。


 しかし、それは机上の空論であり、未だに確固とした証拠も実験データもないのだ。


 かといって、何もしないで居ると言うのも思考停止以外のなんでもないので、やれることから始めるしかない……


 倖はそう決めると、もはや必要なくなった成美高校の教職を辞し、七条寺のマンションも引き払って、アメリカへと渡った。


 研究者に戻ろうとして、ボストンの私宅に戻ったは良いが、MITにポストはなく、在学時のコネから他の大学を紹介され、そこで研究職にありついた。とは言え、やはり自由の国アメリカというべきか、倖の研究にも理解をしめしてくれはしたが、なんの成果もあげられなければ意味を成さず、初年度の査定であっという間に解雇された。その後も、他の大学を転々とするが、どこへいっても似たようなもので、彼女は転職と解雇を繰り返されるうちに、次第に行く場所がなくなっていった。


 時間だけが無駄に過ぎていった。若さは失われ、疲労だけがどんどんと蓄積する。


 しかし、捨てる神あれば拾う神ありというべきか。そんな時に懐かしい顔から声がかかった。新垣ノエルである。


「いやあ、懐かしい。先生のお陰で一財産築けたんですよ」


 究極のオナホは売れに売れた。


 女性である倖からすれば、製品化するのも馬鹿馬鹿しいと思われた究極のオナホは、売れに売れたのであった。


 無駄にハイテクであるせいで同業他社からの類似品の販売も無く、物が物だけにハイテク企業からの新規参入もない。そのお陰で、完全に市場を独占した新垣の企業は、気がつけば世界最大のエログッズ専門会社として、なんだか異様なほどに儲かったらしい。


 元々、彼は商才があったのだろう。会社を売却して、それを元手に新会社を設立すると、彼は革新的な製品を次々と開発、ヒットさせていった。物怖じをしない彼はプレゼン能力が高く、また子供っぽいが夢を忘れず自由奔放な彼のもとには、世界中の似たような発明家が集まった。


 彼の会社は現在ではグローバルな企業として、国内外から注目を浴びる、新興企業の雄として知られていた。


 そんな彼は、倖の窮地を知ると、自分の会社に是非来てくれと誘ってくれた。


「本当はプロダクトマネージャーとしてお招きしたかったんですが、それだと忙しすぎますからな。肩書きは平の研究職ですが、全権委任しますんで……どうです?」

「でも、いいの? あんたの会社に何の貢献も出来ないわよ、きっと」


 すると、新垣は当たり前のように言った。


「元々、先生の協力が無ければ、究極のオナホは完成しませんでしたからなあ……このくらい、させて貰わないと罰が当たりますよ。それに……」


 彼は少し躊躇(ためら)いがちに、


「昔、先生と、私の妻の三人で、遊園地に行ったことがありませんでしたか?」

「……あったわね、そんなことも」

「このとき、先生がついてきてくれたお陰で、私は後々、妻と結婚することが出来たんですよ」

「そうだったの? それはおめでとう」

「ええ……ありがとうございます。ですが……ずっと以前から、どうにも納得がいかないことがあったんですよ。そもそも先生ほどの人が、どうして究極のオナホなんて馬鹿げたものの開発に付き合ってくれたんだろうかと……それどころか、私と妻の間を取り持つようなことをしてくれたのかと……」

「…………」

「もしかして、4人目が居たんじゃないかと……」


 そんな新垣の台詞に、呼吸が止まりそうになった。彼の言葉に耳を疑った。


「……え?」

「もちろん、私の憶測ですがね。最近の先生の研究や、論文を読ませて頂いたら、何となくそんな気になったんですよ。かつて、私にも大切な友達がいた……もしもそうなら」


 多分、確信はもてないのだろう。だから、新垣は照れくさそうに言うのだった。


「今度は、私にお手伝いをやらせてはもらえませんか」




 それから数年の月日が流れた。


 倖の研究は遅々として進まず、天使の手がかりは一向につかめなかった。ただし、多世界に関する彼女の研究は、一部の好事家に知られて、それなりの知名度を持つに至っていた。新垣と言うバックがあるのも、彼女に味方した。


 しかし、彼女の研究には致命的な欠点があった。それは余剰次元の観測が不可能なことだ。彼女の理論によれば、余剰次元を介して、他世界へと介入出来る。しかし、その途中である、五次元時空が一体どういうものであるのか? 4次元の生物である人間には知りようも無いのである。


