竹馬の友
彼女と出会ったのはおよそ10年前の夏休みのことである。
藤木は団地に住んでいる。総戸数1000を超える大規模団地である。しかし1キロばかり離れた場所にも団地がある。もちろん藤木の団地に勝るとも劣らない大規模団地であり、さらにその大規模団地のすぐ隣町にも、同じような大規模団地が連なっており、都市計画のけの字も感じさせない団地の林立地帯の片隅に、これまた高度経済成長を当てにして、無計画に作られた工場地帯が、ほぼ廃墟となって放置されていた。
今もって廃墟であるその工場地帯は、10年前ももちろん廃墟であり、草木もろくに生えない硬い地面と、ひび割れたコンクリートに囲まれた、公園と呼ぶことすら憚られるほど殺風景な子供の遊び場で、藤木はそいつと出会った。
この街に越してきて間もなく、まだ友達と呼べるような存在もいなかった藤木は、ある日、子供達の笑い声に導かれるかのように、その広場へとたどり着いた。
楽しげな子供達の姿に声をかけたくとも中々入っていけず、遠巻きに物欲しそうに眺めながら、壁の周りをうろうろすること数分。藤木は、ふと、同じように笑い声が絶えない広場に背をむけ、壁に向かってしゃがみこんだ、小さな背中を見つけたのであった。
一度気づいてしまったら、なんとなくその背中が自分みたいで放っておけず、勇気を出した幼い藤木が、その背中に声を掛けたことは自然の成り行きであったであろう。
「やあ、きみ、なにをしているんだい?」
との気さくな呼びかけに、振り返ったその顔は幼いながらも整った、はっと息を呑むようなものだった。紛うことなき美少女である。生まれてせいぜい数年であったが、今までこれほど整った顔をした子を見たことない。きょとんと見上げる瞳が美しすぎて、藤木はどぎまぎしながら二の句を探したが……
「おいこら、なにしてる」
それは、すぐさま胡乱なものに変わるのであった。
「バッタを作ってるに決まってるでしょ」
彼女はこともなげにそう言うと、これ以上ないほど満面に笑みを浮かべ、どうぞ自分の偉業を称えてくださいよと言わんばかりに、誇らしげに胸を張るのである。
バッタ? 作る? 何を言ってるのか、わけがわからない。
足元には大量の虫の羽が散乱していた。
見ればろくすっぽ草木も生えない痩せこけた空き地であるが、辛うじて生えた雑草に、異常繁殖したヨコバイが集っていた。彼女はそれを一匹ずつ捕らえては、ぷちぷちと羽だけをもぎ取って、羽のなくなった虫を元の場所に戻すという行為を一心不乱に続けていた。
思わず背筋がぞっとなる。唖然としていると、彼女は、そんなことも知らないの? と言わんばかりに、
「こうして、羽を取って戻すと……ほら、バッタになるでしょ?」
「いやいやいやいや、ならないよ? ならないよね?」
「なるよ」
「ならんて」
「なるもん」
「昆虫学会に喧嘩売るつもりかっ! 羽があろうが無かろうが、ヨコバイはヨコバイだっ!」
「よこばえ? え? あんた何言ってるの、ハエじゃないのよ?」
「なにその心底意外ですって顔。ハエも見たこと無いのかよって顔。よ・こ・ば・い。ヨコバイだよ!」
「……バイ?」
「この年で両刀遣いのレッテル貼らないで!? もう良いからっ! そんな可哀相なことするんじゃないよっ」
「でも、バッタになるんだよ?」
「ならんっちゅーに……こいつ、一体どうすりゃいいんだ。つーか、そもそもバッタを見たことあるのか、おまえは」
「あるからこうしてバッタにしてるんじゃん」
「があっ!」
かみ合わない会話を続けて良い感じに脳みそが温まってきたところだった。気づくと、そんな藤木たちを、3人の少年たちが取り囲むようにして立っていた。
