……にゃ?
初めは気にも留まらないくらい、些細なものだった。久しぶりに散々オナって眠った翌朝。藤木は目が覚めると、部屋のドアに頭を突っ込んだ状態で横たわっていた。
寝相が悪すぎてドアにダイビングヘッドをかましたわけではない。どうやら、眠ってる間に、勝手に幽体離脱して、幽体だけふわふわと部屋の中を漂っていたようだ。
こう言うのはなんていうのだろう? 寝相が悪いとは言わないだろうし、寝魂が悪いとか言えばいいのだろうか……なんて読むんだ? ねたましい? ともあれ、命に関わるような問題でもないから、藤木はあまり気にしないで体に戻ると普通に日常生活を送り、夜寝るころまでには朝に起きたことなどすっかり忘れていた。
しかし……翌朝起きると、今度は青空の下に居たのである。その翌朝は同じ団地の見知らぬ家の中にいた。そしてその翌朝には……
毎朝、見知らぬ場所で目が覚めて、驚きつつも自分の体を探して、えっちらおっちら家まで帰ってくることを繰り返しているうちに、流石に笑っては居られなくなってきた。
誰かに相談をしたいのだが、適任者が居ないのが痛かった。
小町に言ったところで意味ないだろうし、立花倖にしたってお手上げだろう。本来ならこういう摩訶不思議な事柄は、天使が担当していたはずだが、肝心の本人が居ない今の状況ではどうしようもなかった。藤木が彼女に疑いを持った瞬間から、気がつけば彼女は居なくなり、そしてその行方は杳として知れないでいる。
一体、彼女は何者だったのだろうか?
そして今、自分に何が起きているのだろうか?
分かっていることと言えば、以前のようにオナらずとも幽体離脱出来るようになって、自由になったというよりも、寧ろ不自由になったと言う事だろうか……
そう。不自由になったのである。例えば、こんな出来事があった。
風呂屋を探して炎天下の町並みを汗をかきつつ徘徊している時だった。
公園通りの並木道を歩いていると、対面から親子連れが歩いてきたので、藤木は歩道の脇に避けた。お祭りか遊園地にでも行ってきたのか、子供は空飛ぶ風船をプカプカ浮かべ、きゃあきゃあとはしゃいでいた。しかし、狭い歩道を目いっぱい横に広がっていた親子連れは、通りすがりにそれでも藤木を避けきれず、かわいそうな子供が行き場を失って、足をもつれさせてすっ転んだのだった。
非難がましい視線が突き刺さる。おいおい、自分は何も悪くないぞ……
自業自得だろうに、なんだか気まずい空気が流れる中、泣き出した子供が手放した風船が空に舞い上がった。
ふわりと浮かび上がった風船から垂れたヒモが、藤木の頬をくすぐるように掠めていった。彼は咄嗟にそれに手を伸ばした……しかし、掴もうとした手はスカッと素通りし、残念なことに風船は瞬く間に空の彼方へと上がっていった。上空で風に揺られた風船が、空の青に溶けて点になる。
届いたと思ったのになあ……と思いつつ、藤木がバツの悪い顔をしながら親子連れに顔を向けたとき、
「きゃああああああああああ!!」
と母親らしき女性が盛大に悲鳴を上げるのだった。
おいおい、今度はなんだよ? はた迷惑な家族だな……と、彼女の視線の先に目を向けたら、なんとそこには顔面から地面に突っ込んだ藤木が、ケツを高々と上げた格好で倒れ伏しているのだった。
どうやら、無意識的に幽体離脱していたらしい。
こりゃやばいと、慌てて体に戻った藤木は、愛想笑いをしながら家族連れの脇をすり抜けた。
ズキズキと痛む額から血が滲んで滴り落ちる。
ついてないな……と思いながら振り返ると、家族連れがまだ奇異の目を向けてこちらを見つめていた。
テクノブレイクせずに幽体離脱したあの日から、意識的にしろ無意識的にしろ、藤木の魂は体から抜け出やすくなっているようだった。基本的には、彼自身が意識してコントロールすることが可能であったが、この時のように咄嗟であったり、眠っているときはそうとも限らないようで、気がつけば勝手に体から魂だけが飛び出てしまうようなのだ。
また、これとはまた傾向が違うが、無意識的にやってしまったことがもう一つあった。それは小町の部屋への壁抜けである。
