ガサ入れだあっ!
フライパンでカリカリに焼けたベーコンが香ばしい香りを漂わせていた。そこに卵を割りいれたらジュッと音がして、キッチンにパチパチとした音とともに湯気が立ち込めた。藤木はエプロンのストップウォッチのボタンをピッと押すと、蓋をして先に洗っておいたレタスをちぎった。
コポコポとコーヒーサイフォンが泡を立て始める。下のフラスコで熱せられたそれは、やがて細い管を通って、ピューッと上のビーカーへと上がっていく。生活臭のあまり感じられない立花倖のマンションで、どうしてこれだけ本格的なのかと聞いてみたら、何か実験をしているようで見てて飽きないからとか言っていた。そのくせ、藤木が見つけたときは埃を被っており、動かす前に最初にしなくちゃいけないことは、まずそれを綺麗に磨くことだった。
対流でコーヒー豆が踊る姿をちらちら眺めつつ、トマトをスライスしていたら、トースターがチンと音を立ててトーストを吐き出した。ストップウォッチがピピピと鳴り、フライ返しでベーコンエッグを皿に並べていたら、丁度サイフォンの火が消えて、やがて下のフラスコが冷え、コーヒーが下りてくる。それが終わる頃には、サラダの盛り付けも終わって、二人分の朝食の完成である。
なんでこんなに手際が良くなってしまったのだろうか……そんなに経験はなかったはずだが、藤木は苦も無く家事を一通りこなせた。ここのところの母親の飼育で培われてしまった技なのか……溜め息と同時に、藤木はブルブルと頭をふるった。母親の顔を思い出すと、胃の中がチクチクと痛んだ。彼女のことを考えるのは、少なくとも、もう暫く時間が必要だ。
リビングのテーブルに朝食を並べていたら、ソファーに座ってテレビを見ていた倖がちらちらと藤木の方を気にしながら、「あー、キムタクかっこいいなあ……超かっこいいなー……」とか、「室伏兄貴筋肉いいなあー……超ムキムキでかっこいいなー……」などと棒読みでアピールしてくるのでイラっとした。
一緒に暮らし始めたころは、お互いに会話が続かなくて手持ち無沙汰になることが多く、それでテレビやビデオばかりを見ていたのだが……
藤木の趣味の野球観戦をしているときだった。倖は巨人ファンの藤木に気を使ってか、やたらと巨人選手のことを格好良い格好良いと褒めちぎるものだから、段々とムカムカしてきて、つい隣に座っていた倖の肩を強引に抱き寄せてしまったことがあった。姫は大層それがお気に入りらしい。以来、興味もないくせに、ワイドショーの芸能情報ばっかり見ている。
朝食を並べ終えると、藤木はまだソファでこっちをチラ見している倖の隣に座った。そして平静を装いながら鼻の下を伸ばしてる倖の横から顔を近づけて、その耳たぶをがぶりとやった。
「ぎゃあ! いったぁ~! 何すんのさっ!」
「いいからさっさと飯食え馬鹿。遅刻すんぞっ!」
「ちぇっ……藤木のケチ」
倖はぶつくさいいながらテーブルにつくと、もそもそとトーストを齧った。
藤木が倖のマンションに転がり込んでから2週間が過ぎた。
その間、藤木は倖のマンションに引きこもって、学校には行っていなかった。
制服も無ければカバンも教科書も無い。洋服だって倖に買ってもらったものしかない。母親に忘れられたあの日から、自分が一体どんな存在になってしまったのか、考えるのが怖かった。
連休が明けて、職場に向かう彼女は何も言わなかった。多分、藤木の気持ちを慮ってのことだろう。ただ、帰ってきてからの様子を見て思ったが、藤木の学籍はもう存在しないのではなかろうか。倖は時折帰りが遅く、興信所などを使って何かを調べてる様子だった。
幽体離脱に関しては、あれ以来、あまりしなくなった。体から勝手に出て行くようなことが、全くと言っていいほどなくなったのだ。それが倖との関係に起因することなのか分からないが、もしも治るのであればそれにこしたことないのだし、良かったと思っておいたほうが無難であろう。
代わりに藤木はよく夢を見るようになった。
夜眠ると、大概、夢の中で藤木は見知らぬ誰かになって、見知らぬ土地で何か厄介ごとに巻き込まれた誰かと一緒に居るのだ。それは誘拐事件の犯人に憑依してしまったときと似たような状況で、藤木が気まぐれを起こせば相手が助かるような……そんな場面ばかりであった。
神様ですかにゃ? ……と言う、天使の最後の言葉を思い出す。確かに、まるで神様みたいだった。藤木の決断一つで状況が一変する。すると相手が誉めそやす。そんな自分に気持ちのいい場面ばかりが、次々と訪れるのである。時に、悪者を懲らしめたり、時に、プロポーズをしようと悩む青年を助けたり、時に、見知らぬ老婆の大往生を看取ったり。登場人物はみんな、藤木に感謝こそすれ、悪いようには言ってこない。
