それは、絶対おかしいわよ
今更、白木が下品なジェスチャーをしてきたところで戸惑いやしないが、それが自分に向けられる日が来るとは思いもよらず面食らった。何を考えているのか、この人は。
「えーっと、したいって……セックスのことですか?」
「他に何があると言うのですか」
「ですよね」
もちろん、藤木だって真っ先にそれを思い浮かべた。が、しかし突拍子も無さ過ぎて確認しないわけにもいくまい。だって、あんた念願叶ってお兄さんと結ばれたのだろう? 一体どういうことだ。もう別れたのか? それともスワップ希望とかか? AV撮影したいから汁男優でも募集してるのか……適当に思いついたのだが、この変態兄妹なら十分ありえそうで困る。
藤木はブンブンと首をふるって言った。
「いやいや、とりあえず、落ち着いてくださいよ。なんで俺が迫られてるのか、状況がよくわからない。一応確認しておきますが、俺としたいってわけじゃないですよね?」
「あら、失礼しましたわ……私ったら、はしたない」
そう言うと白木は、ぐいぐいと胸を押し付けるようにして迫っていた体を離した。ホッとするやら残念やら。ともかく、様子がおかしいので、一体どういうことなのか、順を追って説明しろと質してみると、
「実は、私たち、あれから10日ほども経つのですが……」
「……え? まだヤってないの??」
どうやら白木の「したい」とは新垣と、と言うことのようだった。
意外と言っては失礼かも知れないが、この変態兄妹がまだヤってないとは思いもよらず、藤木は素っ頓狂な声を上げてしまった。
曰く、藤木が帰ったあとにお互いの気持ちを確認しあった二人は、正式にお付き合いすることに決めた。
そしていざめくるめく官能の世界! と思いきや、新垣は意外とお堅い面があるのか、付き合うことを決めたのだから、両親にそのことをきっちり宣言しに行こうと言い出し、あの日あの後、二人で実家に帰って両親に報告したらしい。
両親も薄々感づいていたのだろう、特にお咎めも無く、晴れて親公認で付き合いだした二人であったが……
「お兄様ったら、私のことを凄く大事にしてくださるのですが……手を出してくれないのです」
元々、ストーカーついでに隣室にこっそりと仕事場を設けていた白木であったから、両親の許可が出たことをこれ幸いと、すぐさま池袋のマンションに入り浸るようになったらしい。
もちろん、仕事もしていたが、大半は兄の部屋へ行って、甲斐甲斐しく世話を焼き、そしてワザとらしくアピールをしては、兄がちょっかいを出すのを待っていた。
しかし、妹がいくら迫っても、兄は一向に手を出さない。それどころか、もっと自分を大切にしろ、まだ早いと諭される始末だったそうな。
「うっそだろう!?」
「それが、本当なのです……よよよよよ……」
白木はサメザメと泣いた。
正直信じられない。あの変態兄貴がまだ手を出していないとは。げははと笑いながら、ネット中継でオナりだす男だぞ。浅草の三社祭でドロっとしたものを飛ばそうとして、逮捕されたような男だぞ。既に妊娠は確定で、一通りアブノーマルプレイも済ましてるくらいに思っていた……
いや、しかし……
藤木ははたと気づいた。良く考えても見れば付き合って10日前後のカップルなら、これが普通なんじゃなかろうか。白木が言うには、新垣は妹のことを大事にしているようだし……
実際、一度手を出しちゃったら、この女は歯止めが効きそうもない。
「うーん……」
「私、一体どうしていいのか分からなくて。こんなにアピールしていると言うのに」
「……って、そういや、あんたお兄さんに対して、結構あけっぴろげじゃありませんでしたっけ。ものっそいオナニー見せ付けたり。あまつさえ、それで処女膜やぶっちゃったり……」
「きゃああーー!! きゃああーー!! きゃあああーーーー!!!」
赤面した白木が手をバタつかせて、藤木をぽかぽかとたたき出した。やめてやめて、品川たちが駆けつけてきちゃう。性犯罪者のレッテル貼られちゃう。藤木は必死に彼女を宥めて、
「わあ! 落ち着いてくださいってば! つまりですね、そんなんだから、アピールと一口に言っても、性的興奮に訴えかけたところで、無駄なんじゃないっすかねえ!? そういや、あの人も十分変態ですし、今更ちょいとおっぱいがぽろりとまろび出たところで、ぴくりともしませんよ」
「……そうなのでしょうか……私、自信を無くしてしまいましたわ。もしかして、本当はお兄様は私に興味などなくて、私を傷つけまいとして、話を合わせてくれただけなのではないでしょうか……」
「いや、それはない」
即答である。じゃなきゃ、あの人はあんな退廃的な生活を送ってまで、妹のズリネタなど提供してたはずがないだろう。確か一流国大中退のはずだろ?