ある日、藤木は夏休みの宿題を小町に写させてもらおうと、当たり前のように壁抜けをして隣室へと赴いた。テクノブレイクしていたときの習慣だったからか、全くもって無意識的な行動だった……しかし、その日の小町は虫の居所が悪かったのか、それとも二日目だったのか。壁抜けしていきなり声をかけてきた藤木に対し、珍しく怒りをあらわにした。
「あんた、ちょっとそこに座りなさいよっ!」
「あ、はい」
座れと言われても幽体だし、見えてるわけでもないのでベッドに横になって、股間をぼりぼりと掻き毟りながら聞いていると、小町は滔々と語った。
曰く、幼馴染とは言え、女の部屋にノックもせずに無断で入るのはどうなのか。しかも自分の方は藤木の姿が見えないし、気配も感じないので、いつ来たのかも分からなければ、もしかして今こっそり藤木が自分を覗いているのかも知れない……と思って気持ちが悪い。
「あんた、逆に自分があたしと同じ境遇だったら、どう思うわけ?」
と言われて、思わず居住まいを正した。
確かにそりゃあ気分が悪かろう。落ち着いておちんちんも弄れまい。実際、オナニーの真っ最中に来ちゃったことも何度かあったし。
「もう、嫌なのよ。あんたにこうプライベートまで侵食されて、最近じゃ落ち着いて眠ることも出来ないわよ。親しき仲にも礼儀ありって言うでしょう? 今までは、あたし以外にあんたを助けることが出来なかったから、仕方ないって思ってた面もある。でももう必要ないんでしょう? だったら弁えなさいよ。あたしはねえ、あんたの都合で生きてるんじゃないのよ!!」
「……ごめん」
珍しく理路整然と抗議され、なおかつ興奮して肩で息をしている相手に対して、宿題を見せてくれなんてもう言いだす事も出来ず、藤木は平謝りに謝ってその日は部屋に戻った。
そして翌日、頭も冷えただろうと思い、部屋の窓からベランダ伝いに小町の部屋の前まで行くと、藤木は窓をトントンとノックした。
「おーい、小町ぃ~?」
しかし声を掛けても返事が無い。今度こそ宿題を見せてもらおうと思ったのだが、もしかして留守なのだろうか……取りあえず、不在かどうか確かめようと、藤木は幽体離脱をしようとして、ハッとして固まった。
最近、人間離れしてきている……
昨日の今日で、もう幼馴染の気持ちを踏みにじるようなことを、平気でやろうとしている自分に気づき、藤木は寒くも無いのに冷や汗をかいた。
夏の日差しがジリジリとうなじを焼いて痛い。
でもそれ以上に胸が痛かった。
結局、それが切っ掛けとなって、藤木は宿題を見せてくれと言い出しづらくなってしまった。なんとなくであるが、どんな顔をして会えばいいのか分からなくなってしまい、そんな状態では気楽に物を頼むことなど出来るわけもない。
仕方ないので、他に当てになりそうなクラスメイトを思い浮かべるが……唯一、頼りになりそうな朝倉は小町との関係上、頼んでしまったら角が立ちそうで難しい。それに中沢がうざそうだ。次点で思い浮かんだ佐村河内は保健体育以外は役立たずだろうし、鈴木たちはそもそも藤木のことを覚えているかどうか疑わしい……
というわけで仕方なく、藤木は自力で山のように積まれた夏休みの宿題をやる羽目になってしまった。正直、積んでると言うよりも、詰んでると形容した方が正しいような状況であったが……ところで、追い詰められれば追い詰められるほど、人間は逃避行動に走りやすくなるのは何故なのだろうか。
もう夏休み最終日だと言うのに、午前中にふと思い立って、バスに乗ってスーパー銭湯に行くわ、警察にしょっぴかれるわ、刑事にソバを奢られるわ……字面にすると何か凄いが、ともあれ、散々時間を無駄にして帰ってきたときには、もう夕方と言っていい時間帯であった。
カリカリカリ……と、シャーペンを滑らす音が部屋の中に響いている。
ここまで来たら、真面目にやっていたら確実に終わらないことだけは分かっていたので、もはや問題など見ないで、藤木は適当に空欄に文字を書き入れていた。
