第93話「星空の夜」
夜になった。
今夜は野営である。
生まれ故郷の町を離れた初めのときから、ラミは外で寝ることに抵抗を覚えなかった。
むしろ、楽しくてドキドキした。
ラミは馬車の客車で寝る前に、野営地である林の中から出て、草の中に寝転んだ。昼間の暑気が薄らいで、地はひんやりとしている。
見上げたラミの目に、満天の星。
地は闇色に沈んでいて、ラミはまるで空と地の間に浮いているような感覚を覚えた。
あの星空の下を自由に飛べたらどんなにか素晴らしいことだろう。
ラミは、夜空に手を伸ばした。
そうして、その小さな手に星をつかむと、うふふ、と笑った。
「何を笑ってるの?」
そっと隣に腰を下ろしたのは姉である。
闇の中で、姉の顔も見えない。
「お姉ちゃんは魔法で空飛べる?」
ラミは訊いた。
「うーん、やろうと思えばね。でも、あれはかなり難しいのよ」
「わたし、夜空を飛んでみたいなあ」
「人を抱えて飛ぶのは更に難しいの」
「じゃあ、わたし自分でがんばるよ」
「そうね、ラミならいつか必ずできるわ」
姉は少し言葉を止めて、自分も身を横たえた。
「お姉ちゃんを恨んでる?」
唐突な姉の言葉にラミは驚いた。
姉には感謝の気持ちしかない。恨みなどあるはずもない。
「あの二人の……お父さんとお母さんのことよ」
「それは……でも、お姉ちゃんのこと恨んだりはしてないよ」
「そっか……」
「お姉ちゃん……」
「ん?」
「お父さんとお母さんのこと許してあげて」
「…………」
「もうね、わたしも二人がわたしたちのために帰って来てくれたっていうのは信じてないよ。でも、それでも、許してあげて欲しいの」
姉の沈黙は長くは無かった。
「ラミには嘘をつきたくないから正直に言うけれど、それはできないわ」
「絶対?」
「絶対よ」
短い間だったけれど、ラミにとって、父と母が帰って来て一緒に過ごした時間は、幸せなものだった。そういう幸福な時間をくれた人たちを、大切な姉が恨んでいるという事態は、ラミには辛すぎた。二度と仲良くできないとしても、せめて許してあげて欲しかった。
「ごめんね、ラミ」
その謝罪の言葉には湿り気がなく、からりと乾いている。それは姉が涙が枯れるほど辛い経験をしてきたということであり、その気持ちは、姉の翼の中で守られていたラミには分からない。
「お姉ちゃんを軽蔑していいよ。心の狭い、人間の小さい人なの、あたしは」
「わたしはお姉ちゃんのことをこの世の中の誰よりも尊敬してるよ。大好きだよ、お姉ちゃん」
隣に向かって言うと、一瞬後、後頭部に手が回されて、顔を引き寄せられた。
ラミは姉の胸の中で、幸福だった。
姉のおかげでこれまで生きて来られた。
そのお返しをしたい。かなり難しいことかもしれないけど、今度は逆に姉を守りたい。そういう気持ちも、ゾウンとサイに剣と魔法を習っている理由だった。
「アレスさん、今頃、どこにいるんだろうね?」
ラミがふと思ったことを口にすると、
「ラミ、本当にアレスのこと好きになったんじゃないよね? お姉ちゃん、許さないからねっ」
姉が言う。
その声があまりに真剣だったので、ラミは思わず吹き出した。
「ちょっと思っただけだよ。どうして、好きなんて話になるの?」
「大事な妹に変な虫をつけるわけにはいかないからね」
「勇者様でもダメだとすると、お姉ちゃんが許してくれる人っているのかな」
「自分を安売りしないようにね、ラミ」
「えー……安売りはしたくないけど、でも、売れ残るのもやだなあ……」
「……売れ残り?」
「うん。わたしカレシ欲しいんだ」
「売れ残り?」
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「……ひょっとしてお姉ちゃんのこと言ってるの?」
「ん?」
「売れ残りのことよ」
「え、お姉ちゃん、売れ残ってるの?」
「誰が売れ残りよっ!」
「わたしは何も言ってないよぉ~」
「言ったわ。ああ、なんてことなの! 大事な妹から売れ残り扱いされてるなんてっ!」
夜のしじまを驚かすような声を出す姉に、
――こういうところ、アレスさんのノリと似てるなあ……。
と考えるラミは冷静である。
「もう寝よっか、お姉ちゃん」
そう言って、姉の腕から出ると立ち上がる。
「まだ話は終わってないよ、ラミ」
「馬車の中で聞くから」
客車の中に入ると、後ろをついてきた姉とともに、寝台状になったベッドに横になった。姉が何か言うのを聞きながら、ラミは眠りについた。
穏やかな眠りである。
朝日が昇るまでその眠りが破られることは無かった。