もしかして本当に夢なんじゃなかろうかと思うくらい、夢なんだか現実なんだか良く分からない曖昧な夢が続いたあとで、しかしまた別の出来事が起きた。知り合いに憑依したのだ。
夢の中で藤木は、泣いている小さな子供に出くわした。取りあえず、泣き止むように言おうと思うのだが、体が重くて上手く動かない。どうしたものかとキョロキョロと辺りを見回してみたら、鏡に映った自分の姿を見てギョッとした。
藤木は、立花倖の母親になっていた。
すると、目の前で泣いているのは倖であろうか……?
思わず、抱きしめて頭をなでなでしたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて、彼は倖に何があったのかを聞いてみた。
すると、どうやら母親が病気でぐったりとなって死に掛けているらしい。つまり、今の藤木のことである。もう大丈夫なのか? と問われたので、大丈夫と返し、すぐに藤木は救急車を手配した。
さっきから体が重いと思ったら、そういうわけである。言われて見れば、確かに死にそうなくらい体が不調だった。朦朧とする意識の中で、倖と色々話したが、何を喋ったかは殆んど覚えていない。ただ、救急隊員が来るから玄関を開けるように言って、じっと苦しみに耐えていたことだけは覚えている。
辛いな……苦しいな……と懸命に耐えていたら、やがてふっと体が軽くなって……気がつけば目の前に、大人になった現在の倖の顔があった。
「……あんた、本当に呼吸も心肺も停止してるのね……」
死んだように眠っていると思ったら、本当に死んだようになっていたので、心配でずっと見ていたらしい。さっきやりそびれたので、起き上がって彼女の頭をなでてみたら、
「なによ。本当に心配したんだからね?」
と彼女は拗ねるように言ったが、手をどけるような真似はしなかった。
やがて時が過ぎ、彼女の帰りを待って、一日中家でぼんやりしているわけにもいかず、藤木は暫くすると主夫化した。
ある日、一日を使って家中をピカピカに磨き上げたら、帰って来た彼女が喜んでくれた。それが嬉しくて、他の家事も率先してやったのだが、でも洗濯をするのは凄く嫌がった。下着とかを見られるのが嫌らしい。
そういうものかな? と思って納得したが、しかし掃除だって床やトイレに陰毛とか落ちてるものだぞ? そんな気にするものでもないのに……その昔、幼馴染の部屋でマン毛を探し出入り禁止になった男の話しでも語ってやろうかと思ったところで、ぐっと堪えた。何しろ、学校に行かないと一日が長い。仕事をとられたら困るのだ。
その点、料理の方は何を作っても喜んでくれるのでやりがいがあった。彼女の顔を思い浮かべながら、献立を考えるのは楽しいし、もっと良い食材を求めて遠くのスーパーに行くのも全然苦にならない。
尤も材料費は彼女のカードで支払うのだし、あまり高いものは選べない。片栗粉マイスターではないが、スーパーの生鮮食品売り場でじっくりと食材を吟味しているときにふと思った。全力で寄生しているなあと。あれはその場しのぎの口から出任せだったのだが、人間先のことは分からないものだな……と思うと、ちょっと笑えてきた。
彼女のためにいそいそと買い物に出かける姿を、近所の人に見られたら困るかなと、世間体が気になったが、それも問題なかったらしい。年が離れてるので、そもそも恋人同士には見えないようだった。
常駐の管理人には浪人生の弟と言ってあり、それだけで誤魔化せてしまったらしかった。それはそれで癪である。よく二人でいちゃついている場面も目撃されたが、仲の良い姉弟なんだねと、管理人室の前を通るたびに、にこやかに声を掛けられる始末だった。
そして、その日も夕飯の買い物から帰ると管理人から声をかけられ、荷物が届いていることを告げられた。倖は普段、昼間は殆んど家に居ないから、よく預かってもらっていたらしかった。大概、送られてくるのはよく分からないパソコンのパーツだった。
彼女の家には、それはそれは大層なパソコンルームがあって、春夏秋冬四季を問わず、一年中クーラーがガンガンにかけられていた。一度、掃除しようとチャレンジしたのだが、いつ発火してもおかしくないタコ足配線と、夏でも冬のように寒い部屋の中では風邪をひくからと止められた……いや、寧ろ掃除は急務じゃないのか、それ?
