そして彼女は思い出した
立花倖が目を覚ますと、見知らぬ真っ白な部屋の中に居た。
立て付けのしっかりした重厚なベッドの上に寝かせられた彼女の傍らには、車椅子が置いてあり、壁に見慣れぬ計器類とナースコールのボタンがあるところを見ると、どうやら病院の中らしい。
清潔そうなカーテンが掛けられた窓から柔らかな日差しが入り、すぐ隣の簡易ベッドで眠っている末妹の顔を照らしていた。何があったんだろうか? と、その寝顔を覗き込もうと思ったら、激痛が走った。
全身が節々まで痛み、動かすのに苦労する。特に首が回らなかった。辛うじて動く目だけで、自分の体を確かめると、ギブスをはめられた足が吊るされているのが見えた。さっきから、なんだかボーっとするのは、もしかして痛み止めのせいだろうか。
なんとなく、のっぴきならない事態が起きたことだけは理解出来たが、もっと詳しい状況確認だけでもしたくて、ナースコールのボタンを押そうと四苦八苦していたら、妹が目を覚まして泣きついてきた。
どうやら車で事故ったらしい。
何も覚えていないと言うと、医者は事故のショックで記憶の混乱があるのだろうと言った。事故原因はどうやら居眠り運転で、ここ最近、あまり眠っていなかったのではないか? とも言われた。しかし、それすら身に覚えが無い。
何故か両腕に無数の切り傷があり、傷口の状態から事故とは関係ないらしく、遠まわしに、最近、精神的に滅入るような出来事でもなかったか? と聞かれた。まるで痛い女扱いだったが、交通事故を起こした手前、疑われても仕方ないだろう。ともあれ、こちらもまったく身に覚えがないので、全然知らないと言ってポカンと口を半開きにしていたら、何か診断書のようなものを熱心に書いてから、医者は出て行った。
末妹が涙ながらに自分の無事を喜んでくれたが、それよりも一年前の事件のせいで、ずっと引きこもっていた彼女が、ここで自分の世話を焼いてくれてることに驚いた。無理をしなくても良いと言ったのだが、
「お姉ちゃんが助けてくれなければ、私はまだずっとおかしなままだったから」
と、何か尊敬にも似た眼差しを向けられて、こそばゆい思いがした。
そうだった。彼女を助けたのは自分だ。6月に起きた殺人事件を解決し、妹を救い出したのは他ならぬ自分だ。
なのに、そう言われても他人事のようにしか思えないのは、これも事故の影響なのだろうか。悲しくも無いのに、涙がポロポロ流れてくるは、何故だろうか。
まるで痛い女のようだ。
その後、知り合いの刑事がやってきて、事故の調書を取られた。何しろ自分の免許証は、メイドインUSAであるから、元々優良ドライバーとは程遠かった。お陰様で、これで晴れて免停らしい。
怪我のこともあるし、車まで取り上げられたら学校に通うのは困難である。長期休暇の意向を告げると、上司は溜め息混じりに応じてくれた。
元々、妹の事件を調べるために、一時的に就いただけの仕事である。このまま、辞めてしまうのも悪くないかも知れない。病院のベッドの上に寝っ転がりながら、そんな風にニートまっしぐらなことを考えつつ、一週間の入院生活を終えて彼女は帰宅した。
全身の擦り傷や切り傷はともかく、首のむち打ちと足首の骨折は、まだまだ日常生活を送るには心もとなく、補助として末妹が暫く一緒に住んでくれることになった。
「お姉ちゃん、これ誰の?」
しかし、久しぶりに帰った自宅はどこか違和感があった。以前にも妹と一緒に住んでいた時期があるから、食器などには余分があったが、明らかに男物の、見覚えの無い衣類や食器がいくつか増えている。
なんだこれは? 立花倖は混乱した。ともあれ、変に勘ぐられるのも困るから、しどろもどろに言い訳し、代わりに事故当時の私物が警察署に保管されてるらしいから、自分の変わりに取ってきてくれと言ってお茶を濁した。
素直な末妹だからこれで済んでるが、次女だったら今頃何を言われてるか分かったものじゃない。根掘り葉掘り聞かれて辟易しているところだろう。しかも、その理由が分からないと来ている。
とりあえず、気味が悪いから、彼女が帰ってくるまでにそれらを片付けてしまおうと手に取ったのだが、何故かそれを捨てようという気にはなれなかった。
本当に、なんなんだろう……これは? 漠然とした思考の奥で、何かがぼやけて隠れてる。それは雲を掴むようなもので、手にしたと思ったら掻き消えてしまう。
