分速12メートル
大遅刻を散々謝り倒して、どうにか落ち着いたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。元々ナイター営業のある遊園地であるから、これから入場したところで問題は無かったが、藤木を待ってる間にすっかりくたびれてしまったのか、新垣も倖も元気が無い。倦怠感の漂う中、プレッシャーを感じた藤木は、必要以上に明るく振舞うはめになった。
しかし改めて面子を見返してみて思ったが、こいつら一体どんな会話をしてたのだろうか……いや、そもそも会話が成立するのか? 多分、白木が一方的に話しかけてくるのを、ああとかうんとか新垣が気の無い返事で返すなか、黙々と立花倖がスマホを弄ってるとか、そんな光景しか思い浮かばない。
実際、来て早々泣きを入れた倖の顔色は真っ青で、思い返せば催促の電話も、最後の方は彼女ばかりかけてきた記憶がある。後で土下座でもなんでもして謝ろう。
ともあれ、全員揃ったのでそれじゃ早速入園しましょうと新垣を促すと、彼は緊張してるのかやたらと小声で、「これからどうしたらいいのか? 乗り物など何から乗るのが普通なのか?」と訊ねてくる。
そんなこと言われたって、こっちだって遊園地デートなんざやったこともない。だから殆んど行き当たりばったりだった。だが、勝算はあった。
「ま、気楽に行きましょう。なんか今、カップル向けのイベントやってるらしくって、ほら、あそこ」
と指差せば、入場ゲートのすぐ脇に、ラブエクスプレスなる看板が立てられ、派手なコスプレを着た係員がにこにこと愛想を振りまいていた。
何もしなけりゃ集客に影響が出るのだから、大抵、この手の遊園地は週末や連休などに合わせて、イベントを打ってくるものである。ならば、あとは彼らのプランにのって、アトラクションを楽しめばいいのだ。
なるほど、そういうものかと感心する新垣と連れ立って受付に行ったら、係員のお姉さんに微妙な顔をされた……ホモじゃないよ? と言い訳しながら、お互いのパートナーを指定したら、更に微妙な顔をされた。何故だ。
ブラックライトで光る再入場スタンプを押されていざゲートを潜ると、イルミネーションに彩られたアトラクションが輝いて見えた。大チョンボで夜になってしまったが、かえってこっちのほうが雰囲気が良かったのかも知れない。
新垣の腕に捕まりながら、白木が夜空に手をかざして、見えないスタンプを不思議そうに眺めていた。見てる分には、やっぱり自分のサポートなんか要らなかったんじゃないのかと言いたくなるくらいに、既に二人の雰囲気は出来上がってる感じだった。
「それじゃ、パンフレット通り、回りますかね」
受付で貰ったパンフレットに目を通し、イベントの詳細を確かめる。すると今回のイベントは、各アトラクションで係員から手渡される数々の指令を、カップルで解決するというアドベンチャー、要するにオリエンテーリングみたいなものだった。
こういうの、小学校のときに子ども会でやったよな……などと、懐かしく思いながら、最初の指令がもらえるジェットコースター乗り場に、意気揚々と向かった……
……みんな吐いた。
「……あんたら、どういう三半規管してんだよ」
「君だって吐いてるではないか……」
ここのところの寝不足がたたったか、アトラクションに乗った時点で気分が悪くなり、内臓を揺さぶられた藤木はあっさりと陥落した。しかし、自分はともかく、他の奴らはどういう了見だ。どれだけ脆弱な身体能力をしてるのか。
「うう……私たちは普通に遊園地デートも出来ない体なのでしょうか。でも、挫けませんわ」
パンフレットに書かれていた順路の一発目で、これでは先が思いやられる。予定変更して、楽そうなのだけ回ろうかと思ったら、何故か白木に火が着いていた。
まあ、ここが一番きつそうだったし、なんとかなるだろうと二つ目のお化け屋敷に向かったが……
「……ユッキー、あんた全然怖がらないね」