一体、これで何をやってるのか? と聞いてみたら、
「SETI@homeって知ってる?」
と逆に問われた。もちろん知ってるわけがない。
「プエルトリコの電子天文台から送られてくる観測データを小さく切り分けて、それを世界中のパソコンを使って分析しようって試みのことよ。宇宙に、あたしたち以外の生命の痕跡がないか? ってのを探すのがSETIの目的だけど……この方法が中々ふるっていて、解析プログラムをスクリーンセイバーに置き換えたの。パソコンって、ずっと目の前に人が座ってるってものでもないでしょう? ちょっと休憩で席を離れたり、ネトゲで寝落ちしちゃったり。そうやって、パソコンは起動してるけど動いてない時間帯があるから、その時間を利用しましょうって、スクリーンセイバーを弄ってみたわけ」
「なるほど、それは賢い」
「これは、その重力波検出装置版のモニタリングシステムよ。一応、稼動してるわ」
なんか、凄そうなことだけが伝わってくるが、さっぱり分からない。
「重力波って言うと……」
「多分、あなたの想像通り。多次元からの干渉の痕跡を探してるわけ。やってることは太平洋で砂金を探してるようなものなんだけどね」
ふと閃いて、藤木は聞いてみた。
「それじゃ、俺がこの装置の前で幽体離脱してみたら、なんか分かるんじゃねえの?」
「……そうかも知れないわね。いつかやってみたいものだわ」
「今じゃ駄目なのか?」
「検出器はアメリカにあるのよ? これはそれの観測装置ってだけ」
「あー、なるほど。それじゃ仕方ないな……」
「いつか行ってみたいわね、一緒に……冬休みにでも、行ってみる?」
正直、旅費は彼女持ちだろうし気が引けたが、
「もしそれがユッキーの役に立つってんなら」
「決まりね」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「クリスマスの予約しなきゃね……まず、ロスでディズニー行って、新年はニューヨークで過ごしましょう。帰りは東回りでヨーロッパも見てきたいし……いえ、ハワイも捨て難いわね……」
「いや、目的がずれてるから」
それに、学年主任が絶対許してくれないぞ、それ。
その週末、倖がキッチンに立っていた。
このところ、ずっと藤木が作っていたので、その姿に触発されたらしい。「今日はあたしがご馳走してあげるわ」と言いながら、これでもかと言わんばかりに積まれた高級食材の山を前にして、藤木はあんぐりと口を開けた。アイアンシェフが蘇ってきてもおかしくない。
お金の掛け方に疑問はあったが、まあ、これだけの物があれば、よほどの下手糞でもない限り、かなりの料理が作れるだろう。期待しながら、カウンターでキッチンを見守っていたのだが……彼女はそのよほどであるらしかった。
フランベしてるわけでもないのに立ち上がる炎、グツグツと煮えたぎる味噌汁、キッチンが白く煙って、換気扇がフル稼働しているのにも関わらず、ずっと焦げた臭いが充満している。
包丁を使いながら、「いてっ……」という3回目の悲鳴を上げたところで、藤木はたまらずキッチンに飛び込んだ。
「あんた、どんだけ不器用なんだよ」
「……ちぇっ。出来ると思ったんだけどなあ」
「こう言うのは、日々の積み重ねが大事なの。ほら、絆創膏貼ってやるから、見してみ」
「えー……」
と嫌がる彼女の手を強引に取ると……
「なにこれ……」
指には既に夥しい切り傷がついていて、思わず背筋が凍りついた。
「……練習したのよ。家庭科室で、生徒にも、先生にも付き合ってもらって……でも、最終的に料理は愛情よって、太鼓判押されたわよ……ちくしょうっ!」
倖は藤木につかまれた腕を引き抜くと、ふて腐れたようにパクッと指をくわえた。
彼女から流れた血で、その唇が朱色に染まって、藤木はなんだかそれに吸い込まれるかのように、フラフラと顔を近づけた。倖は始めきょとんとしていたが、何かを感じ取ったかのように、スポッと指を引き抜くと、上気して潤んだ瞳で藤木を見上げた。
そしてその二人の視線が交差して、辿り着きそうになったとき。
ピンポピンポピンポーーーン!!