 だから、彼女の理論は机上の空論として一般には相手にされず、残念ながら、彼女はいつまでもカルト研究者と見做(みな)されていた。何をしているか分からない、無駄なことをしている、というレッテルは、彼女の立場を常に危うくしていた。


 困ったことに、特に母親が彼女のことを心の底から心配していた。彼女だって人の親である。娘がわけのわからないことを続けており、しかも他人から馬鹿にされていたら心配にもなるであろう。倖が30歳を越えると、母親はことあるごとに電話をかけてきて、見合いをしろ見合いをしろと口うるさく言うようになってきた。


 めでたいことではあったが、妹が結婚したことも追い討ちをかけた。


 立花成実は男性恐怖症を克服して、ついに幼馴染と結ばれた。成美高校は結局甲子園に出場することは出来なかったが、そのエースピッチャーである藤原騎士の名は知られており、高卒ドラフトでプロになると、3年後には1軍に定着し、今ではジャイアンツの不動のエースにまで成長した。


 元はただの隣家の野球少年であったが、末娘の相手がこうして派手な経歴を持つに至ると、母親はもろ手を挙げて喜んだ。結婚のお願いに来た彼を大いに誉めそやし、末娘の幸せを有頂天になって喜び、まだシーズン途中にも関わらず、マスコミにリークしたのも彼女だった。


 そんな具合に調子に乗ってしまった母親のパワーは凄まじく、最近はもう手が付けられないほどにまでなっていた。そんなに娘の世話を焼きたいのなら、もう一人いるんだからそっちにしろと言うのだが、次女はタレントだから結婚しちゃ駄目じゃん……と素で返されて辟易した。やはり、この人は価値観が色々と腐ってる。そんなこんなで、またどこぞの御曹司を引っ掛けたらしく、ここ数日は引っ切り無しに電話をかけてきて、何とか一度日本に戻ってきて見合いをしろとうるさかった。


 倖は現在、新垣の会社の出向扱いで西ドイツに居た。欧州の販路を拡大するために、新会社を設立するらしく、その研究所に関する手伝いで駆り出されたのである。CEOの古い友人と言うことで、目こぼしされていたが、組織が大きくなってくると、社内からも彼女を突き上げる声は隠せなくなってきていた。


 実際、かつてのベンチャーキャピタル時代の実績もあるのだから、それなりのポストについてはどうか? と言う打診は何度もあった。自分の能力を買ってくれた、かなり良い話も沢山あった。でも、どうしても踏ん切りがつかなかった。


 かつて天王台元雄の墓の前で誓った思いは、時が経つにつれて薄れていった。彼との思い出は、元々ノートの中だけで、記憶の中には存在しない。顔だって、思い出されるのは藤木のものであり、考えても見れば、倖は彼の顔を見たことが一度もないのである……


 時が経って思い出が色あせていくと、段々と彼のことを思い出すこともなくなっていった。自分の研究にしたってそうだ。ノートの記述によれば、自分がかつて天使と呼ばれる存在だった、という確信があるからやってこれただけで、他にその研究が確かなものであるという確証はない。


 携帯の着信音がけたたましく鳴り出した。


「うるさいなあ……」


 どうせ母親だろうと見るまでも無くそれをぶん投げた。壁にガツンとぶつかって、床に落ちると、着信音は止まった。


 最近、いらいらすることが多くなった。


 ストレスが溜まるせいか、肌荒れが酷い。かさかさの肌にクリームを塗っていると、隠し切れない皺が目立ってきた。かつては、自分でも中々のものだと自賛できた美貌も、このままではドンドンと失われていき、やがて自分の女としての価値も無くなっていくのだろう。五月蝿い母親も、その内見合いの話ではなく、孫の話をしに電話をかけてくるようになるのだろう……


 倖は溜め息を吐くと首を振るった。


 何の成果もあがらないまま、時が過ぎるだけで、このところ弱気になっていた。


 この研究も、いつまで続ければいいのだろう。本当に自分は天使だったのだろうか……確証が欲しい。何でも良い。だけど、そんなものどこを探しても、おとぎばなしみたいなノートの中にしか存在しないのだ。