そろそろ、諦めるということを真剣に考えなければならないかもな……とりあえず、手をつけたけど分かりませんでしたと言って、誤魔化せそうな問題をピックアップして、積極的に言い訳を考えた方が良い。もう別の努力にシフトしようぜ……
そんな風に、藤木が画策しているときだった。
部屋のドアがノックされて、
「藤木ぃ~? 帰ってきてるの? あんた、夏休みももう終わりなんだからね。遊び惚けてないで、ちゃんと宿題終わらせなさいよ」
と、母親が顔を覗かせた。でかくなった腹を突き出すようにして、トントンと腰を叩いている。正直、問題しかなかったが、
「大丈夫だ、問題ない」
と言うと、彼女は満足そうに頷いて言った。
「そう? だったら良いんだけど。お母さん、これから病院に定期健診行ってくるけど、帰りに何か買って来ようか?」
「……付き添い無しで平気か? 最近、歩くのもしんどそうだが」
「大丈夫よ。初めてじゃないんだし」
そうは言うが、母は先日パートを休職した。臨月まではまだまだあるが、つわりも酷かったし、最近は暑さのせいか体調も優れず、大事を取ってのことである。
天使がいれば、彼女に任せられるのに……と考えて、藤木はプルプルと頭を振るった。何を考えているのだろう、自分は。
「やっぱり、俺も行こう」
「え? いいわよ、別に」
「帰りに何か買うって、今日の夕飯だろ? 肉ばっか食ってると栄養偏るぞ。俺が野菜炒めくらいなら、作ってやるから」
「あらやだ藤木、なんだかお母さんみたい」
斬新な切り替えしに頭がクラクラした。やはり、こんな母を一匹で野に放っては心配しかない。藤木は彼女に付き添って、病院にいくことに決めた。決して宿題から現実逃避したいわけではない。
母親の通院する市立病院に着くころには日が傾いて、少しは過ごしやすくなっていた。徐々に秋めいてきた上空を、トンビが凄いスピードで滑空していった。澄んだ青空には雲ひとつなく、多分、新学期開始の明日も快晴だろう。
一体どのくらい税金かかったのだろうかと、感心しそうになるほど立派な玄関を潜って院内に入ると、昼間の暑さのせいかガンガンにクーラーが効いていて、くしゃみしそうなほどだった。
病院に来るのは久々であった。確か、前回来たときは、ゲロにダイブした母親と救急窓口から入ったから、こちらの玄関から入るのは初めてである。
外来窓口に診察券を提示して産婦人科へ。
産婦人科は二階であったが、階段は怖いからと主張してエレベータを待っていたら、母親の妊婦友達がやって来て、二人して大げさに挨拶を交わした。かと思うと、その場で井戸端会議を始めやがった。
小母さんたちはどこでも井戸端会議を始めるものである。エレベータがやって来ても、前に陣取って動こうとしない小母ちゃんたちを強引に押しこんで、二階の産婦人科受付に連れて行くと、これまた別の妊婦友達がやって来たものだから、もはや井戸端などは通り越して、いよいよサバトのようになってきた。こりゃ溜まらん。
「それじゃ母ちゃん、俺は下の売店にでも居るから、終わったら電話して」
藤木はそう告げると、一秒でもここに居たくないと思って、エレベータは待たずに階段を駆け下りて一階へと戻ってきた。
玄関ロビーの椅子にでも座って待とうかと思ったが、時間帯から外来受付も面会時間も過ぎており、一階の外来窓口と薬局は閑散としていた。普段は人口密度が多いのだろうか、他の階よりもガンガンにクーラーが効いていたそこは、こうなっては寧ろ逆に寒くなりすぎて、病院にしては体に悪そうな空間になっていた。
Tシャツ一枚で上着などなく、流石にこれじゃ肌寒いと思い、仕方なく他にいい場所が無いかときょろきょろと見回してみたら、駐車場に続く裏口に面したところにガラス張りの喫煙所があって、中にジュースの自販機が見えた。
構造的にクーラーの風は避けられるだろうと思い、中に入ると期待通りに丁度いい塩梅でぬるくなっていた。幸い、喫煙者は居ないようで臭いの心配も無い。藤木は自販機でカフェオレを買うと、備え付けのベンチに寝転がった。