「あー! うん子が男を連れ込んでるぜー」
「ぎゃははっ! うん子のくせに生意気だー」
「うん子、マジうんこ」
その直球なあだ名が彼女のものであることは、1秒とかからず腑に落ちた。
(こいつ……いじめられっ子だったのか)
よくよく考えてもみれば、広場で遊んでいる子供達から、離れて独りでいるようなやつである。よっぽどの変人か、いじめられっ子であっておかしくない。そしてこの少女がその両方であることも間違いない。
いじめられるよりはいじめようとは藤木家の家訓である。たった今、そう決めた。
藤木は自身の致命的なミスを呪いつつ、この状況をいかにして脱するかを考え始めた。因みに、彼女を助けようなどという正義感は、微塵もなかった。
そして、じりじりとすり足で立ち位置を調整しつつ、手のひら返しのタイミングを見計らっているとき、
「うぅぅううぃひいぃぃいいひひひぃひぃ」
突然、信じがたいほど耳障りな哄笑が鼓膜を振るわせた。
「うきょきょっうきょっきょきょきょっきょうきょきょ」
これが本当に人間から発した音なのかと、疑わしくも耳障りな振動に、藤木をはじめとするその場にいた子供達全員が後ずさる。
少女は江頭2時50分もかくやと言わんばかりに邪悪な笑みを浮かべると、所持していたコンビニのレジ袋から何やらを取り出し、一切の躊躇も見せずにそれをリーダー格の男の子に投げつけた。
すぱこーーーーーん!!
と、鹿威しのような清涼な音が木霊し、男の子は鼻血を噴き出しぶっ倒れた。
「うんこうんこ言うおまえらがうんこじゃああーー!! うひぃ~ぃひっひぃうひぃ~ひぃ~ひぃー!!」
少女は更に袋から取り出した何やらを、取り巻きの少年達にも投げつけ怯ませた。
そして人数差などものともせず、はじめに倒れた少年に馬乗りに飛び掛り、実に手馴れた動きで顔面を殴打した。機先を制された少年が、何とか抵抗しようと腕を振り上げたが、問答無用に下腹部を殴りつけられ、生きる気力を根こそぎ奪われるのであった。
「あああ゛ああ゛あ゛……」
力ない声が木霊する。
こんな圧倒的な暴力は見たこと無い……
あまりの出来事にドン引きしていたが、藤木ははっと我に返り、
「おおお、おいおいおい! もうやめろ! やめてやれ! DNAに傷がつく!」
馬乗りになってノリノリな彼女を羽交い絞めにして立たせると、
「お……おがあちゃぁあ゛あ゛~~~~ん!!!」
自由になった少年は完全に戦意を喪失しており、涙と鼻血でぐちゃぐちゃになった顔をいっそう歪ませて、泣き叫びながら逃げていった。
「お、おぼえてろよ~!」「これで勝ったと思うなよ~!」
取り巻きの少年らも、捨て台詞を残し空き地を後にする。
まるで悪役のような捨て台詞だったが、こっちの方がずっと悪い場合はどう返したら良いのであろう。彼らになんの言葉もかけることも出来ず、藤木は呆然とその後姿を見送った。
しかし、ハッと我に返ると、藤木は自分が取り残されたことに気がついた。次に会ったら絶対気まずい思いをするであろうに、何故、一緒になって逃げなかったのだろうか……
そんな藤木の後悔をよそに、少女はふんふんっ! と鼻息荒く、羽交い絞めする彼を振りほどき、これまたはっとするような美しい顔に満面の笑みを浮かべて、
「勝ったどー!」
嬉しそうに宣言するのである。
もはや見惚れるよりは、背筋がシャンとなる心境で、藤木は彼女の前で気をつけした。
いじめられるよりはいじめようとは藤木家の家訓である。今なら土下座して靴をペロペロしたって構わない。
藤木は揉み手しながら近づいて、素早い動作で彼女の顔についた返り血をハンカチで拭うと、
「大変お強いのですね、げへ、げへへ」