「まあ、あの人もなんか思うとこあるんじゃないですかね」
「そうでしょうか」
「あんまりがっつくと返って駄目なのかも知れませんよ。ここは押して駄目なら引いてみては?」
「そんなことをして、もしもお兄様に見向きもされなくなったら立ち直れませんわ! ああ、どうしましょう……藤木様、なんとか助けてはもらえないでしょうか」
面倒くせえ……面倒くさいが……藤木は、はぁ~と溜め息を吐いた。
「わかりましたよ。どうしてもって言うなら……」
「どうしてもです!」
「いや、台詞に被せないでくださいよ。どうしてもって言うなら、お兄さんが何考えてるのか、探りを入れてもいいですけど」
「まあ! 本当ですか?」
ぶっちゃけ、嫌なのだけれども、ここ一連の騒動で、藤木は交友関係が滅茶苦茶である。貴重な記憶を共有している知人に対して、無碍に断ることはし辛かった。
「あまり、期待はしないでくださいね?」
そう言うと、藤木は感謝の言葉をマシンガンのように浴びせかける白木を置いて茶道部室を出た。
廊下に出ると、隅のパーティションの中からまだ話し声が聞こえた。朝倉たちが先ほどの話で、まだ花を咲かせているのだろうか。そんな話し声を尻目に、藤木は踵を返すと、階段を下りて部室棟から外へ出た。
行くあてが無く、仕方なく2年4組の教室に戻って、ぼーっと待ちわびること1時間強。一度帰って出直して来たほうが良かったと後悔しつつ、昼休みを告げるチャイムを聞いていたら、やがて廊下の方からキュッと靴を鳴らす音が聞こえてきた。
職員室の方角からなので、もしかしてようやく会議が終わったのかしらん? と、席を立つと同時に、ピリリリリっとスマホの着信音が鳴り出した。
電話の相手は立花倖。どこに居るのか? と問われ、教室にいると言ったら呆れられた。どこで待ち合わせするとも言ってなかったので、てっきり家に帰っていると思っていたらしい。自分も今丁度そうしようかと思っていたところである。
「それじゃ、送ってってあげるから、駐車場で落ち合いましょう」
と言うことで、併設の大学の中にある駐車場へ赴くと、先に来ていた倖がクラクションをファンと鳴らした。
「……先生方にそれとなく聞いてみたけども」
助手席に座ってシートベルトを締めると、白のハイブリッドエコカーは音も無く滑るように走り出した。あの後、彼女は職員室で聞き込みしてくれたようだった。特に何の催促もしてないのだが、話が早くて助かる。
「どうも、あんたの妹の存在が曖昧になってるわね……記憶にないのか、始めから存在しないのか。何とか聞き出そうとしても、はあ? なにそれ、誰のこと? って感じに、痛い奴扱いされたわよ。あれじゃ、お手上げよね」
「……あいつと関わりが深い学校関係者って、ぶっちゃけクラスメイトくらいしか居ないもんな。クラス担任もあんただし。印象に残ってないのかね」
「その可能性もあるし……そもそも、存在自体記憶にないのかも。それから、ちょっと気になって、あんたのことも聞いてみたの」
「なんだって?」
「藤木藤夫って生徒のことを知ってるかって。そしたら学年主任はよく覚えていたんだけど、他の先生はどうもぼんやりした感じなのよね。印象にないと言うか、もしかしたら主任が知ってるって言うから、適当に話をあわせてただけなんじゃないかしら……」
マジかよ。クラスメイトだけじゃ無くなっていたのか……頭がくらくらしてきた。
「ちょっと脱線したけど。とにかく、藤木天使って女の子のことは、どうやら誰も覚えてないみたいだったわ。これ以上、職員室から手がかりを得るのは難しいわね。鈴木たち、生徒の方を聞き込んでみたほうがいいかも知れないけど」
「俺じゃ無理なんだよな……頼める?」
「いいわよ、別に」