その日は朝から駅前に行ったり、宿題に追われたり、こうしてまた外出して病院に来たりと忙しく、また、ここ数日の寝て起きたら見知らぬ場所にいたという現象から、眠りが浅かったのだろう。カフェオレを飲み終えた藤木がベンチに横になっていると、次第に睡魔が襲ってきた。
うつらうつらと船を漕ぎなら、外来受付をぼんやりと眺める。母親の診察はどのくらいで終わるだろうか? 時計を見ると、まだ10分少々しか経っていない。ブルブルと頭を古って眠気を追い払おうとするが、喫煙所の気温がいい具合に暖かくて、抵抗する気力を殺いでくる。
ああ、こりゃやばいな……中に戻ってクーラーに震えるか、それとも別の場所を探そうか……いっそ眠っちまおうか。
しかし、ここ数日の体験から、下手に眠ってしまうとまた幽体離脱間違い無しだろう。場所が場所だけに、死体を発見されたらことである。
やっぱり中に入ろうか、どうしようか……それにしても眠い。
「…………にゃ」
ぐずぐずぐずぐずと眠気と格闘しながら、ぼんやりと薄目を開けて病院内部を見てみる。
それにしても、面会時間が過ぎたからって、人が少なすぎやしないか? 病院が繁盛するって言い方は悪いが、こういったでかい総合病院は、いつ来ても人でごった返しているイメージがあるが……今は人影が見当たらない。
「それで…………が……ですにゃあ……」
時折、どこかから人の気配と声が聞こえるくらいで、本当に人が居ない。
本当に……
本当に……
「にゃ?」
ガバリッ! と、音が出んばかりの勢いで、藤木は飛び上がるように起き上がった。
「今、なんつった? どっからだ?」
なんか、語尾ににゃあとかつけて喋る女の声が聞こえたような気がする。
あれはなんだ? いや、決まってるだろう、なにはあれだ。だからなんだよ。いやいや、考えている場合ではない。
藤木はすぐさま喫煙所から飛び出すと、声の聞こえた場所を探って辺りをきょろきょろと見回した。
どこだ? どこだ? どこだ?
「………………にゃ」
耳を澄ますと、どこか遠くのほうから聞こえてくる。
「こっちかっ!」
外来受付とは逆の方、救急搬送口の脇から伸びてる廊下から声が聞こえてきたような気がした。確か、藤木も数ヶ月前に通った道だ。
角を曲がると細長い廊下が奥まで続いていた。レントゲン室やらリネン室やら、なにやら得たいの知れない処置室なる小部屋がずらずら並んでおり、突き当りまで行って、また廊下が曲がっていた。
廊下を曲がるとまた細長い道が続いていて、廊下の床には案内用のカラーの線が真っ直ぐに伸びていた。青色を辿れば内科、黄色を辿ればICU、赤色を辿れば手術室……そんな具合の案内が書かれたプレートが階段の壁にかかっている。
声の主はどこだろう? と気配を探ると、階段の上からはっきりとはしないが声が聞こえた。藤木は真っ直ぐにそっちへ向かった。階段へ伸びているカラーは緑色と紫色。一般病棟と療養病棟。
二階、三階と階段を駆け上がると、四階で気配が廊下側へと移った。
それにしても、さっきからそれなりの速度で追いかけてるのだが一向に追いつかない……しかし、確かに聞こえたよな? と不安に駆られていると、
「…………ですからにゃ」
などと声が聞こえてくる。
「くそっ!」
何だか嫌な感じしかしない。
四階の療養病棟の廊下は静けさに包まれて、人っ子一人見当たらなかった。長い廊下の片側に病室が並び、入り口はクリーム色のカーテンで目隠しされている。
藤木が声のした方へと向かうと、やがて医局を中心にした十字路に辿り着いた。そして、どちらへ行けばいいのだろうかとキョロキョロしていたら、左手の廊下の奥で人影が揺らめいた。
その人影は遠目であったから、はっきりとは分からない。
しかし、そのシルエットは良く知っている人のように思えた。
躊躇してる場合ではない。藤木は人影のいた、廊下の奥へ奥へと足を向けた。
先ほどから同じような病室が、ずっと続いている。部屋の入り口には恐らく入院患者のネームプレート。入り口はクリーム色のカーテンで目隠しされて、人の気配があまり感じられずに、恐ろしく静かだった。一階とは違って空調も穏やかで、管理に気を配ってる様子が窺える。
