10
玄関を開け、不承不承部屋へ通し、来客用のカップで紅茶を入れた。
猫舌なのか、ふーふーと、熱そうにしながらもおいしそうにそれを飲み干した少女が言うには、彼女は神の使い、いわゆる天使であるとのことらしい。ほんまかいな。
「重ね重ね失礼な人ですにゃ」
「それをそのまま鵜呑みにしろってのも無理があるだろう」
「でもポチは本物にゃん。信じるにゃん」
「む……むーん。百歩譲って信じるとして、どうして俺のとこに来たんだ?」
「さっきも言ったとおり、神様にお祈りしたからだにゃん」
「……確かに、したような覚えはあるが……だが待てよ? 俺は別に信心深い仏教徒でも、クリスチャンでもムスリムでもないんだぞ?」
「宗教は関係ないにゃ、神様はどんなお祈りでもちゃんと聞いてくれるにゃん」
「アホか。それが本当なら世界はもっと平和だ」
「聞いても叶えてくれるとは限らないにゃ」
そりゃまあ、そうか。
「するってーと、なにかい? てんぱった俺が神様助けてーっとお祈りしたもんだから、それを聞き届けた神様が、あんたを遣わせたと、こういうこと?」
「正確には違うにゃ。お祈りを聞き届けた神様が、それを受理しようかどうか検討中に、藤木さんが生き返ったにゃん」
何が起きたか知らないが、こりゃ一大事とばかりに、神様は彼女を遣わせた。
「本当ならお願いは聞き入れられず、お迎えがくるはずだったにゃん」
「げっ、マジかよ。あぶねー……ギリギリだったんだな。そうならなくて良かったぜ」
「ちっとも良くないにゃん」
そういうと、少女はずずずいと藤木に覆いかぶさるようににじり寄った。顔がくっついてしまいそうなくらいに距離が近い。藤木は仰け反った。
「藤木さんは分かってにゃいかも知れないけど、死んだ人間が生き返るってことは本来絶対にあってはならないことにゃ」
「なんだよ。奇跡の生還とかってよくテレビでやってるだろ」
「ああいうのは、単に元々死ぬ運命じゃなかったからにゃ、蘇生措置を行えば生き返るという運命だっただけにゃ。そうじゃなくって、人間の生死って言うのは、例外なく運命で決められていて、死ぬと決まったら絶対に死ぬ。それに抗うことは絶対に出来ないはずなのにゃ」
「……えーと、つまり、俺が生き返ったのは、神様からしても完全にイレギュラーで、本来ならとっくに死んでいたと?」
「そうですにゃ」
そう断言されると、なんだか面と向かって死ねと言われてるようで、心なしかむかっと来たが、女の子相手に大人気ないと思い、ぐっと我慢して先を促そうとする。だが、
「と、言うわけで、藤木さんには死んでほしいにゃ。今日は、それをお願いに来たのにゃん」
「はあ!?」
そのものずばり、気楽に言ってくれたものである。これは怒っていいだろう。
「なんでだよっ! 別に俺はあんたや神様に、生き返らせてもらったわけじゃないんだぜ? 自力で生き返ったんだから、文句を言われる筋合いはないはずだ。そもそも、俺が今日死ぬ運命でしたなんて言われても、はいそうですかなんて納得できるもんか」
「確かに、そうかも知れないですけど、本当のことなのにゃ」
「信じられないね。なんか証拠があるならともかく」
「それなら簡単にゃ」
「え?」
少女は胸を張って、えへんと咳払いしてから言った。
「藤木さんはオナったら死ぬにゃ。それは抗いようのにゃい運命。藤木さんの寿命が、とうに尽きている証拠ですにゃ。もう既に、一度試しているから分かるはずにゃ」
ぐうの音も出ない。
「……じ、じゃあ、俺ってばこれから一生オナったら死ぬの? 冗談抜きで?」
「一生、死ぬって……にゃんだか日本語が変ですけど、そうですにゃん」
くらくらと眩暈がして視界がぼやけた。始めに幽体離脱したときから、ただごとではないとは思っていたが、本当にただごとではなかった。
「嘘だろ!? 俺、まだ17なんだよ? レンタルショップでエロビデオ借りられないお年頃だよ? めっちゃ若いじゃん! 何で死ななきゃいけないのよ。まだまだやりたいこといっぱいあるんだよ。ワンピースの最終回を読みたかった。ドラクエの最新作で遊びたかった。来月のサンクリの原稿だってまだなんだよ? 夏コミの当落発表もまだなんだよ? それになにより、テクノブレイクってなんだよ! ただ死ぬだけじゃ飽き足らず、死んだ後まで苦しまなければならないというのか? 俺が何をしたってんだ!」