何しろ、相手は立花倖である。絶対、渋ると思ったら即答だった。なんだろう、虫の居所がいいのだろうか? ともあれ、率先して協力してくれるというのに難癖をつけるわけがない。ありがたくその厚意を頂戴することにする。
「それより、そっちは何か無いのかしら。変わったこととか。天使ちゃんの行き先に関する手がかりとか」
「それなんだけど……」
藤木は前日、病院であった出来事を話した。
その突拍子も無い出来事を運転しながら聞いていた倖は、段々と表情が険しくなっていき、やがて赤信号でもないのに車を停めて路肩に寄せた。考えることのほうが忙しくなってしまったといった感じである。
「……病院で声が聞こえてきたと思ったら、変な病室に藤木が?」
「ああ」
「目が覚めて、もう一度行こうとしたら、さっきまであった病室がなくなってたの?」
「もしかしたら、マジで寝ぼけてたのかも知れないんだけどさ」
倖は眉間に皺を寄せて、うーんと唸った。
「その病室があったと思しき場所に、何かあったりしないかしらね……」
「ああ、それなら気になって確かめたんだよ。病院の外にさ、廃墟があって、いかにもそれらしいから中に入って調べてもみたけど、結局何も見つからなかったんだ」
それを聞いて、彼女はカーナビを操作するとブラウザを起動し、七条寺の地図を表示してから、今度はそれを空撮写真に切り替えた。問題の病院がくっきりと写っている。
「おお、これこれ。便利な世の中になったもんだなあ、しかし」
「年寄りみたいなこと言わない……これが、その廃墟?」
倖はその写真を見ながら、親指の爪を噛んだ。
「この病院……コの字になってるわよね。この廃墟が病院の敷地に食い込んでいて……いかにも地上げに失敗しましたって感じに見えなくない?」
「……言われて見ればそうだな。案外、本当にそうなのかも」
言うが早いか、倖がブラウザで病院のホームページを開いてみたら、その沿革に創立記念日が乗っていた。1992年とあった。
「ああ、こりゃマジで、バブルの真っ最中に地上げに抵抗して、そのままって感じだな。値段を吊り上げようとでもしたのかね……」
「さあ、どうかしら」
「って、どっちにしろ、そんなの分かってもしょうがないだろ」
「そりゃま、そうよね……」
ぽりぽりと頭をかいて、倖はブラウザを閉じた。
他に何か無いかと問われたので、藤木は関係有るか分からないが、最近の出来事を話してみた。
「……寝起きに、勝手に幽体離脱してる?」
「ああ……って、信じてくれるか分からないけどね、本当なんだ」
「信じるわよ。今更、信じないわけないでしょう。それ、どんな具合なの?」
「多分、気のせいじゃないと思うんだけど。日に日に、体から離れた場所で目が覚めるようになってる気がする」
初めは部屋の入り口付近だった。次は同じ団地。その次は町内。今朝にいたっては、ついに高度1万メートル上空だ。
「……それは……まいったわね」
「いや、それがそうでもないんだよ」
何しろ、富士山上空から七条寺、およそ100キロの距離をあっという間、1分もかからずに帰ってこれるのだ。
「下手すりゃ月で目覚めたって平気なんじゃねえの。いや、頼まれてもごめんだけどさ。あと、今朝みたいにいきなりジェットエンジンに焼かれるとかも止めてほしい」
「どういうこと?」
藤木は今朝、ジェットエンジンの爆音に起こされたことを告げた。
「……ってな具合に、飛行機雲の中で目覚めたもんだから、軽くパニクったわ。もう少し、脈絡のある場所で起こして欲しいね。嫌がらせかっつーの」
「……それは、絶対おかしいわよ」
藤木は軽い調子で言ったのだが、対する倖は何かが気になる様子で、小首を傾げて黙考していた。
「なにがさ?」
