天使のゆくえ
翌朝、藤木が目を覚ますと、ゴオオオオオオオオオオーーーーッッッッ!!! と言う爆音と、目も眩むほどのマズルフラッシュのような閃光に見舞われた。
「ぬわああああああ~~~!!!???」
あまりに突拍子も無い出来事に思わず叫んだのであるが、全く無意味な行為であったろう。絶叫をかき消すほどの轟音は、やがてドップラー効果でキーンと音を変えて通り過ぎていった。
なんじゃこりゃ? 何が起きたの? と、パニクりながら周囲を見回しても、煙が立ち込めていて何も見えない。藤木は焦りながら腕をグルグルと回転させつつ、錐もみ状態で体をくねらせ、その煙から逃れようと上へ上へと飛び立った。
ポッと雲を突き抜けるかのように、突然目の前に広大な青空が広がった。と言うか、実際、雲を突き抜けていた。空気が薄いからであろうか、紫色の空の向こうに、星々がやけにくっきりと見えた。周りを見渡しても360度快晴で、まるで大海原に投げ出されたような錯覚を覚えた。
キーン……と遠ざかる音の行方を追ってみたら、はるか彼方に飛行機の尾翼がうっすら見えた。どうやら、さっきの轟音は飛行機のジェットエンジンで、煙だと思っていたのは飛行機雲だったらしい。
「……とすると、ここは高度1万メートルとかか?」
唖然としながら真下を見れば、富士山の火口がぽっかりと口を開けていた。ぎょっとして周囲を見渡せば、遠くに伊豆半島の海岸線がはっきりと見えた……
日に日に変な場所で目覚めるようになってきたと思っていたが、流石にこれは群を抜いている。まさかこんなことになるとは……呆れるやらショックやらで、上手く考えがまとまらない。
とりあえず、すぐさま頭に浮かんだことは、富士山の上空にいるのだから、家までおよそ100キロは離れていると言うことであった。
なんとかしてその距離を踏破しなければ、新学期早々大遅刻するどころか、下手すりゃ自分を起こそうとした母親が、驚いて救急車を呼んでしまう可能性もある。大慌てで、東京方面へと体を向けると、藤木は一目散にそっちへ向かおうと体を飛ばした。
すると、ギュン……っと、もの凄い勢いで周囲の色が遠ざかり……気がつけば、ものの1分も経たずに、家の上空に着いていた。
「え? もう着いたの……?」
速い速いとは思っていたが、意識すれば正に一瞬、スーパーサイヤ人もびっくりである。思わず頬っぺたをつねりたい衝動に駆られたが、体が無いのでそうもいかず、バツが悪い思いをしながら、ふわふわと今度はゆっくり団地の上空まで降りてきた。
朝のジョギングや散歩をする人々が見える。バス停には、バスを待つサラリーマンと、部活の朝練にでも向かうのであろう、制服姿がちらほらと見えた。正確な時間は分からないが、多分、まだ早朝6時台ではなかろうか。
壁を突き抜けて自分の部屋に帰ってきたら、幸せそうな顔をした自分がベットの中で眠っていた。いや、心肺停止してるし呼吸もしてないから、寝てるというより死んでると言ったほうが正しい気もするが……
その平和そうな顔を見てたら、引っ叩いてやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えてやめた。どうせスカッてしまうだけだし、自傷行為にもならない。
藤木は、やれやれと言いながら体に戻ると、ふぅ~っと溜め息を吐きながら、戻ったばかりの体を起こした。
昨日、病院から帰ってきてから、天使のことばかり考えて宿題が手につかなかった。
病院の喫煙所で聞こえた天使らしき声。それを追いかけて見つけた病室で、こともあろうに自分自身と遭遇してしまうとは……あれは、一体全体なんだったのだろうか。
考えようによっちゃ、夢だった可能性も否定できない。実際、あの時藤木は眠くてウトウトしていたし、そしてあの後、病室のあった場所へ行こうとしたら、そんな場所など無かったからだ。