と平身低頭ゲスい笑顔を振りまきつつ、彼女がぶん投げていた何やらボール状のものを回収しはじめるのであった。
少女は藤木のそんな姿勢に、ご満悦の様子であった。
相手がアホでよかった……この窮地をどうにか脱したら、もうこの広場には近づかないようにしよう……藤木はそう心に決めながら、ゲスい笑顔をふりまきつつ、空き地に散らばったボールを集めて回った。
しかし、はて? これは一体なんだろう。
それは奇妙な物体だった。そのボールはビニール製の何かであることは分かったが、お世辞にも綺麗とは呼べそうもないマスタード色と、歪な形状から判断するに、おそらく手作りの球状の何かであることは分かったが、それ以上の判別が付け難い。
普通のゴムボールとは違い、かなり硬かったが、重さは見た目ほどはなく、当たったところで、然程痛くはないだろう。鼻血の彼は打ち所が悪かったに違いない。
投げられた球は3つ、それぞれ1・4・7の数字が書かれていた。
スジか……そんなことを思いながら、球を彼女に返還しつつ、分からないものは仕方ないので、
「これ、なんですか?」
と藤木は聞いてみた。
「うんこ爆弾じゃ」
「はあ?」
すると非常にシンプルな言葉が帰ってきた。
うんこ? 爆弾? カラー的にはうんこに見えなくもないが……
しかし形といい、硬さといい、大きさといい、こんなうんこをしたら肛門が破裂すること請け合いである。藤木は4の数字の入ったそれを指でなぞってみた。表面も思った以上にざらざらしており、とっくりと眺めてみれば、どうやらこれはセロハンテープをぐるぐる巻きしているように見受けられた。
そんな風に、謎の物体をためつすがめつ眺めていると、
「それは、40グラムのうんこをラップに包み、その周りをセロテープが芯になるまで、グルグルグルグルと巻きつけたもの、四糞球」
すぱこーーーーーん!!
と、鹿威しのような清涼な音が木霊し、少女は鼻血を噴き出しぶっ倒れた。
「うわ! うわ! うわわっ! うわわわわああああああ~~~~!!!」
藤木は己の所業を省みず、全速力で逃げ出した。
自分はとんでもないものに声を掛けてしまった。
さほど長い人生ではないが、人生でこれほどの恐怖を味わった記憶などかつて無い。
涙で滲む視界をこじ開けて、藤木は必死に駆け抜けた。
ただただ恐怖に慄いて、後ろを振り返りつつ猛スピードで家路を辿った。酸欠の脳みそは良い感じに沸騰し、発汗が背筋を伝い、全身を痺れさせる。
頭がどうにかなりそうだ。
さっきから喉が痛いほどガラガラだと思ったら、自分が悲鳴を上げているからだった。
息も絶え絶え家に飛び込んできた藤木が、一目散に号泣と言うより絶叫しながら泣きついてきたので、当時専業主婦だった母親は度肝を抜かれた。
一体何があったのかと理由を問うが、うん子マジうんこだの、うんこ爆弾は七つあるだのと、一向に要領を得ない。果たして、
「あんた、まさかイジメに遭ってるんじゃ?」
と最悪の事態を想起するが、
「それはないわ」
と、突如泣き止み表情を無くした息子を見て、母はそれ以上怖くて何も聞けなくなった。目が死んでいた。
翌日、不安を隠そうとしない母に見送られて、必要以上にハイテンションスマイルを振りまきながら藤木は家を出た。
昨日は恥ずかしいほど狼狽したが、これ以上親に心配をかけてはいけない。
健気にも幼心にそう決意しつつ、しかし昨日の広場にだけは絶対近づくまいと心に決めて、彼は玄関の扉を開くであった。
すると何の偶然か、はたまた何の因果であるのだろうか、扉を開いてまっ正面にある隣家のドアも同時に開いたのである。
「あ……バイ?」
「ノーマルです」
少女の名前は馳川小町――またの名を竹馬の友と言った。