そう叫ぶと藤木はガン泣きした。くしゃくしゃに歪んだ顔は、目を背けたくなるほど不細工で、涙と鼻水とよだれが滝のようにボタボタと流れ落ち、それはそれは汚い泣き顔であった。
「おおお、落ち着くのにゃ。まだ話には続きがあるにゃん」
「ぐすん……ぞう゛な゛の゛?」
「神様も鬼じゃないにゃ。生き返ってしまったのは仕方ないから、身辺の整理をつける時間くらいはくれるそうにゃ。それから、藤木さんのお願いも、部分的に聞いてくれるそうですにゃ」
「えーっと、俺の願いっていうと」
「死因ですけど、性交死であるなら、どんなものでも認めるそうにゃ。藤木さんはテクノブレイクで死ぬのが嫌なのにゃね?」
「お、おう……それが?」
「それなら簡単にゃ。オナニーでなく、セックスして死ねばいいにゃ」
「おー! 確かにそれなら恥ずかしくないぞ……って、アホかーい! 絶望的やんけっっ!! そんな気軽に、17年間守り抜いた童貞を捨てられるなら、誰も苦労せんわいっ!」
「にゃにゃにゃ!!」
いきり立つ藤木にびびって、少女は仰け反った。
「おおお、お隣の可愛い子に頼んでみてはどうかにゃ?」
「おまえ……恐ろしいこというよね? 多分それ、性交死する前に撲殺されるよ?」
「そ、そうにゃんですかにゃ? 多分、上手くいくと思うのにゃけど……えっと、それじゃ、藤木さんさえよければ……」
聞き間違いかと思った。
「ポチとしますかにゃ?」
けど、多分、間違いなく、彼女はそういった。
「……はあ?」
人が童貞だと思って、からかっているのだろうか?
ひっぱたいてやろうかと、剣呑な顔つきで抗議の声を上げようとしたら、少女がずずずいっと、藤木の方へとにじり寄ってきた。思わず仰け反るようにして後ずさる。しかし、それを逃すまいと、更にずずずいと体を寄せてきて、まるでタックルするかのように、少女は藤木の胸に飛び込んだ。
「うわっと! なにすんだよっ!」
「もちろん、セックスですにゃん。藤木さんの童貞を奪うんですにゃ。あとついでに命も」
「ちっ……一見、年下っぽいからてっきり初心なのかと思えば、とんだビッチだったか」
「藤木さんは女の子に幻想を見すぎにゃ」
少女は藤木を押し倒すと妖艶に笑い、着ていた服の肩をはだけた。信じられないほど真っ白な肌が露わになって、藤木の心臓は早鐘のように鳴った。
どさくさ紛れになんだか変なことになってるが、本当にこんなことしちゃっていいのだろうか……しかし据え膳食わぬは男の恥とも言うし……どぎまぎしながら心の中で葛藤が続く。
ぷちんぷちんと藤木の上着のボタンが次々と外されていく。そして露わになった胸を指先で、弧を描くように彼女は優しくなで上げた。
「あふんっ」
しかし、体は正直である。藤木は脳みそでなく、脈動する下半身に考えを委ねることに決めた。そう決めた。ところが、
「……や、やさしくしてね? わたし……初めてなのっ」
「安心するにゃ。ポチも初めてにゃん」
「……はい?」
「大丈夫にゃ、リラックスしてポチに体を預けるにゃ。知識は完璧にゃん」
「おいこら」
女の子に迫られるという未知の体験で、つい雰囲気に飲まれてしまった。藤木はぐいと少女を押しのけると、にゃんと喘いで彼女が非難がましい顔をした。
「にゃ? 往生際が悪いのにゃ」
「いや、おまえ、初めてなら初めてと言え。こんな行きずりで処女捨てちゃっていいわけ? お兄さんちょっと心配になりました」
「?? それがにゃにか? 悪いことなのかにゃん?」
見つめる瞳は、これっぽっちの悪気もない。
いや、悪いことかと問われると、別に悪いとは言い切れないわけだが。このまま、やっちゃってもいいのだろうか……しかしこの少女に、ここまで思い切る理由も無さそうである……藤木は逡巡し、戸惑った。
それでもやはり、おかしいことはおかしい。
「いやいやいや、だが待て! やっぱりそれはおかしいよ。良い悪いの二元論でもないし、そもそもこんなんしたって、おまえになんの得もないじゃん!?」
「……?? ポチにもちゃんと得はあるんにゃ」
「……あ、そなの?」
「ポチは藤木さんを天国に連れ帰って、一級天使に昇格するのにゃ」
その言葉を聞いて、否応もなく、腑に落ちてしまった。彼女が何のために、ここへやってきたのか、これでようやく合点がいった。