と、来客を告げるインターホンの音が鳴り響いて、二人は同時に後ろを振り返った。
うわ、今何しようとしたんだ……心臓がバクバクなっていた。多分、顔は真っ赤である。彼女もきっとそうだろうなと思って、振り返ろうとしたとき、
ピンポンピンポンピポピポピポピポピポピーーーーーン!!!
と、しつこいくらいインターホンのベルが鳴り出した。
「誰よ……しつこいわね……」
これで新聞勧誘とかだったらどうしてくれよう……すりこぎ棒を片手にインターホンのモニターを覗いてみたら……
「げぇ~! 愛ぃぃぃ~~!?」
オートロックの前で、立花愛が呼び鈴を連打していた。
「はわわわわっ! 藤木っ! 隠れてっ! ガサ入れだあっ!」
「え? マジ? ……つか、やっぱ俺たちの関係って内緒なの?」
「だってだって!」
いや、つい口を突いて出てしまったが、理解はしている。付き合ってるだけならともかく、同棲してるとばれると、一大事である。倖は一応良識のある大人の女性である。世間体を考えて、ここは自分がぐっと堪えねば……
「絶対、あの子からかうもん! めっちゃ弄るよ!? すごい弄るよ!? ことあるごとにニヤニヤしながらおちょくってくるだろうし、きっと毎週ストレス発散にくるわよ!?」
「……あ、はい。隠れます。いま隠れます」
彼女の妹のあまりの低評価にクラクラしながらも、さもありなんと思いながらクローゼットにでも隠れようと背を向けたら、くいっと洋服の裾をつかまれた。
「んっ!」
なんだろう? と振り返ると、倖がひょっとこ見たいに唇を突き出して立っていた。
「んんっ!!」
「いや、んんって……なにやってんだよ、あんた」
「……だって、邪魔されたけど、よく考えてもみたら、初めてなのよね。せっかく藤木がその気になってくれたのに、今やっとかないと、絶対後悔するもん」
「ええー……ムードもへったくれもねえな」
「んっ!」
倖が唇を突き出している。ピンポンピンポンと、頭が痛くなるくらい、しつこくドアベルが鳴っている。こんな中で、ホントにやるのか?
「……早くしてよ、あまり待たせると、愛が鍵使って入ってくるわ」
って、鍵持ってるのかよ。それじゃ仕方ないよな……小鳥のキッスでいいのかしら? などと思いつつ、倖の肩に手をやって、ドキドキしながらぐっと引き寄せようとしたら、
「もう、入ってるわよ……」
と、すぐ横から低い声が聞こえて、二人して飛び上がった。
うひゃあ! と叫んで、二人抱き合うようにして声の方を向いてみたら、そこには鬼の形相をしつつも、ちょっとへそを曲げた子供みたいな顔をした、立花倖の母親が立っているのであった。
「……二人とも、そこに座りなさい」
ソファに座り、足を組んだ母親が藤木を睨みつけるようにして言った。その背後には、憎たらしい顔をした愛がニヤニヤとしながら立っていた。
二人は言われたとおりに床に正座した。
この角度は見えそうである……藤木の体が段々と斜めに傾いてくると、倖が思いっきりどついてきた。痛い。
母親はコホンと咳払いすると、組んでいた足を閉じて居住まいを正した。
「一体、これはどういうことか、説明して頂戴」
「母さんに話すことなんか何もないわよ……ふんっ!」
「なんですってー!」
喧嘩腰の倖に変わって、藤木が仲裁に入った。
「わー、やめてやめて! 争わないで!? えーっと、実はその、ちょっとやんごとない理由があって、立花先生にお世話になっておりまして……実は俺はインドの富豪の落胤でダイヤモンドプリンセスと呼ばれていて……」
「幼稚園児でも分かるような下手な嘘つかないっ!」
あ、はい。すみません……それにしても、どうしてバレたのだろうか……倖は実家と疎遠で、こっちから接触しない限りはバレないと思っていたのに……
立花愛がにこにこしながら教えてくれた。
「こないだ姉さんが遊びに来て、母さんにお化粧教えてぇ~とか、甘ったれたこと抜かしてたから、ピンと来たんだ。これは男のスメルがする……」
おまえのせいかよ……倖を睨んだら、明後日のほうを向いて吹けない口笛を吹いていた。因みに、お母さんは普通に喜んでただけで、気づいてなかったようである。立花ァァ!
