ついにやっちまったのか?
眠りたくても眠れない、そんなノイローゼみたいな夜がずっと続いていた。
一度眠ってしまうと、自分がどこへ飛ばされるのか、もしくは自分が何になってしまうのか……未知なる恐怖がプレッシャーとなって、藤木はベッドの中で輾転反側しながら、眠りに落ちてはすぐに目を覚ますという、浅い眠りを繰り返していた。
別に、寝起きにどこかへすっ飛ばされる、それだけなら何の害も無いように思える。しかし、それが何故引き起こされるのか……日に日に目覚めた時の、幽体と本体との距離が離れていくに従って、何か取り返しのつかないことでも起こっているのではなかろうかと、不安な気持ちにさせるのだった。
しかし人間眠らないわけにはいかない。
そして、そんな中途半端な眠りでは当然疲れなど取れるわけもなく……日中は頭がぼーっとして何も考えられず、体は節々が錆付いたかのようにギクシャクとしていて、自分が起きているのだか眠っているのだかわからないような、明晰夢でも見ているような状態のまま、時間を浪費するのだった。
考えなきゃいけないことは山ほどあった。だが考えることも出来ないほど体が疲弊している。
眠ろうとする囚人に水をぶっかけてたたき起こす、そんな拷問方法があったと思うが、正にそんな感じだった。もういっそ、限界が来るまで寝ないで過ごしたらどうだろうかと考えたこともあったが、家の中ならともかく、外出先で眠気に見舞われたらと考えると、とてもそんなリスクは背負えず、結局は夜なんとか誤魔化しながらも、体を休めるしかなかったのである。
そして、その日も例によって眠れない夜を過ごしていた。眠ろうとしても、眠ったあとのことが気になって眠れない。仕方なくアルコールに手をつけて、眠気を誘おうと思ったのだが、中々寝付けずに酒量が増えると、かえって覚醒作用の方が強くなってきてしまい、トイレとベッドをいったり来たりするという、悪循環に陥ってしまった。
もはや効果的な策はなく、藤木は泣きそうな思いで、ぐずぐずとベッドの中を転げまわっている始末だった。
ただ、この一週間は快適な睡眠を犠牲にしたお陰か、謎の幽体離脱現象に見舞われることは無かった。それだけが救いだった。
そんな具合に、その日もウトウトとしてはハッとなる、そんな行為を繰り返しながら、眠ってるんだか眠ってないんだか分からないような夜を過ごしていた。やがて時が過ぎて空が白み始め、気の早い小鳥が朝ちゅんするような時間帯、藤木はその晩何度目になるか分からない睡眠と覚醒を行って、酷い倦怠感の中で目を覚ました。
頭はぼんやりとして上手く回らず、体は汗でびっしょりだった。飲みすぎたアルコールの影響か、酷い尿意に襲われて藤木は仕方なくギシギシと音を立てて、ベッドから体を起こした。節々が痛む。体がとんでもなく重く感じられる。
まだ薄暗い部屋の中を手探りで移動し、ドアを開けて廊下へ出る。玄関の新聞受けから白い帯状の光が漏れているのは、新聞でも挟まっているからだろうか。別段、おかしいとは思わずに通り過ぎ、洗面所の脇にあるトイレのドアを何気なく開いた。
便座に幼女が座っている。
「……ふぁ?」
思わず素っ頓狂な声が漏れた。眠気など一瞬で吹っ飛んだ。
何故なら、その幼女の姿が揮っている。手かせ足かせに猿ぐつわ。どれだけ涙を流したのか、目尻は真っ赤に晴れ上がり、涙の跡は塩が浮いて真っ白な線になっていた。
「あわわわわわわわわわ」
藤木はバタンとドアを閉じて、その場に尻餅をついた。
なんじゃこりゃあ、ついにやっちまったのか? 眠ってる間に自分が何をしでかすか分からないと思っていたが、まさか未成年者略取とは……
実は無意識下で幼女を誘拐したいとか、思っていたのだろうか? そもそも一体何のために? 身代金目的だよなあ……まさか猥褻目的なんかじゃないよなあ……
うひいいいいい~~~~!!
と、頭を抱えたとき、藤木はふと違和感を覚えた。洗面所にある洗面台の向きに、違和感を感じる。
あれ? と思ってよく見てみたら、普段とは全然別の位置に洗面台の鏡が見えて、そしてその鏡の中に、頭を抱えた見知らぬデブが映っている。
藤木はペチペチと自分の顔を叩いてみた。すると、鏡の中のデブも同じように顔をペチペチ叩きだした。叩いている自分の手を、ためつすがめつ見てみれば、なにやらボンレスハムのようにパンパンである。全身汗だくで、今まで見たことのないトランクスとランニングシャツを着て、首と顎の境目が分からなくて、多分幼少期のあだ名は最長老とか呼ばれてそうな顔をしたデブが鏡に映っているのだった。
藤木は息を飲んだ。
確かにここのところ不規則な生活を続けていたが、こんなメタモルフォーゼ級なデブり方をする人間など居ない。
ふと、数日前に立花倖の言っていたことを思い出した。
もしかして、眠ってる間に誰かに憑依してるのではないか?