 もうやめたい……


 これは本心だった。心の底からそう思ってる。断言も出来る。


 だけど……どうしても踏ん切りがつかない。


 ピリリピリリと着信音が鳴り出した。また母親がかけてきたのだろう。このバイタリティには恐れ入る、そんなに娘を見合いさせたいのだろうか……


「まあ、見合いするだけなら……」


 考えても見れば、別にそれですぐ結婚するわけでもない。


 大体、自分の会ったこともない想い人は、もう死んでいるのだ……いつまで、それに殉じればいいのだろうか。


 結婚してたって研究は出来るだろうし、話を聞くだけなら……


 倖はまた溜め息を吐いた。


 乾いた笑いが漏れた。


「あー、ホント、なにやってんだろ、あたし……」


 自虐的な笑みを浮かべながら、彼女は床に落ちた携帯電話を拾った。着信を見ると、母親と表示されていた。これに出て、もうお見合いに応じてしまおうか。


 かつて、自分は神様に会ったことがある。それも二度もだ。でも、それも勘違いだったのかも知れない。そうじゃないのなら、もう一度出てきてはくれないだろうか。それだけで、自分は何もかもを信じられるのに……


 そんな他愛も無いことを考えながら、倖はしつこい母親に観念して、電話に出たのであった……


『あ、藤木? お父さんだけど』


 しかし、受話器から何故か聞いたことも無い男の声が聞こえてきて、首を捻ることとなった。


 なんだこいつは?


 携帯を耳から離して着信を確かめる。


 さっきまで、母親と表示されていたはずのそれが、今は文字化けして何が書いてあるか分からなくなっていた。


 もしかして、ぶん投げたときに壊れたのだろうか?


『ふむ。遣る瀬無いものだね、藤木君。例え、親子の仲であっても、無視はいけないよ、無視は。お父さん、子供の頃を思い出してノスタルジックになってしまう。あれは小学5年のときだった。黄昏時の金色に染まる教室の片隅で、当時好きだった女の子の縦笛をこっそりと拝借したお父さんはそれを尻に入れようと……』


 電話の相手はまだ間違いに気づかず、滔々と不謹慎な台詞を口走っていた。倖は呆れながら誰何(すいか)した。


「あんた誰よ」

『……おや?』


 すると、素っ頓狂な声を上げて、電話の主の声が途切れた。通話相手の名前をモニターででも確認しているのだろう。多分、間違い電話か何かだろうが、混信しているようなノイズも聞こえる。もっと技術的な何かだろうか。


 とにかく、よく分からない間違い電話の相手と、ベラベラと喋るような趣味は無い。中々返事の返ってこない相手など無視して、倖は適当に挨拶して電話を切ろうとして……


 ふと気づいた……


 ん? 藤木? お父さん?


『………………げえぇ~~~……あ、いや、これはこれは、大変失礼をばいたしました。私、家にかけているものとばかり思っておりまして。お忙しいところ、誠に申し訳ございませんでした。何卒、ご容赦を。それでは……』

「ちょ、ちょ、ちょっと待ちなさいっっっ!!」


 倖は咄嗟に叫んだ。


 殆んどただの直感だった。


 なんとなく、この男を逃してはいけないと、虫の知らせのようなものが告げていた。


 確か、あのノートにも藤木の父に関しての記述があったはずだ。今、手元に無いから確かめられないが……いったい、どんな内容だったか、思い出せ……


 けれども、記憶は曖昧だった。確かにノートは何度も読んだが、藤木の父親に関しては、直接二人に関係があった相手でもなかったし、いまいちどういう相手か分からなかったし、おまけに最近はノートを読み返すこともしないから、余計に分からなかった。


 でも、もしもこの男が藤木の父親を名乗ったあの男なら……


 何とかこの男を引き止めねば……しかし、なんと言って彼の気を引けばいい?


 そうだ、確か青い空だかなんだかが好きだったはずだ。そんなことを書いてあった。青い空ってなんだ? 白い雲じゃ駄目なのか。なんだかそれは違う気がする。中国に関係する何かだった気もするし、なんだっけ……


 そんなことをぐじぐじ考えながら、倖が二の句を告げずにあたふたしていたのだが、


『それで、私はいつまで待てばよろしいのでしょうか?』


 幸か不幸か、電話の相手は相当のんびり屋のようで、何食わぬ調子で呑気に返事を返してきたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

勝手にランキング参加してます ↓ぽちっとお一つ、よろしくお願いします

小説家になろう 勝手にランキング
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