彼女は神様に遣わされた贄なのだ。
藤木の命を刈り取るために、きっと藤木に抱かれるためだけに生み出された、そんな存在なのだ。
その証拠に、その髪も、顔も、体も、声も、何もかもが、直球ど真ん中のどストライクだった。恐らく、さっきから強調している不自然な語尾も、藤木がケモ耳属性を持っているからとか、そんな理由に違いない。
動きが止まった藤木に不安に思ったのか、すがり付くように少女が腕を伸ばす。
胸に押し付けられた物体は、未だかつて味わったことのない、マシュマロのように柔らかく、心ときめかせるものだった。鼻腔をくすぐる甘い香が、藤木の脳髄をハンドミキサーみたいにかき乱していく。下半身はもうビンビンだ。触れもせずに発射してしまいそうである。
だけど藤木は最後の力を振り絞り、彼女の肩を掴んで、ぐいと押しのけた。
物凄い後悔だ。どうしようもなく何かに腹が立って、ほんの少し胸が痛んだ。
「どうしたんですかにゃ? 遠慮せずに、ずずずいとやってしまうにゃん」
下半身ビンビンの状態で何を言っても締まらないかもしれない。しかし、何か言わなければ彼女も引っ込みがつかないだろう。藤木はやっぱり据え膳食っとけば良かったと思うもどかしさに耐えながら、どうにかこうにか言い訳の言葉を選んだ。
「でも三次元なんでしょ?」
「……にゃ?」
藤木は少女を突き飛ばすように立ち上がり、パソコンの数学2Bフォルダの2次エロ画像をおもむろにスライドショーした。
「おまえ三次元じゃん! 何で俺が三次元とよろしくせにゃならんのだ。間違っている! なあ、おい、神様よう。君たちは誤解している! 俺は三次元とセックスしたくて今まで生きてきたわけじゃねえ……俺が好きなのは、二次元の女の子たちなんだ!」
さっきまで迫っていた少女が心なしか遠ざかった。
「俺がどうして死んだと思う。二次エロ画像でオナっていたからだぞ、舐めんなよ。三次元なんぞになびくものか。大体、何がにゃあだ、猫ひろしか! 形だけ真似ればいいと思ってるの? そういう記号論じゃないんだよ! 例えばおまえら、耳さえ長ければエルフとか思ってるんでしょう? メイド服着てればメイドだって思ってるでしょう? 違うでしょ! あんなのただの、耳の長いコスプレハリウッド女優なだけじゃん! 三次元が二次元に追いつこうなんて、図々しいにもほどがある。どだい無理があるんだよっ!!」
同じ部屋の中にいるというのに、少女は藤木との距離がなんだかとてつもなく遠く離れているような気がしてきた。少女はドン引きしつつ尋ねた。
「にゃ……それじゃ、藤木さんはやっぱりオナって死ぬしかないですにゃ? それでもいいんですかにゃ」
ちっとも良くない。良くはないが、ぽっと出の三次元としっぽりやって、はい死にましたというのも乱暴な話である。それが神様の筋書きというなら尚更だ。
この先、どうなってしまうのかは分からないが、可能な限り神様に抗う方向で行こうじゃないか……藤木は密かに心に決めつつ、逆に少女に聞くのだった。
「つか、身辺整理する時間くらいはくれるって言ってたんだろ。それってどのくらいなんだ?」
「いつまでとははっきり決まってないにゃ。藤木さんの気持ちが落ち着くまでと受け取ってもらって構わないのにゃ」
「なんだよ、ずいぶん気前がいいんだな……」
それならそうと早く言って欲しかった。いきなり死ねと言うから困惑するわけで……しかし、それじゃあ、これから先、70~80歳になるまで拒み続けたらどうなるんだろう。そんなことを考えていると、少女が続けた。
「けど、そう余裕はないはずですにゃ。藤木さんが生き続ける限り、どうしても世界に影響が出るにゃ」
「……え?」
「藤木さんは本当なら死んでいるはずの人ですにゃ。そんな死人が生きていちゃ、本来起こらにゃいことが、どんどん起こるはず。つまり……」
少女は目をつぶり、腰だめに手をぎゅっと握り締め力を溜めたかと思うと、目をカッと見開き、
「藤木さんのオナニーで、世界がヤヴァイですにゃ!」
「いや、なんで力溜めたの。いいよそういうの。それじゃ、なにかい? 俺が生きている、それだけで、世界に悪影響があるかも知れないと」
だから死ねと。確かに他人に迷惑をかけてまで生きたいとは思わないが、しかし、
「うーん……具体的にそれってなんだよ?」