アトラクション前で指令書を貰って、藤木たちが先に入場する。カップル、お化け屋敷と言えば、定番のキャーとか言ってわざとらしく抱きつくあれとか期待したいところだが、相方は暗闇をずんずんと進んで、途中でお化けが出てきてもまるで意に介さなかった。
「この年にもなってお化けなんてねえ……なによ。抱きついてでも欲しいわけ?」
滅相も無い。
倖は指令書の指令どおり、古井戸の前の立て看板に書かれた文字列を、淡々と書き写している。そんな最中お約束通り、古井戸からぬっとスタッフ扮したお化けが現れたのだが、彼女はちらりと一瞥しただけでピクリともせず、メモを書き写してその場を去った。なんか色々と台無しである。
「そういや、昨日学校でさあ……主任がさあ……」「あんたが悪いよ」
そんなもんだから、お化け屋敷と言えどまったく怖い気がせず、二人でベラベラと普段どおりにしゃべりながら順路を進んでいたら、
「きゃあああああああああああああああああああ!!!!」
と、背後からもの凄い悲鳴が聞こえてきた。
多分、自分たちの後に入った白木だろう……あれだけ怖がってくれれば、お化けも本望ってものだろうな……などと考えていたら。
「いやっ! ……来ないでっ! 来ないでぇっ!! 犯されるうううぅ~~~~!!!!」「駄目、許して! まだ処女なのっ!」「いやああああっ! 許してください! なんでもしますからああ!!!!」「いやっ! だめっ! 孕むっ! 孕んで、イくぅ~!!!!」「くぁwせdrftgyふじこlp!!!」
よっぽど焦っているのか、恐らくダッシュに近い速度で突っ走ってるに違いない。
心なしか、段々と悲鳴が近づいてくる気がする。
藤木たちは顔を見合わせた。
そして迷う間もなくダッシュした。
怖い。怖すぎる。お化け屋敷怖い。あんなのと知り合いだなんて世間に知れたら、怖すぎる……
必死の形相で飛び出してきた二人を、満面の笑みでスタッフが出迎えてくれた。さぞかし楽しんでくれたに違いないと思っているのだろう。冗談ではない。二人は汗だくになりながら、ほうほうの体でお化け屋敷を遠巻きに眺めるベンチに倒れこんだ。
そんなこんなで様々な方面に多大な迷惑をかけながら、一行は遊園地のイベントを楽しんだ。
初めは借りてきた猫のように大人しかった白木であったが、次第に目に見えてはしゃいできた。
始めのジェットコースターはともかく、比較的穏やかなアトラクションが多いこともあってか、徐々に慣れてきた白木が、気に入った乗り物にもう一回乗りたいと言い出したので、気を利かせて兄妹二人だけにしてやった。
はしゃぐ白木を遠目に見ながら、藤木は倖とフードコートのテーブルに座っていた。
白木はまるで初めて遊園地に来た子供のように楽しんでいた。いや、もしかしたら本当に生まれて初めてきたのかも知れない、その喜びっぷりは誘った方も満足であろう。
時折、道行く人々が彼女のことをほほえましげに眺めていった。見てくれだけなら、どこへ出しても恥ずかしくないお嬢様だから、そのはしゃぐ姿は絵になった。新垣はデジカメ片手に、運動会の父兄のみたいに……いやコスプレ広場のカメ子のように、パシャパシャやっていた。通報されたりしないだろうな。
「それにしても、よく来たね、ユッキー。案外、付き合い良いんだな」
「なによ……自分で誘っておいてそれはあんまりなんじゃないの」
ごもっともである。
諏訪の家で天王台のことを聞いていたとき、かかってきた電話に藤木は何も気の利いた返事を返すことが出来なかった。ただ頭の中でグルグルと回っていた小町の捨て台詞を思い出して、本当に何の気もなく倖を誘った。
本当は今日、ここへ来るつもりは無かった。朝に起きた奇妙な現象。二度目とも言える天使の痕跡。それを確かめる事のほうが急務だし、実際こんな他人の恋愛に首を突っ込んでる場合ではない。
新垣には悪いがドタキャンすることは出来たろうし、実際、ついうっかり誘ってしまった彼女が居なければ、ここまで来なかったと思う。