やがて廊下の突き当りまで来ると、藤木は先ほど人影が消えた病室の前に立ち止まった。廊下の端のその場所は、非常口もない本当の突き当たりで、もしも火事にでもあったら大変なことになるのではないか? と要らんことを考えてしまうほどに、空気が淀んでいた。
入り口は開け放たれており、他とは違ってカーテンが開いていた。入院患者の名前を知ろうとネームプレートを見るが空白で、それだけ見たら空き室のように思えた。
しかし、そこは空き室ではなかった。中から気配がするのである。部屋の中にはベッドが置かれて、そこに誰かが眠っている。そして、ピッピッピッ……と、ドラマや何かでよく聞くような心電図のパルス音が、はっきりと聞こえてくる。
心なしかその音は、頭の中に直接響いてくるような気がした。
藤木が意を決して一歩踏み込むと、部屋の中の空調のせいなのか、何か肌寒いような空気がまとわりついてきた。部屋は暗幕がかかって薄暗く、まるでこの部屋だけが冬に逆戻りしてしまったような感じだった。
入り口から見える範囲には人の姿は見当たらない。天使が居るならもっと奥だろう。見知らぬ人の病室に入るのはマナー違反だし、せめて声くらいは掛けるべきだろうか。しかし、藤木は結局声を出さずに病室に足を踏み入れると、迷うことなく部屋の奥を覗き込んだ。
そこは言ってしまえば普通の病室だった。
部屋の中には何の変哲も無いベッドが置かれて、来客用のパイプ椅子が一脚と、備え付けの棚と、多分使われて無いだろうテレビが置かれ、あとは別段変わったところは何も無い。
ただ、そこの入院患者のせいか、部屋は暗幕をかけられて薄暗く、そしてベッドの傍らにはゴテゴテとした大きな機械が置かれており、ピッピッと今も音を立てながら心電図が動いていた。人工呼吸器などはつけられていない。
藤木が部屋の中を見回してみたところ、天使の姿は見当たらなかった。
だから初めはもしかして、そのベッドに眠っているのが天使だったりしないだろうかと、あらぬ憶測を立ててみたりもした。
しかし、いざその寝顔を覗き込んでみたら……
「誰だこれ……」
見知らぬ男が眠っているだけだった。女ではない。男である。天使を追いかけてきたはずが、面食らってしまった。
「もしかして、病室間違えたのかな……?」
廊下で人影を見たときは、かなり遠目だったから、もしかしたら隣の病室に入ってしまった可能性も否定できない。だとしたら、とんだ間抜けである。藤木は苦笑すると、恐らく意識が無いであろうその入院患者にぺこりと頭を下げて、
「いや、すんません、お騒がせしました」
と言って、病室から出ようとした。
コツコツ……
しかし、廊下から誰かが近づいてくる足音が聞こえてきて、足が止まった。
コツコツ……コツコツ……
と、その足音が段々と、この病室まで近づいてくるからであった。
あ、これ、ちょっとやばいかも……
藤木は焦った。もしもこの足音の主がこの部屋の見舞い客だとしたら、いきなり藤木みたいな侵入者と出くわしたら騒ぎになるかも知れない。
どうしよう、隠れようか? いやいや、下手に隠れて見つかって、逆に騒ぎになってもことである。ここは堂々として、部屋を間違えた旨をはっきり伝えた方がいい。それより、早く隣の病室へ向かわなければ、もしも本当に天使が居たとしたら逃げられてしまうかも知れない……
などと考えていると、部屋の外にぬっと人影が現れた。
しまった、タイムリミットのようだ。ここは下手な言い訳などしないで、素直に謝るしかない。藤木は愛想笑いを浮かべながら振り返った。
「あ、すみません。決して怪しい者じゃ……」
だが、その愛想笑いが凍りついた。
病室に現れた人影は、部屋に入ると当たり前のようにパタリとドアを閉めた。淀んでいた空気が巻き上がり、風がピューと音を立てた。
男は部屋に入るや否や溜め息を吐くと、中に居た藤木などお構い無しにパイプ椅子を引っ張り出して、そこにどっかりと腰を下ろした。まるで藤木など目に入らないとでも言わんばかりに。
「なんで……だ……?」