「お母さんは、反対反対反対! 藤木なんて野獣は反対よ!」
「なによ、あたしの勝手でしょう。口を出さないで頂戴」
「見たでしょう? さっきだって隙あらばパンツを覗こうとするこの態度! お母さん、この年で妊娠したくないもん!」
あ、はい。すみません……つい出来心でやっちまいました。あと、うちの母さんはこの年で妊娠しました。本当にすみません。
「藤木と倖は付き合ってるの!? 付き合ってるだけならともかく、同棲してるの!? お母さん、そんなの許せないわ。あなた、嫁入り前の娘なのよ。万が一があったらどうするのよ」
「いやあ、藤木君が相手だから、きっともう手遅れだよ」
と、愛が要らん茶々を入れた。こいつとはいつか決着をつけねばなるまい。
藤木はガバリと土下座した。
「黙っていたことは、すみませんっ! でも、決してお嬢さんを傷つけるようなことはしていませんので、どうか安心してください」
「そんなの信じられないもん。藤木、あたしのことも犯すとか言ってたじゃん」
「いや、あれはその……照れ隠しで……実は、中でモニタされてるのも気づいてました。ほら、インターホン押して受話器を取ると、外のランプが赤から緑に変わるでしょう?」
「……そうなの?」
と、母親が愛に訊ねた。もちろん、はったりだ。目配せすると、愛は仕方ないなあと言った表情で頷いた。
「実は……あの日、呼ばれたときも。その前のお見合いの席でも。俺は倖さんのことを、それほど好きだと思ってませんでした。倖さんと結婚したいと言ったあれは、その場しのぎの口から出任せで、お見合いをぶち壊せればそれでいいって、それしか考えてませんでした。だから、後日呼び出された時には、どうしたらいいのか分からなくて……つい、わざと嫌われるような振る舞いをしてしまったんです。
でもそれからも縁があって、どんどん彼女のことを好きになっていって。えーっと、その……倖さんに好きだって言ってもらえて。そうしたら、もう気持ちが抑えきれなくなったんです。だから、あの日言った言葉は、確かにその場しのぎだったかも知れないけど……今では紛れもない本心なんです。
お母さんには何度も何度もご迷惑をおかけしましたが。俺は今度こそ本当に倖さんのことが好きだっていえます。断言します。だから、どうか俺たちのことを許してください。お願いしますっ」
そうして藤木が地面に頭をこすり付けると、母親はうーんと唸りながら言った。
「倖ちゃんはそれでいいの?」
「……え?」
倖はにやついていた。
「聞くまでも無かったわね……」
そう言うと、母親ははぁーっと溜め息を吐いた。
「藤木君が倖ちゃんのこと好きって言ってくれたときは、本当に嬉しかったのよ。だってこの通りの子でしょう? きっと男の人とは縁がないんだろうなって思って……せっかく可愛く産んであげたのに……それもさ、相手が藤木君みたいな、ある意味可愛い男の子だったから、母さんちょっと舞い上がっちゃったんだけどさ。それが裏切られたって思って、きぃぃーってなっちゃんだけどさ」
言ってから、ポリポリと自分の頬を引っかいた。その仕草がやけに倖に似ていて、流石に親子なんだなと、藤木は思った。
「でも、考えても見れば、藤木君のほうこそ保護される年齢なのよね。倖ちゃん、その点はあなたがしっかりしないといけないのよ。よく分かってる?」
「……え? あ、うん」
突然、話をふられた倖がふんわりした返事を返すと、母親は改めて深い深い溜め息を吐くのであった。
そして、ソファからよいしょと降りると、藤木の前にすっと正座して居住まいを正し、彼の手をギュッと握ってこう言った。
「藤木君。これ、この通りの子なんだけど……もしも何かあったら、あたしがちゃんと責任を取らせるから。だから、この子のこと……末永く可愛がってくれる?」
じっと確かめるかのような母親の瞳が、藤木の瞳の奥の奥を捕らえていた。流石、元女優と言うべきか、もの凄い迫力である。いつもの調子ならこんな綺麗な人に手を握られて、多分どぎまぎするだけだったろうに、その時の藤木は不思議と自然に言葉が出た。
「はい。ずっと一緒に暮らしていきたいです」
「そ。じゃ、お母さん、もう何も言わないわ」
怒られると思っていたのだろうか、倖が目をぱちくりさせてそれを見ていた。思えば、この母親も、相当若い頃に彼女のことを産んだのだから、それはもう、ものすごい紆余曲折があったのだろう。ある意味、倖よりもずっと肝が据わっているのかも知れない。
とは言え、
「……それで、一体この子のどこが好きになったの? ねえねえ? どの辺が好きなの?」
「私もそれが聞きたいなあ」
一段落したら、聞きづらいことをニヤニヤしながら聞いてきた。もう何も言わないんじゃなかったのか?