「おかしなことばかりでさ……」
テーブルに置いたままのジュースのストローを、だらしなくチューチューやりながら、彼女は上目使いに見た。
「ちょっと相談に乗って欲しかったんだ。もう、何がなにやらさっぱりで」
「……話してみてくれる?」
彼女が居住まいを正して椅子に座りなおすと、タイミングが良かったのだか悪かったのだか、新垣がやって来て言った。
「おーい! 藤木君。今度は観覧車に乗ろうと安寿が言ってる」
その場で待っていると言っても良かったが、観覧車ならば問題なかろう。かえって喋りやすいかも知れないと藤木たちは席を立った。
連休初日とは言え、もう閉演も近い時間帯であったからか客は少なく、待つことも無くすぐに乗れた。観覧車に乗ろうとしたら、イベント参加者であることに気づいたスタッフが指令書を渡してきた。
「頂上に着いたら開封してください」
がちゃりと音を立てて、外から鍵がかけられた。遅々とした速度で、ゆっくりとゴンドラが上がっていく。藤木は指令書を胸ポケットにしまった。
「何から話していいか分からないんだけど……このところ、幽体離脱が頻繁に起こるようになったことは言ったろう? それを新垣さんにも相談してみたんだけど……」
彼の言うとおりに幽体離脱以前の過去を調べてみたら、自分自身のことなのに、まったく覚えてない出来事に遭遇した。
「……友達が、死んでたの?」
「うん。どうやらそうらしい……でも、まったく覚えてないんだ。俺とそいつは確かに仲が良くって、中学時代はいつも一緒に遊んでた。でも最後に会ったのはいつだったのか……曖昧でよく分からないし、死んだってのも、人づてに聞いただけなんだ。でさ、その死んだ理由ってのが、どうも俺のせいらしくって……」
藤木はすぐに、事情を知っていそうな諏訪に詰め寄った。一体何があったのか?
彼によると、春休みにスキー旅行にいった藤木たちは、現地で口論になったらしい。そして、ムキになった藤木が旅行を切り上げ、一人で帰ろうとしてホテルの送迎バスに乗ったという。
それを知った天王台が追いかけようとしたのだが、運の悪いことに季節はずれの猛吹雪に見舞われ、バスは藤木が乗ったそれが最後になった。
駅にはバスでしか行けないが、それでも舗装された道であるし、迷いようが無い。そう判断した彼は徒歩で追いかけようとしたが……
「駄目だった……途中で力尽きてしまったらしい。幸い、駅に向かったことを知っていた人からの通報で、翌朝すぐに発見された天王台は、一命を取り留めたが意識不明で……後でそれを知った俺は、もの凄い後悔したらしい。それで、四月ごろの俺を覚えてる連中は、みんな俺が元気なかったと言ってるみたいなんだが……俺は毎日、懺悔でもするかのように天王台の病室に通っていたそうで、そしてやがて彼は力尽きた。でも、それはあの夏休み最終日……天使を追いかけて辿り着いた病室のことで、それは跡形も無く消えてしまった」
もちろん、例の市民病院に問い合わせてみたが、そもそも春も今も、天王台と言う患者はどこにも居なかった。
「おかしなことがもう一度あって、実は今朝のことなんだ……天使がまた夢に出てきた。いや、はっきりと天使だったと言えるか分からないんだけど……あー」
「……続けて」
倖に促されて、藤木は今朝のことを話した。
朝起きたら、自分が別人になっていたこと。トイレに幼女が監禁されていたこと。事件性があると判断して、幼女を逃がしたこと。新聞の日付を見たら何年も前であったこと。驚いていたら、逃がした幼女が天使と同じ口癖を口にしたこと……
倖はポカンと口を開けていた。
「信じられないかも知れないけど……」
「いえ、信じるわ……信じるけど……過去に?」
「ああ……間違いないと思う。いや、もしかしたら夢なのかも知れないし……夢じゃないって証拠もないし……あの天使だって、よくよく考えても見れば、見たこともないガキんちょだったんだから、あいつが天使だって根拠は何もないし……あー、よくわかんねぇ……これが夢じゃないって言い切れるのは、自分の感覚しかないんだ」