「それは神様にも分からないにゃ。藤木さんはバタフライ効果を知ってますかにゃ?」
「ああ、地球の裏側で蝶が羽ばたいたら、ハリケーンが起きたみたいな?」
「そんな感じですにゃ。藤木さんが生きていると、もしかしたら世界のどこかで大災害が起こるかも知れないにゃ」
「はあ?」
ホントかよ。なんで自分が生きているだけでそんなことになるんだ? ありえねえ。苦笑しながら藤木が首を捻っていると、少女が続けた。
「尤も、ある程度の傾向なら分かるにゃ。影響を及ぼす因子が藤木さんにゃんですから、当然、藤木さんの周りであるほど被害が予想されるにゃ。つまり、藤木さんが生きている代わりに、藤木さんの身内に何か不幸が訪れるかも知れない。そういう可能性が強まるというわけにゃ」
どきりと心臓が鳴った。確かにそれは分かりやすい。地球の裏側の蝶のことなんて考えるまでもないのだ。
「俺が……俺が生きているだけで、周りの人間が危険に晒されるということか?」
例えば交通事故とか、病気とか。とんでもないアクシデントが起こるというのか。まるで家族を人質に取られたような話に藤木は歯噛みした。こんなのどうしようもないではないか。冷静に少女が続ける。
「本来、生きているはずのない人間と接触するとは、そういうことですにゃ。例えば、藤木さんはオナニーして死んだにゃ? なら、その藤木さんの変わりに……」
「ぎええええぇえぇっぇええええええーーーーー!!!!!」
少女が藤木の周りで起こる具体的な悪影響について、説明している最中だった。
突如、闇を切り裂くような物凄い絶叫が聞こえてきた。
その大地を揺るがすような悲鳴が誰から発したものなのかは、咄嗟のこととはいえ、すぐに分かった。間違いなく、隣家に住む幼馴染の少女、馳川小町のものである。
しまった。自分がダラダラやっているうちに、早速、最初の被害者が出てしまったというのか? それにしても、こんなに早く影響が出るなんて……
焦燥感に駆られながら藤木は立ち上がった。後悔先に立たず。自分のせいで、彼女の身に何が起こったか分からないが、早く助けねば! そして、ベランダへ出ようと窓をガラガラ開けたときだった。
「うわあ~! 藤木ぃ、どうしよう!?」
部屋の壁から何か白い物体が、にゅっと突き出てきたかと思うと、半透明になった幼馴染が宙に浮いていた。そして鼓膜を震わせるという聴覚に基づいたものでなく、なんだか自分自身と喋っているような感じで、頭の中に直接小町の声が響いてくる。
神の使いを名乗る少女が言った。
「例えば、藤木さんの代わりに、誰かがオナって死にますにゃ」
「オオ゛オ゛オオ゛オオ、オナってないよっっっ!!!」
ああ、これは割りとどうでもいいパターンだ。藤木は脱力しながら、言い訳に必死になる幼馴染の声に耳を傾けた。
こうして藤木藤夫のオナったら死んでしまう日常が始まった。実に簡単に人が死ぬというのに、その死因が馬鹿馬鹿しいから誰も真剣に考えないという、そんな馬鹿げた日常である。
藤木も漠然と、気楽に構えていた。
自分はいつか死ぬ。それは生物として当然のことだし、抗うことは難しい。けど、人として、最期くらい納得する形で死にたいものである。
それはオナって死ぬか、それとも誰かと結ばれて死ぬか、そういった下世話な話ではある。だが、男子高校生にとってみれば、これ以上ない大事な話とも言えた。もしかしたら、全てであるといって過言でないかも知れない。
ともあれ、そうやって終わりの日まで、死に抗い、少しは恋とか愛とかについて、真剣に考え、精一杯生きてみるのも悪くないんじゃないかと、藤木はぼんやりとながら、その日に向かって歩きはじめたのである。
しかし、藤木はまだ知らなかった。
自分が生きているという影響が、自分が生きて何かに介入するという行為が、思った以上にこの世界に、深刻なダメージを及ぼすということを。
藤木がそのことに気づかされるのは、もっと後のことである。その時まで、藤木はオナって死ぬなんてことは、幽体離脱を気楽に行うための、特技やなんかだと思っていた。
ともあれ、こうして始まった藤木の馬鹿げた日常は、奇しくも誰かを助けたり、時には誰かの恋の花を咲かせたりして、多くの人々に多大な影響を与えながら過ぎていく。
それは騒がしい仲間たちを巻き込みながら続く、馬鹿馬鹿しくも愛おしい、およそ半年間の物語である。