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第89話「あるべき未来への一歩」

 フィオナの来訪を得たのは、アンシがルゼリアに戻ってから三週間後のことだった。

 自室に入ったとき、誰もいない室内に人の気配がして、警戒してみたところ、友の……いや、こちらが一方的に友だと思っている少女の顔を見た。

「久しぶりですね、アンシ」

 アンシは言葉が無い。宮中の奥深くに密やかに侵入していた、そんなことに驚いているのではない。もう見限られたと思っていた人が会いに来てくれたというそのことが嬉しかったのである。例え、それが、

「わたくしを殺しに来たのですか?」

 物騒な用件だとしても。

 以前に自分がした過ちの責任を取らせに来た。制裁を加えに、死という罰を与えに来た。そんなことを考えたアンシの心持ちは澄んでいる。国の為に命を賭けて戦ってくれた者を殺そうとし、それがならず、国外に追放した国の王女である。そのくらいのことをされても当然であるという考えがある。

 そうして、もしもその通りだとしたら、抵抗するつもりは無かった。抵抗して、フィオナを傷つけるようなことはしたくなかった。友に殺されるのだとしたら一興である。

「警備の人間が宮中にほとんどいませんね」

 フィオナが言う。

「……喪中ですので。ものものしい装いは、先王の霊を騒がし申し上げます」

「そういう建前で警備兵を減らしたのですね」

「はい。それで、少し自由に動けるようになりました」

「おかげで誰にも見とがめられないでここまで来られました」

「それで、フィオナ?」

「グラディ卿の元へ行って来ました」

 アンシはどきりとした。

 まさか――

「危害を加えたりはしていませんよ」

 フィオナは微笑した。

 アンシは心底、ホッとした。今、グラディ卿に何かあったら、ヴァレンスの国政は立ち行かなくなる。

「それで卿からお聞きしました。王室直轄地を割いて、グラディ卿と他国の大臣家とのつながりを切るとは、無茶をしましたね」

「無茶は承知の上です」

「あなたを殺す気などありませんよ。友を殺す気など」

 フィオナが言う。

 アンシは、許されたことを知った。

 しかし、二度は無いだろう。もう一度、同じミスをしたら、今度こそ躊躇(ちゅうちょ)なく殺しに来るに違いない。そうして、そうでなくてはいけない、とアンシは思う。

「アレスに会いました」とフィオナ。

「アレスはどこにいるのですか?」

 ゾウン、マナエル、サイの三人の行方は知っていたアンシだったが、アレスがどこに行ったのかは知らなかった。

「どこに行ったのかまでは。周辺諸国を旅するそうですよ」

「……少なくとも一年間はですね」

「おそらく」

 先王の喪が明けるまでの期間、ヴァレンスに足を踏み入れることは無いだろう。

「クヌプスを倒した者に王女と国を与える」

 この布告は先王の死を以って遺言となった。

 遺言は喪が明けるまでは誠実にこれを実行するのが残された者の務めである。

 王女に余計な労を取らせないためにアレスは来ない。

 そんな気がした。

 そうして、それはおそらく当たっている。

「あなたはどうされるのですか、フィオナ?」

「わたしはここにいますよ。師の家に」

 アンシは、ホッとする気持ちを覚えるとともに、首元に匕首(あいくち)を突きつけられたような気分になった。おそらくグラディ卿が持つのは後者の気持ちだけだろうが、その気持ちと戯れることができるのがグラディという男である。放っておこう。

「ルゼリアを離れてからこれまで何をなさっていたんです、フィオナ」

「まあ、いろいろと、ですね。そのお話は今度ゆっくりとしましょう」

「お帰りになりますか?」

「正門から帰らせていただけると助かります。壁をよじ登るのはそれほど好きじゃないので」

 アンシは、女官長を呼んだ。

 忠実なグラジナは、主の声に応じてすぐに現れた。そうして、主以外の人間がいることに気が付き、整った眉を慎み深く少しだけ(ひそ)めた。

「門の外までご案内差し上げて」

「御意です」

「では、また、アンシ」

 グラジナに導かれてフィオナが去る。

 アンシは、椅子に腰を下ろした。

 室内は、午後の光に明るい。

 アンシは、頭の中で、今日これからなすべきことを考えた。

 仕事は山積している。

 その一つ一つをこなしていった先に、あるべき未来が待っているのかどうか、確信は無いけれど、確信を持って人生を生きていける者など、いたとしてもごく少数であろう。そうであって欲しいと、アンシは思う。

 とりあえず最初の仕事を片付けるため、アンシは執務机につくと、報告書を読み始めた。

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