こうして他人に相談してみて始めて気づいた。
今朝起きた現象なんて、話だけ聞いてみればただの夢でしかない……おあつらえ向きに最近の藤木は寝不足で、寝てるんだか起きてるんだか分かった物じゃない。
藤木が自分の体験が現実の物であることを証明できず、歯がゆい思いでいると、対照的に倖は何か冷静に物事を考えているといった素振りで、沈思黙考の末に小さく言葉を発するのであった。
「……21グラム」
「え?」
「魂の重さは21グラムなんだって。大昔、ダンカン・マクドゥーガルってお医者さんが、魂には重さがあるに違いないって思って実験をしたの。その実験によると、人間が死ぬ前と死んだ後とで、21グラムの差があった……」
聞いたことがある。しかし、確かそれはとんでも理論で……
「もちろん、そんなの嘘っぱちでね。彼のやった実験ってのはかなりずさんな物で、おまけにサンプル数も異様に少なかった。いくつかの実験は自らも失敗を認めてる。それに、人間では起きた体重の変化が、犬では起こらなかったそうよ。これらから、恐らく医師は宗教上の妄信から、人間の魂は他に優越すると言いたかったんじゃないかって、今ではそんな風にも言われてる。万物の霊長たる我々人類は特別だってね」
「ふーん……それで?」
「ただ、この説は意外と信じちゃう人が多くって、100年以上も経った今でも話が一人歩きしているの。21グラムは嘘でも、何かしらの変化はあるんじゃないか? って考える科学者だって居るわ。かくいうあたしも、初めてこの実験を聞いたときには、思うところがあってね……ほら、重力はあたし達の住む四次元時空を超えて、五次元以降も伝播するって前に話したことあったでしょう?」
言われて思い出した。確かあれは新垣氏の家から帰る彼女を駅まで送っていった最中のことだった。
「マクドゥーガル医師じゃないけど、確かにあたし達の魂ってのは特別で、他の生き物とは一線を画してる。記憶や情報伝達、道具の利用や発明など、この星を飛び出して宇宙の神秘にまで手を広げようとしている……明らかにこの星の上では特別な存在だって言っていいでしょう。動物愛護団体に怒られるかも知れないけどね。
特に、記憶に関しては、人間の脳の研究がまだ不十分だからかも知れないけど、よく分かってない部分が多いの。
記憶は人間の脳の中に蓄積されると言われているけど……生まれてから今までの記憶を全てデータとして保存しているというなら、その莫大な情報量をどうやって保持しているのか? それも分からないし、脳に深刻なダメージを受けて脳みそを半分失ったような人が、リハビリの末に健常に戻った例もある……挙句の果てには、心臓移植を受けた患者が、提供者の記憶を持っていたという例もあるのよ。これなんて脳とは何も関係ないでしょう?
こうして様々な例をつき合わせてみても、あたし達の記憶ってどこにどうやって保持されてるのか、さっぱり分かってないのよね。だからさ、もしかして、あたしたちの記憶って、実は体の中には無いんじゃないかって、そう考えた人が過去にも居たのよ」
「……居たの?」
つらつらと、何か得たいの知れない話をしだす彼女に、ただ黙って聞いていることしか出来なかった。藤木の発した台詞は、言葉を忘れて聞き入っていた者特有の、乾いて掠れて途切れそうな物だった。
倖が平板な調子で言った。
「うん。ノストラダムスって人」
もちろん聞いたことがあった。世界ではともかく、日本ではメジャーな人である。確か、人類滅亡を予言した人だ。残念(?)ながら外れたが。
「別に彼が最初じゃないんだけどね。神智学では、意外と昔から考えられていた説らしいんだけど……彼が特別視されるのは、その人間の記憶装置にアカシックレコードって名前をつけたことによるの。