うーん……と唸り声を上げて居たとき、家の電話のベルが鳴った。見れば留守電のランプがチカチカと点滅していた。自分が留守中に、何度かかかってきていたのだろうか? 痛む体をむち打って、彼女は電話の受話器を取った。
「あ、立花先生、いらっしゃいましたか……何度かご連絡差し上げたのですが。失礼とは思いましたが、娘の方から事情を聞きました。なにやら、大変だったそうで。退院おめでとうございます」
「えーっと……」
「失礼しました。私、新垣法律事務所の新垣と申しますが……」
言われてもわけが分からず首を捻……ろうとして、激痛が走った。涙目になりながら、思い出すのは、新垣といえば変態兄貴のことしかなく、こんな落ち着いた声は聞いたことが無い。
しかし、法律事務所や娘という単語でピンと来た。
「もしかして、新垣さんのお父様でしょうか?」
「……ええ、そうです。最近、娘ともども、息子がお世話になっているそうで、恐縮です。いや、しかし世間は狭いですね。まさか、先生が息子と知り合いだったとは……」
その口ぶりでは、まるで新垣の父親と自分が以前からの知りあいのようである。ちんぷんかんぷんだったが、埒が明かないのでそのまま話をあわせていると、
「それで、今日お電話したのは、先生の被後見人のことなのですが……」
「……は?」
「実は、先生が入院している最中、彼の容態が急変し、誠に残念なことですが……先日、お亡くなりになりました……」
…………は?
訳が分からないので、事故のせいで記憶が混乱していると言って一から説明を受けた。すると、どうやら自分は春ごろに、なにやら聞き覚えの無い少年の後見人になっていたらしい……
その少年は医学的にいわゆる植物人間状態で、生命維持に莫大な費用が必要なことから親戚から敬遠され、かなりシビアな状況に立たされていた。そこへ自分が颯爽と現れ、いきなり彼の後見人を買って出て、費用も全額面倒見ると言い出した。
自分のことを言われてるはずなのに、まるでピンとこない。倖はそんなボランティア精神の溢れた人間ではないし、その親戚だって胡散臭いと思っただろう。だが、元々、誰も面倒を見るのを嫌がっていたから、思いの外あっさりと彼女の主張は通った。
そして、前々から彼と付き合いのあった新垣の父が様々な手続きを行って、その少年は立花倖の被後見人になったのだそうだ。
少年の名は、天王台元雄と言った。
その名前を聞かされても、まだ何も思い出せなかった。なんだかわけの分からないまま、新垣の父に礼を言って電話を切り、彼女はすぐにネットを使って自分の預金口座を調べてみた。
すると、確かに毎月、その彼の生命維持にかかる費用が、彼女の口座から引き落とされていることが分かった。自分は結構、金銭に無頓着なところはあるが……それにしても、かなりの額である。
一体、これはなんなんだ……?
身に覚えのない腕の傷といい、家の様子といい、自分には何の特にもなりそうにない、このボランティアといい……
事故で記憶が混乱しているのだろうと医者は言った。しかし、これはいくらなんでも度を越してるだろう。
ソファに座ってうんうんと唸っていたら、やがて妹が帰ってきた。
彼女の労をねぎらって、警察署にあったという私物を受け取る。とは言っても、無事なのは当日自分が持ってでかけたカバンくらいのもので、後は殆んど事故のときに壊れてしまったようだった。
あれもこれも、高かったんだけどな……と、ぶつぶついいながらカバンを受け取る。中身の方は平気かな? と、開けてみたら、何冊もの大学ノートが出てきた。
そんなものを持って出た記憶はないが……なんだか懐かしい。
思えば、子供の頃から、大事なことは全て手書きでノートに書いていた。元は日記みたいなものだったが、それは大学に進学しても続けられ、気づけば研究ノートに変わっていた。今でも、隣のパソコンルームの本棚に、何冊も積み重なって置いてある。
何か、調べ物でもあって、それらの数冊を取って出かけたのだろうか? 軽い気持ちで手にとって、その中身を読んでみた。それは自分の予想とは違って、ごく最近の自分の筆跡で、自分のことが書かれていた……
「お姉ちゃん? ……大丈夫? お姉ちゃんっ!?」
そして彼女は思い出した。
「……平気……平気だから……ちょっと、気分が悪くて……」
正確には、思い出したわけじゃない。何が起きたのかを理解したといった方がいい。ただ、それを理解したとき……
彼女は記憶を取り戻したと言うよりは……
大切なものを失ったのだという、その気持ちを取り戻したのである。