ギャルみたいな母子に迫られて、助けてくれと倖に秋波を送ったら、彼女は見るからに顔を真っ赤にしてて、まるで役に立ちそうになかった。
どこまで行ったの? キスくらいしたの? の言葉に、しどろもどろに答えながら、藤木は照れ隠しに料理を再開しようとしていた倖を追い出してキッチンに立った。立花家、厨房に入るを禁ずである。
どこまで行ったも何も無い。
倖のマンションに転がりこんでから二週間……一切、手を出していない。セックスはおろか、キスもしないし、甘い言葉も囁かない……
このままでは彼女に嫌われる。母に告げた言葉も嘘になってしまう。そんなのは絶対に嫌だから、なんとかしなければならない。だけど藤木は手を出せない。
倖とずっと一緒に居たいと思ったのは本当だ。藤木はまだ若い。だからまだ早いと言われるかも知れないが、もしも許されるなら、彼女と結婚したいとさえ思っている。あの夏の日のお見合い会場で言った言葉が、本当の本当になってしまったのだ。
しかし、自分は一体何者なのか……
これから先、どうなってしまうのか……
それが分からないのに、おいそれと彼女に手を出すなんてことが、彼には出来なかったのだ。
キッチンのカウンター越しに、立花親子の質問攻めが続く。冷や汗をかきながら、藤木はそれに答えていた。
でも頭の中で考えていたのは、もっと別のことだった。この問題の根本を解決するには、一体何から手をつければいいのか……
「いてっ!」
包丁が指先を掠めて、血が滲んだ。
ジンジンと痛む指先をくわえ、ちゅーちゅーとそれを啜りながら……藤木は自分の幼馴染の顔を思い出していた。
七条寺駅、北口ターミナルにバスが停まった。成美高校発、七条寺駅北口ターミナル行き。その先頭の出口から、次々と同じ制服が吐き出されてくる。
そのバスが来るたびに、じっと誰かを探すように見つめる少年の姿は目立っていた。変質者なのか、それともどこの学校の生徒か知らないが、成美の生徒に告白でもするのだろうか。
やがて、バスから一人の女生徒が降りてくると、目的の人物を見つけたのか、彼は小走りに駆け寄るように、その生徒の前に立ちはだかった。
「小町っ!」
対して女生徒は眉を顰めて言うのである。
「な、何よ、突然!? あんた、誰? ……呼び捨てにされる覚えはないわね」
その言葉を聞いて、女生徒を取り巻く学生たちが、警戒の目つきに変わる。
もしかして……その可能性は考えていた。でも、
『もし、おかしなことになっても……どうせ、あたしが居るわよ。どうせね』
……いつかの彼女の声が頭の中で木霊する。その一縷の望みにかけていた。
360度敵意しかない視線の中で、藤木はごくりと唾を飲みこんだ。でも、ここで踏ん張らねば、きっともう天使のしっぽも掴めやしないだろう。
彼はグッと唇を噛みしめると、避けて通ろうとした小町の進路を再度塞いだのであった。