彼の説によれば、過去から未来の全ての人間は、異次元で魂が繋がっていて、そこには人類の全ての英知が存在する。要するに、人間の記憶は自分の中にとどめて置くものでなく、異次元にある装置に記述され保存される。あたし達の記憶は、日々そこへ蓄積されていく。異次元は時間の流れが無く、アカシックレコードは人類の誕生から滅亡まで、全ての記憶が詰め込まれてる……そう考えたわけ。
まあ、なんの根拠も無いし、流石にそれは行き過ぎだと思うけど、ただ、異次元に記憶を保存しているって考えは、案外ありえるんじゃないかって……当時のあたしは思ったのよ。
だって記憶が人間の体の中に、どうやって存在してるか分からないなら、見えないところにあるんじゃないかって考えても不思議じゃないでしょう? おまけに5次元時空は認識できないだけで、すぐそこにあるんだし、その余剰次元ににじみ出ていると推測される、重力子なる素粒子の存在も予言されてる。
21グラム……そんなに重いわけないけど、人間の魂が実は重力子で構成されていて、日夜自分の体と、余剰次元にある記憶装置との間で頻繁にやりとりが行われてる……そう考えれば人間の記憶問題は、解決されるんじゃないかって思ったわけ。残念ながら肝心の重力子が、まだ発見されてないんだけどね」
倖は少し恥ずかしそうな素振りで、自分の頬をぽりぽりと引っかいた。
「若い頃、そんなことを考えてたんだ……あんたの話を聞いて思い出したんだけど……藤木、もしかして、あんたは幽体離脱をしてるんじゃなくって、他の時間線へ移動しているんじゃないかしら」
それは明らかに発想の飛躍で、反応するのに少し手間取った。
「ごめん、いまいち着いてけないんだけど……どうして、そう思うんだ?」
「始めにおかしなことが起きたのは、春の部室占拠騒動の前後で、学生たちの態度が変わったことでしょう? あれだけの騒動だったのに、殆んどの生徒が事件のことを覚えてない。それどころか、事件なんて無かったという認識だった……それって、事件のあった世界から、事件の起こらなかった世界に移動したと考えても、同じような結果にならない?」
「ちょっと待て、それならどうして先生たちが覚えてたんだ?」
「それは、取るに足らないことだったからよ。先生たちからしてみれば、部室が占拠されようが、何しようが、結果的に野球部が部室レスで、弱小クラブが踏ん張ったって事実だけが残れば一緒。ところが、学生たちからしてみれば、中沢と言うカリスマと、学校を牛耳っていた白露会という存在が凋落し、変わりに藤木と言うリーダーが生まれる……あんたは平行世界を移動することによって、それをチャラにしたんじゃないのかしら」
そういえば、中沢の記憶は段階的に無くなっていった……それは、藤木が生徒会の仕事が面倒だ面倒だと思っていた時期で……
「殺人事件の時もそう。あの前後でおかしくなったのは、晴沢ちゃんだけど……彼女はあの直後に、部室へ顔を出さなくなったのよね? それって、藤木やあたしたちの記憶が無くなったんじゃなくって……元々、四月に彼女が部室に来ることが無かった世界に、移動したからじゃないかしら……」
県大会で出会った彼女は、まだどこか藤原騎士に対する恋心を隠しているようだったが、それでも幾分さばさばして見えた。それはもしかして、とっくに気持ちにけりをつけていたからだとしたら……
「四月のあんたが意気消沈してるって目撃証言もそう。あたしの出席簿じゃ、あんたは四月皆勤になってる。でも話を聞く限り、そんなことないわよね? つまり、あたしの記憶とあんたの友達の記憶が食い違ってる……どうしてこんな結果になったのか? それはあたしたちの認識が違うから……」
「いや、でも、待ってくれよ。なんで幽体離脱とパラレルワールドなんてのが関係すんだ?」
「……もっと、早く気づくべきだったかも知れないんだけど……シュレーディンガーの猫って知ってる?」
有名な思考実験だし、知らないわけがない。箱の中に50%の確率で毒を吐き出す装置と猫が入ってる。果たして今、箱の中で、猫は生きてるのか死んでるのか?