「マジかよ……するってーと、俺、誘拐犯に憑依しちゃったわけ?」
冗談じゃない。
このまま、ここに留まったら誘拐犯として逮捕間違いなしである。こんな理不尽に巻き込まれてたまるものかと、藤木は憑依を解いてさっさと自分の体に戻ろうと……しかけて止めた。
先ほどの幼女の姿が脳裏を過ぎった。今、このまま自分が憑依を解いて帰っちゃったら、あの子どうなっちゃうんだろう……?
恐る恐る、トイレのドアを再度開いてみた。もしかしたら、ただの見間違いかも知れないと淡い期待を思い描いてみたが、もちろんそんなわけが無い。
「ふがふがふが……うー! ううぅーー!!」
いつからその状態で監禁されていたのだろう。全身汗だくの幼女が、必死の形相で藤木のことを見上げていた。その瞳は、今まさに殺されると言わんばかりの恐怖に満ち満ちている。明らかに怯えている。
一応、万が一ということもあるから聞いてみた。
「これから変な質問するけど、落ち着いて聞いて欲しい……俺と、君は兄妹か何かだったりするのかな?」
「ふがー! ふがー!!」
彼女はブルンブルンと頭を奮った。まあ、そうだろうなあ……これで十中八九、誘拐犯で間違いない。
怯えきっているからか、恐怖の張り付いたその表情では良く分からなかったが、目鼻立ちがはっきりとした中々の美形に見える。真っ白な手足は細長く、少々痩せすぎと見えなくない細身のプロポーションに、雑誌からそのまま飛び出してきたような、身の丈にあったセンスのいい洋服を着ていた。親がしっかりしてるのだろうか? 着ている服からして裕福な家庭の子のようだった。
とすると、身代金目的だろうか。猥褻目的ならとっくにどうかなってそうだ。監禁されてるとは言え、今まで無事でいるのだからそうかも知れない。しかし、長引けば今後どうなるか分からないぞ……とか考えては、藤木は溜め息を吐いて肩を竦めた。
そんなのどっちでも良いじゃないか。要は助けるか、助けないかだ。結論はとっくに決まっている。
「あー……これから君を解放する」
「……ふがが!?」
「嘘吐いてぬか喜びさせようってわけじゃない、だから安心して欲しい。ただ、解放する前に騒がれると困るから、まず手かせ足かせを外すから、逃げ出してから猿ぐつわは自分で外してくれ」
「…………ふが」
そういうと、藤木はまず足かせを外して彼女を立たせ、玄関に移動してから手かせを外した。
少女は信じられないものでも見たとでも言いたそうな顔で、藤木を見上げていた。
「家から出たら、すぐにここから離れて、他人に助けを求めるんだ。そんで警察に通報しなさい。えーっと……ここの住所は分かる?」
「……ふがふが」
少女が頭を振った。
まあ、誘拐犯が自分のアジトの場所を教えるようなへまは犯さないだろう。目隠しでもされて運ばれたか……何か住所の分かるハガキか何かないか? とキョロキョロ見回してから、新聞受けから新聞を引っこ抜いたらパラパラと、一緒に光熱費の領収書が落ちてきた。
新聞を小脇に挟み、領収書の裏表を見る。残念ながら住所は書かれていなかったが、お客様番号か何かで分かるだろう。藤木はその紙切れを彼女に手渡すと玄関を開けて言った。
「いいかい? 繰り返し言うが、家から出たらすぐに助けを求めて警察に通報しなさい。君は犯人の隙を見て逃げ出した。その時、咄嗟に玄関に落ちていたこれを拾った。そう言えば事足りるから……」
そういうと、藤木は少女がポカンとした表情で見上げていることに気づいた。もしかしてやりすぎただろうか? ストックホルムシンドロームと言う言葉もある。いきなり犯人が優しくなったからって、その犯人に同情されても困る。
彼は少女を突き飛ばすように乱暴に玄関から外へ追いやると、
「いけっ! 俺の気が変わらないうちに。そうじゃないと、ぶっ殺してやるぞ!」
ビクリと震えた少女は、こくこく頷くと階段を駆け下りていった。
「まったく……面倒なことにならなきゃいいけど」
もし仮にあの少女がこの男に同情して、通報しなかったとしたら、きっとこの男はまた何かやらかす。いっそ、自分で110番してしまおうかとも考えたが、これ以上は面倒見切れない。
どうにでもなれと思いながら、少女を突き飛ばしたときに落とした新聞を拾い上げた。もしかしたら、この誘拐事件のことがニュースになってないかな? と思って、パラリと1面をめくって、すぐにその違和感に気づいた。
「……あれ? 今日って、何月何日だったっけ?」
そこに印刷されていた日付が、藤木の記憶しているものと違った。
もしかして、何日も新聞を溜め込んでいたのだろうか? ……いや、だとすれば、これ一部だけじゃなく、もっと沢山新聞受けにあっても良さそうだが……そんな風に考えながらその日付を見ていたら、もっととんでもないことに気づいた。
「……えーっと? 今って、平成何年だ? 西暦……あれれ?」
普段見慣れない漢数字の年号が、うまく頭に入ってこない。
ただ分かることは、明らかにこれらの数字が、藤木の記憶しているものよりずっと少なくって……
呆然と佇む藤木の前方から声が聞こえる。
「あの……」
今まさに閉じようとしていたドアの隙間から、先ほど逃がした少女の姿がちらりと見えた。
「あの……もしかして、神様ですかにゃ?」
藤木は咄嗟にその姿を追いかけようとして、
ズガンッ!!