看護師に羽交い絞めにされて壁から引き剥がされ、説教を食らいながらも、あの病室がどこにあるのか聞いてみたが、奇異の目を向けられるだけで何の情報も得られなかった。もちろん、それで諦めるわけもなく、藤木は便所に隠れると幽体離脱して病院中を探し回った。多分、入っちゃいけない場所も、隈なく探した。
あの壁も抜けてみた。しかし、あの壁の向こう側は病院の外側で、古びた民家が一軒あるだけで病室なんて見当たらない。ついでにその民家も調べてみたが、ただの空き家で、日に焼けて白くなった畳と、ねずみにでも齧られたのであろう柱がみすぼらしい、昭和の遺物のような建物だった。廃墟と言っても差し支えなさそうなものだ。
結局、病院ではもう埒が明かず、母親の診察が終わるのを待って家に帰ってくると、また押入れの中を探ったりして天使の痕跡を探した。けれども、そんなものが都合よく見つかるはずも無く、天使の行方は未だに杳として知れなかった。
天使、もう一人の藤木、そしてあの病人。
彼らの顔が、頭の中でグルグルグルグルと回って、宿題などもう手につかなかった。藤木は酷く疲れる思いがしてベッドに潜りこむと、その日はもう眠ってしまうことにした。宿題なんざ出たとこ勝負である……それにしても、
「今度は、どこで目が覚めるんだろ……」
そう呟いて、藤木は眠りに落ちた。
顔を洗ってリビングへ行くと、ジュージューとした音と、肉の焼ける匂いが充満していた。キッチンに目を向けたら、妊婦が立っていた。
「おいおい、朝っぱらから……また肉しか焼いてねえじゃねえか」
「あ、藤木、おはよう」
「おはようじゃない。どけよ、俺が野菜も焼いてやるから」
「えー……藤木は酸っぱいものを食べたくなる妊婦の気持ちが分からないのよ」
酸っぱいものって、肉にかけるレモン汁のことだろうか。この親、ホントに大丈夫なのか。真面目に不安になってくる。藤木は冷蔵庫からパックにされた野菜の詰め合わせを取り出すと、ぶつくさと文句を言っている母親の手から焼肉のたれをひったくった。
フライパンの中に、夥しい量の肉が見える。一体、朝から何グラム食う気だったのだろうか……
……食べ過ぎて少々吐き気をもよおしながら、藤木は学校へ行く支度をしていた。新学期だし、もしかしたら小町が来るのではないかと思い、朝飯を少し多目に作ってみたのだが、幼馴染は結局現れず、母親と二人で片付ける羽目になった。
奥歯をシーハーシーハーさせながらリビングで大の字になっている母親を尻目に、藤木は制服を着替えに部屋へ戻ると、壁をどんどんと叩いて隣室に呼びかけたのだが、返事が帰ってくることはなかった。
先に行ってしまったのだろうか? それとも無視してるのかね……壁抜けして確かめたい衝動に駆られたが、数日前に怒られたばかりだし自重して、藤木はカバンを引っつかんで玄関へと向かった。
小町はあの日以来なんだか妙に余所余所しい。
藤木が何か怒らせるようなことでもしてしまったのだろうか? 身に覚えは……有り過ぎて困るが。もしかして昔っから積み重ねてきたストレスが、いよいよ爆発しちゃった可能性も否定できない。
だとしたらフォローしないとな……と思いつつ、靴を履こうとしゃがみこんだら、腹がつっかえて滅茶苦茶苦しく難儀した。小町もそうであるが、あの母親をどうにかせんと、近いうちに力士になってしまうだろう……
バスを二台乗り継いで、久々に登校した成美高校は夏休み前と何も変わらず、あいもかわらず中途半端なお嬢様学校をしていた。二学期デビューしちゃったような、とんちんかんな生徒は見当たらない。
バスを降りて河川敷の野球場、部室棟の見える橋を渡って正門を潜ると、左手にはイギリス式庭園、右手には中等部のグラウンド。真っ直ぐ進むと高等部の真新しい校舎がデーンと構えており、その裏には例の旧校舎があった。
あちらこちらで、おはようとか久しぶりとか挨拶を交わす声が聞こえる。藤木はそんな人の流れに身を任せつつ、俯き加減にダラダラと歩いていた。
五月病と言うわけではないが、正直なところ、あまり学校には来たくなかった。と言うのも、補習最終日、カラオケ屋で見せたクラスメイトたちの自分に対する認識のずれがあったからだ。自分だけが相手のことを知っている関係と言うのは辛い。教室に入って、彼らにどう声をかけていいのか分からないのだ。