答えは、猫は生きているし死んでいる。箱を開けるまで、そんなわけの分からない状態にあるのだ。
「例えば、今藤木が新垣氏のマンションの前に立っているとする。新垣氏の部屋の冷凍庫にはハーゲンダッツが入ってる。新垣氏はハーゲンダッツが大好物だ。この状況で、新垣氏がハーゲンダッツを食べている可能性はフィフティフィフティ、コペンハーゲン解釈によれば食べられてもいるし食べられてもいない、重ね合わせの状態にあるわけね。これは藤木が新垣氏の家に訪ねていって、冷凍庫を開けることでどちらかの状態へ収束するわけだけれど……
ところで、藤木は幽体離脱が出来る。そして本来なら、絶対にありえない方法で冷凍庫の中身を知ることが出来る……これって、実は藤木が冷凍庫の中身を知ることによって……どっちかの世界を選択してるってことじゃないかしら」
言われて藤木は腰が抜けるような気がした。
確かにそうだ……幽体離脱をただの情報収集の便利な道具だとしか思ってなかったが……考えようによっては、絶対に手に入れることが出来ない情報を知るということは、未来を知ることと似てなくもない。
「先に言ったとおり、もしも魂が重力子で構成されるのなら、藤木は余剰次元に存在する記憶装置、アカシックレコードにアクセスすることが出来る。そして、それは5次元以上の高次元に存在し、そこからなら、あたしたちの住む4次元時空の全ての平行世界を、認識することが可能でしょう。
ただ、平行世界と言っても、大陸の位置が変わったり、月が落ちてきたするわけじゃないんだから、殆んど今居るこの世界と違いはないでしょう? だから多分、同じ写真を二枚並べて、間違い探しをしているようなものなのよ。あんたは知らず知らずに、別の世界を行き来しちゃってるってだけの話で……」
唐突に、他人と自分の認識がずれ出したのは、それが原因だったと考えれば確かに辻褄があった……他人に憑依できるのは、人間の体がただの魂の乗り物だったと考えれば事足りる。睡眠中など、魂が留守の状態でなら乗っ取れるのだろう……そして、過去を垣間見てしまったのは、恐らく他人の記憶に干渉したからではないか……
自分が、なんだかよく分からない高次元の何かに、頻繁にアクセスしてると考えると、確かにいろいろ辻褄が合う。正直、殆んどそれは憶測だったから、100%信じるわけにはいかなかったが……少なくとも、自分が平行世界を移動しているという考えは、かなり信憑性があった。自分と他人との認識の食い違いは、それで殆んど解決出来る。
倖の説をきいて、自分なりの答えを見つけようと、黙って頭を動かしていたら、
「ごめんなさい……」
か細い声が聞こえた。
「え?」
藤木は顔を上げた。
「もしかしたら……あたしのせいなのかも知れない」
倖は俯いて、膝の上で手をぎゅっと握り締め、肩を震わせていた。
「彼女が何者だったのかは分からないけど……今にして思えば天使ちゃんは、あんたを助けようとしていたのかも知れない。あまり幽体離脱しないようにしろ。他人を助けようとするな。記憶を操作しているのは自分だって……テクノブレイクって形で幽体離脱に枷をはめてたのも、そうやって、あんたがおかしなことにならないように、上手く誘導していてくれてたのかも知れないのに……」
確かに……今思い返せば、天使にはそういう節があった。鈴木たちといつも一緒に居たのも、クラスで一番親しい連中だったから、そいつらがおかしくなってく進行を遅らせてくれていたのかも知れない。
「天使ちゃんが怪しいって、あたしが言ってからでしょう? その時から、あんたは自分の意思で幽体離脱したり、勝手にどこかへ飛んでいっちゃったり、夢うつつの出来事に遭遇して神経をすり減らしていくことになってしまった。何の根拠も無かったのに。ただ、自分の考えを示すことによって、気を引きたかっただけなのよ。あんたに助けられてばっかりで、自分が情けなかったから。でも、こんな馬鹿げたスタンドプレーで、あんたに取り返しのつかないことをしてしまったのかも知れないと思うと……」
「いや、遅かれ早かれそれには気づいたかも知れないし、天使が怪しかったのは紛れも無い事実だったから」
思えば、こんな下らない与太話、本当だったら一笑に付してしまうところだ。新垣との約束だって、中高生のグループ交際じゃあるまいし、付き合ってくれたのはなんでだったのか……きっと彼女は気にしていたのだ。
「ごめん……ごめんね」
ぎゅっと握った拳が震えていた。俯いたその表情は、ここからは暗くてよく見えない。
やばい……そう思っても、後の祭りだった。
多分、ずっと気にしていたのだ。彼女としては、良かれと思ってした助言が、結果的に藤木を追い詰めてしまった。藤木は困惑しながらも、頼れる相手は彼女しか居なかったから、何か問題が起こるたびに彼女に相談した。そして相談されるたびに、彼女はプレッシャーを感じていった。
一向に解決しない問題を前に、藤木はどんどん神経をすり減らして疲弊していったが……それは彼女も一緒だったのだ。
自分のことばかり考えてて、フォローが遅れた。藤木は焦りながら言った。
「ユッキーのせいじゃないよ。これは本来、俺だけの問題だったんだし、それに巻き込んじまったのは俺なんだ。寧ろあんたは被害者みたいなもので、気にすることなんて何も無いんだよ。それに……遅かれ早かれ、こうなっていただろうに、なのに今でも自分のことを保っていられるのは、ユッキーに相談出来たからなんだ。だから、感謝すれども、悪いなんてこれっぽっちも考えてない。気にしないでくれ」
「……でも」
気休めでもなんでもいい、もっと気の利いた台詞はないか?