藤木は咄嗟に自分の体を見た。
厳密には見ようとして、見れなかった。
藤木は事ここに至ってようやく、自分が幽体離脱していることに気がついた。多分、天使の声が聞こえたと思い、飛び上がったときに体から抜けてしまったのだ。
「おい……おい!」
しかし、そんなこと、もうどうでもよかった。そんなことよりも、もっととんでもない出来事が、今目の前で起きていた。
「おい! どうして、俺が居るんだ!?」
今、藤木の目の前に藤木が居た。
藤木が近づいてくる足音に隠れようかどうしようか迷っていたら、病室に現れたのは藤木だった。後からやってきた藤木は、季節はずれの厚着をして何か悩み事でもあるのか、真っ青な顔をしてパイプ椅子に座ると、盛大な溜め息を吐いてうな垂れた。
「おいっ! なんとか言えよ! こらっ!」
藤木が大声でどなりつけても、藤木はうな垂れたまま動かない。藤木は咄嗟に思い立って、藤木に乗り移ろうと体に触れたが、藤木はぴくりとも反応しなかった。
何が何だか、まったくわけが分からない。
「おおわっ! おああああああ~~~!!!」
藤木はパニックになりながら叫んだ。どうにか目の前の藤木に自分が藤木であると伝えようと必死になってもがいたが、幽体離脱した藤木では何も出来ず、ただうな垂れた藤木が溜め息を吐いている姿を、藤木は見ていることしか出来なかった。
何か色々と叫んでいた気がする。けど、多分それは何の意味も成さない、ただの獣の鳴き声のようなものだったろう。完全にパニックになった藤木は我を見失った。
がむしゃらに腕をかき回して……
大暴れに、暴れに暴れて……
そして、唐突に現れた重力に引っ張られて、
「ぐげっ……!?」
ベンチから飛び上がるように落っこちて、手首を強かにくじいた。
「ぎゃっ! いったっ! 痛いたいたい!!」
思わず叫びながら、痛む手首を手で押さえていると、
「君っ! 君、大丈夫かね? 君っ!」
見知らぬ白衣を着たおっさんが、いきなり藤木の肩をつかんでブンブンと体をゆすってくるのであった。
藤木は気がつけば元の喫煙室の中に居た。
隣には多分、タバコを吸いにやってきたのだろう、医者が心配そうな顔をして立っていた。
痛みと困惑でぶるぶると震える手で額を拭うと、バケツでも被ったかのようなもの凄い汗がびしゃりと腕を汚した。
「君、大丈夫なのかね? 僕がここへ来たとき、意識が無かったので、今処置をしようとしていたところだった……変だな。呼吸も脈拍も無かったように思えたのだが……」
呆然と腰を抜かし放心する藤木に、医者が問いかける。
藤木はハッと我に返ると、
「いや、平気です。大丈夫……大丈夫」
まだ震える体を必死に宥めて起き上がった。
「待ちなさい。まだ安静にしておいた方が」
「いや、慣れてますから」
「医者の言うことは聞きなさい」
そう言って、藤木の手を引っ張る医者を振り切って、藤木は喫煙室から外へ出た。
まだ背後から声をかけてくる医者にはお構い無しに、彼は駆け出すと、救急搬送口のある脇の廊下を突っ切った。レントゲン室リネン室、やがて突き当たりに来て案内板のかかった階段を一気に4階まで駆け上がる。
玉のような汗をかき、はあはあと息を乱す藤木に、ぎょっとして通りすがりの患者がみんな振り返った。時折、ぶつかりそうにもなって、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
おかしい……さっきは、ただの一人ともすれ違わなかったのに……
混乱する頭のまま、藤木は4階の医局へとやってくると、息を乱したまま立ち止まった。立ち止まらざるを得なかった。
医局の中で看護師が、迷惑そうに眉を顰めて藤木を見た。入院患者らしき人たちが、何かただならぬ様子の藤木を遠巻きに眺めている。
藤木は医局の横の壁に手を付くと、ガンガンとその壁を殴りつけた。ガンガン、ガンガンと、何度も何度も殴りつけた。驚いて駆けつけた看護師に羽交い絞めにされるまで、いつまでもそれを続けた。
さっき、十字路だったその廊下は、今はT字路になっていた。