「例えば、あんたが言うように、寝てる間に魂が抜けて? ふわふわ浮いてどっかに行ってるんだとしたら……」
「うん」
「あんたの魂がふわふわと高度1万メートル上空まで登っていって、あまつさえ飛行機の進路上に留まる可能性ってどれだけあると思うの? 大海原に投げた小石が、ぷかぷか浮いてる葉っぱにぶつかるような偶然よ。ありえないわ」
言われて見れば、確かにそうだ。しかし、現に今朝そんなありえないシチュエーションに見舞われたわけで……倖が続けた。
「えーっと、あのさ、藤木……あんた邑楽のことを助けたわよね?」
「あ、ああ……」
「あ、別に責めてるわけじゃないわよ? 同じ状況になったら、あたしだって分からないわよ、実際。そうじゃなくって」
「なんだよ」
「その時、あんた邑楽に乗り移ったわけでしょう。憑依ってやつ? もしかして、あんた、眠ってる間に誰かに憑依してるんじゃない?」
「……え?」
「つまり、寝てるあんたが飛行機に乗っている誰かに憑依する。そして、その状態であんたが目を覚ましたか何かして、憑依が解けたと考えれば辻褄が合うんじゃないかしら」
確かに、それなら今朝起きた偶然が偶然じゃなくなる。しかし、そうすると、
「そうすると、寝てる間の俺って、一体どうなってんだ?」
ますますわけが分からない。
「それは、分からないけど……」
倖はばつが悪そうな顔で目を伏せた。
別に、寝てる間に勝手に幽体離脱してしまったとしても、それだけなら特に問題ない。何も害がないと分かれば、その内慣れたかも知れない。ふわふわと浮いて、変な場所で目覚めてしまうのも、多少なら許容出来たろう。
しかし、今朝のようにぶっ飛んだ場所で目覚めたり、それがもしかしたら、誰かに憑依した上で起きたと仮定すると……自分の身に一体何が起きているのか、段々不安になってくる。
何しろ、眠ってる間のことなど、誰にも責任が取れないのだ。しかも藤木の場合は並みの夢遊病患者のようなものとは違い、見張っていてもらったとしても、誰にも止めることが出来ないだろう。
それに、寝てる状態の自分が誰かに憑依したとして、それってどんな状態なんだ? 例えば、憑依する相手もまた、眠っているのだろうか。それとも、起きている人間にひょいひょいと、くっ付いて行っちゃうのだろうか。それとももしかして、寝てる間だけ自分は別人にでもなってしまっているのだろうか……
考えれば考えるほどわけが分からない。藤木は暗澹とした気持ちがして、げんなりしてきた。
「ごめんね」
と、突然、倖が言った。
なんで謝るんだろう? と顔を上げたら、
「怖がらせるつもりは無かったのよ。あまり深く考えないで」
そう言いながらも、倖は下唇をかんだ。多分、自分の言葉に後悔しているのだろう。
藤木は自分の頬っぺたを、ぺたぺたと触った。引きつってて、強張っている感じがした。
倖は、まるで自分を奮い立たせるかのように首を振るうと、サイドブレーキを戻して、また車を静かに発進させた。
「天使ちゃんを探しましょう……彼女を疑い始めたときから始まったのなら、やっぱり鍵は彼女が握っていると思うわ」
「……ああ」
他に返事のしようもない。結局、藤木が今後どうなってしまうとしても、それくらいしか手がかりがないのである。
思えば、初めて自分の意思で幽体離脱が出来ると気づいたときは、自由を手に入れたと本気で喜んだものだった。
しかし、それがこんなことになってしまうなんて……そんな気持ちなど吹き飛んでしまうくらい、事態は思わぬ方向に転がり出してしまった。果たして、この先、自分に待ち受けてる未来はどんなものなのか……
「どうにか……しなきゃな」
藤木はそれを思うと、言いようの知れぬ焦燥感に駆られるのであった。