考えても考えても、ろくな台詞が思いつかない。
何か無いかと周囲を見回してみても、東京の夜景が美しいだけで……このイルミネーションの中で、自分たちの乗るゴンドラだけが、まるで土砂降りにでも遭っているかのように重苦しかった。
ポーン……
その時、機械的な音声が、唐突に鳴り響いた。
『現在、地上80メートル。海抜104メートル。頂上付近に到着いたしました』
その平板で間抜けな音声に、二人は言葉を失って顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく、溜め息にも似た笑い声が漏れた。
「こういうの、なんだっけ、天使が通り過ぎるって言うんだっけ」
もしかしたら、本当にそうなのかも知れない。
自嘲気味に笑いながら、今までまるで気にも留めなかった夜景を見た。
それは、どこまでも続く光の絨毯のようだった。
前方のゴンドラをちらりと見たら、新垣と白木が楽しげに笑いあってる姿が見えた。
一体、何をやってるんだろう。二人の幸せそうな姿は微笑ましく、沈みかけた気持ちを癒してくれた。
藤木はふと、観覧車に乗る前に渡された指令書のことを思い出し、胸ポケットに手をやった。
「そういえば、乗る前に渡されたんだよね。頂上に着いたら開けてって」
指令を全部クリアしたら、受付で記念品がもらえるらしい。どうせたいした物じゃないだろうが、話の種に乗っかってみるのも悪くない。
重苦しくなった雰囲気を和らげるのもいいだろうと、藤木が言うと倖が体を乗り出してきた。ゴンドラは暗く、照明はその中央に、ペン先ほどの儚さしかない。
だから、自然と顔がくっついてしまうくらいに近づいていた。藤木はメモを読み上げた。
『お互いの、一番好きなところはどこですか?』
それまでの傾向から、どうせ観覧車から見える何かを探せとか書かれてるんだと思っていた。そして、東京の夜景を指差しながら、あれじゃない? これじゃない? と、和気藹々とカップルが雰囲気を作るのに役立たせようと言う、スタッフたちの粋な計らないなのだろうとか思ってた。
何このど直球な質問は……TPOをわきまえろよ。ここは東京上空80メートル、二人しか居ない閉鎖空間だぞ。
ハッとして顔を上げたら、既に倖は自分の席に戻って、先ほどのように膝の上で拳をギュッと握って、肩をプルプル震わせていた。
「あ、あは……あはははは。やるね、東京ドームシティ。流石、巨人の本拠地だけはある……これ、本当に恋人どうしだったら、いちころだろうな」
藤木はどぎまぎしながら、固まってしまった上半身を、強引に後ろへと戻した。心臓が痛いくらいバクバク鳴って、今にも心臓から飛び出そうだった。
「あたしは好きよ……」
ガツンっと後頭部が窓ガラスにぶつかって、風も無いのにゴンドラがゆらゆらと揺れた。
ヒリヒリと痛む後頭部を擦りながら、藤木はあうあうとしどろもどろに何かうめき声のようなものを上げるのだった。「え? なんだって?」なんて言えたら、どんなに楽だろう。
目の前で、立花倖の姿がゆれている。
藤木はそれを真っ直ぐ見ることが出来なかった。
だから夜景を見る振りをして、窓ガラスに映った彼女の姿をこっそりと盗み見ていた。
分速12メートルの遅々として進まない夜景の中で、彼らはもう言葉を交わすことが出来ないで居る。
よく見たら、彼女の首には不恰好な子供っぽいチョーカーがぶら下がっていた。それは多分、あの夏の日、池袋の路上で藤木が何の気なしに手にしたものだった。