と言う盛大な音ともに顔面をドアに強かに打ちつけた。
「おあはああああ!! いたた! いたっ! 痛いたいたいっ!!!」
藤木はゴロゴロと床を這いつくばった。
打ち付けた鼻がツーンと痛む。その痛みに必死に耐えながら、徐々に戻ってくる視界に違和感を感じた。
先ほどまで、見知らぬ男の家の玄関に居たと思ったが、気がつけば、藤木はいつのまにか自分の部屋の天井を見つめていた……
玄関のドアに顔をぶつけたと思ったが……どうやら寝ぼけてベッドから落ちて、床にぶつけたようだった。
「いや……夢じゃねえだろ、これ……」
明らかに実感がある。明晰夢と言うか、感触のある夢だった。
寧ろ夢でないと考えないと、起きている今の自分こそが夢であるような気さえする。藤木は今、起きているのか? 寝てるのか?
ああ、もう、わけがわからない。
最後に少女の発したあの台詞を思い出す。あれは天使なのか? 全く見覚えのないガキんちょだったが……ともあれ、思えば前回彼女を見かけたのも、うとうとと藤木が夢うつつのときだった。
藤木は床に落ちていたタオルケットを掴むとベッドに寝転んで、それを被った。ここ数日、眠りたくないと思っていたが、今はどうしても眠りたかった。
眠った先には天使がいる……虎穴にいらんずんば虎子を得ずだ……果たして、自分がどうなってしまうか分からないが、藁にもすがる思いで藤木は目をつぶってベッドに横たわった。
しかし、眠りたいと思うときほど眠れないものであり……藤木はカーテンから漏れる光の束をイライラしながら呪うのだった。
結局、その後何度も眠りと覚醒を繰り返し、得るものが何も無かったと言う徒労感の中で、藤木は寝不足の黄色い太陽に焼かれながら都内の遊園地前に居た。9月の連休が重なるシルバーウィーク初日。前々から約束していた白木兄妹のデートに付き合う日が、その日だったのである。
水道橋駅で降りて東京ドーム方面へ歩くと、やがて観覧車とジェットコースターが見えてくる。大通りの渋滞の車列と、客の歓声が渾然一体となって、寝不足の頭をガンガンに痛めつける中、パッと見、そこが入り口だと分からないゲートの前で、新垣が嬉しそうに手を振った。
「おお! 良かった、藤木君。途中から電話が繋がらなくて心配したのだよ」
うつらうつらとベッドの中で輾転反側していたら、午後になって電話が掛かってきた。取れば新垣で、今待ち合わせ場所についたのだが、そっちは? と聞いてきて、初めて自分が約束をすっぽかしそうになっていたことに気づいた。
がばりと飛び起きたがもう手遅れで、平謝りに謝りながら急いで支度し、ダッシュで中央線に乗ってやってきたまではいいものの、大遅刻も大遅刻で、見れば西日が傾く黄昏時になってしまっていた。
途中から、催促の電話しか掛かってこないので、電源を切ってしまったが、
「東京ドームホテルの偉容が夕日に映えて綺麗ですわ」
と、アトラクションよりもまっ先にホテルのことが気になる白木はともかく、人ごみの中で彼女の相手をしながら時間をつぶしていた新垣は既にぐったりしていて、自分が二人の間を取り持ってやろうなどと、おこがましくも思いながら、逆に足を引っ張ってしまったことに後悔した。
「ホントすみません。うっかり寝過ごしちゃって……」
寝不足で殺伐とした気分であったが、今はもう反省しかない。
そして、そんな具合に、新垣に向かって何度も何度も頭を下げていると、きゅっと洋服のすそがつままれた。
「……よがっだ……もじがじで、変態兄妹に売られだのがと思て……来でくでで、よがっだ……」
振り返ると、立花倖が半べそをかきながらよく聞き取れない言葉を口走っていた。
よほど心細かったのだろうか、なんだかいつもより小さく見える……いや、そこまで嫌だったら帰っちゃっても良かったのだよ?
と言う言葉を飲み込みつつ、大遅刻を精一杯詫びながら、藤木は倖を宥めるのに必死になるのだった。