どうしようかな……と、ぐずぐずしながら下駄箱で靴を履き替え、教室へ入ると案の定、おやっと首をかしげると言ったような、奇異の視線にぶつかった。その無遠慮な視線を掻い潜り、自分の席にどかっと腰を下ろすと、小首は傾げつつもそれ以上は気にせず、みんな思い思いの作業に戻ったようだった。
覚悟はしていたが、非常にやりづらい……
つーか、元々天使の仕業っぽいし、彼女が居なくなったのなら、元に戻っても良さそうなのに……そんな淡い期待は脆くも崩れ去ったようである。
見た感じ、クラスメイトはやっぱり藤木のことを忘れたままで、彼は完全に孤立していた。
転校生でもあるまいし、今更自己紹介するわけにも行かないから、相手に自分を知ってもらう機会がない。いっそ担任教師に頼んで、本当に転校生ってことにしてもらえないだろうか。じゃないと、今後どうクラスに馴染んでいけばいいのか不安である。特に、席が近い鈴木たちとはどう接したらいいんだか……と溜め息混じりに悩んでいたら、藤木の隣の席にポンとカバンが置かれて、
「…………おはよう」
と声を掛けられた。
こんな状況で、藤木に声をかけるなんて、一体誰だろう? 視線を向ければ佐村河内が立っていた。
「お、おう! 久しぶりだな」
そういえば、この男は藤木のことを覚えているんだった。藤木は思わず、ホッとした。
しかし、元々生殖器以外のことには殆ど興味を示さない男であるから、何を話していいのかが分からない。その分からなさはもしかしたら、鈴木たちより性質が悪いかも知れないだろう。
結局、窮地に立たされてる状況は変わらないじゃないかと苦虫を噛み潰していたら、ふと思った。
「つか、佐村河内。当たり前のように俺の隣に座ってるけど……」
そこって、天使に譲った席じゃなかったっけ? と言い掛けて、藤木は言葉が詰まった。教室の後ろを見ると、天使の代わりに追いやられたはずの、佐村河内の席が見当たらない……
キーンコーンカーンコーン……と予鈴が鳴る。
「……はぁ~……新学期は憂鬱ね。人を殺伐とした気分にさせるわ。どうして毎日が夏休みじゃないのかしら…………」
と、ダウナーなオーラを隠そうともせずに、担任の立花倖が教室に現れた。教室中に散らばっていたクラスメイトたちが、慌てて自分たちの席に着席する。藤木のすぐ後ろの席に、人影が滑り込んだ。後ろをちらりと振り返ったら、鈴木が「ども」と言いながら会釈を返してきた。おかしな反応をされてしまい、頭痛が痛い……
「えーっと、今日は集会だけだから。このあと体育館に移動して、プリント配って終わりよ。あんたたち、宿題はちゃんとやってる? 一応、期限は今日までってなってるけど、回収するは週明けだからそのつもりで……分かってるわね?」
教室中からやんややんやと声が上がった。この反応からすると、どいつもこいつも似たり寄ったりなのだろう。ぶっちゃけ藤木もそうであったが……ともあれ、学校側としても落ち零れさせたくないゆえの寛大な措置なのだろう。
「それじゃ、出席取るけど……あれ?」
クラスメイトのざわめきを無視して話を進めようとしていた倖が言葉を詰まらせた。彼女は出席簿を嘗め回すように、上から下へと何度も視線を動かし、最後に眉根を顰めると教室に顔を向け、それをじっと見ていた藤木と目があった。何が起こったかは、想像に難くない。
「……それじゃ、出席取るわよ。ほら、いつまでも騒いでないで、返事しなさいよね。相沢~……」
やがて、藤木藤夫の名前が呼ばれると、クラス中からちょっとしたどよめきが起こった。
どんな化学反応が起きてるか分からないが、数人のクラスメイトの口から「ああ、あいつか」という呟きが漏れた。もしかして、天使の催眠術が解けたのだろうか?
それは分からないが……
そして、立花倖の読み上げるクラスメイトの名前に、藤木天使という名前はついぞ現れることはなかったのであった。