第83話「覚悟無き者の去る」
市長は執務机を立つと、アンシの前まで来て、膝をつけた。
臣従の礼である。
アンシは少しホッとした。礼を取るということは敵対する意志は無いということだ。
ラハルには、アンシがまだ幼い頃、たまたま王の命で宮中に来ていたときに、遊んでもらった覚えがあった。貴族であるにもかかわらず、貴族らしからぬ質実剛健さを持ち、先王の信頼厚い臣下の一人だった。
「先王の御霊が殿下とともにあり、殿下をお守りせんことを」
そう言ったあと、ラハルは弔辞を口にした。
ラハルは葬儀には出席していない。先王の遺言の一つに、
「各市の長は葬儀に出席するに及ばず。職務に努めるべし」
とあったからだ。もちろん、その遺言を守った形……だと思っていたのだが、ラハルの場合は反旗を翻すために、万が一にも事が露見して王都で捕まったりしないように、市を出なかったわけだろう、とアンシは思った。
「ラハル」
「はい」
「わたくしは不肖ながら、善を勧める声を聞き、悪を退ける声を容れる気持ちがあります。どうぞ、わたくしに是非の理を教えてくださいますよう」
何で反乱を起こしたのか、とアンシは聞いたのだった。
「されば――」
とラハルはまっすぐにアンシを見て言った。
「当時、人民は塗炭の苦しみに喘いでおります。これ全て王室に意志なきゆえ。王が無意志であるゆえに、宮中に蝗飛跳梁す。殿下に置かれましては、即刻、宮中の清掃をなさいますよう。伏してお願い申し上げます」
そう言って、ラハルは顔を伏せた。
アンシは、心中で嘆息した。
ラハルの言うことは分かっているつもりである。しかし、それができないのが現実だった。いや、できるといえばできる。できるが、今すぐにはできない。
「わたくしに時間をくださいませんか、ラハル」
ラハルはすっと顔を上げた。
眼鏡越しの目はやけに澄んでいた。
まるでそういう答えを得ることが分かっていたかのように。
ラハルは許しを得ずに立ち上がると、部屋の隅にあったクローゼットから、一着の法衣を取り出して、それを身につけた。体をすっぽりと包む黒衣である。
「それは……」
アンシはそれ以上続けられなくなった。
「ご推察の通りです、殿下。わたくしは、闇の神ゴモンドランを信奉する者となりました」
「ゴモンドラン教に入信したというのですか?」
「そうです」
「そんな……」
「新しい国には新しい神が必要なのです、殿下」
「新しい国……ですって?」
「ヴァレンスは亡びます。この国はもう長くはない」
その声に、アンシの背が震えた。
それはまるでラハルの体を借りて、何か得体の知れないものが言葉にしたかのような、不気味な響きがあった。
「わたくしを信じてもらえませんか、ラハル」
「信じたいのはやまやまなのです。しかし、信じた結果が今回のクヌプスの乱でした」
ラハルの目には悲しみの色が見えた。それが何に対する悲しみなのか、アンシには分からなかった。そうして、それが分からないということが、ラハルを説得する言を持たないというそのことなのだろう、とアンシは思った。
「わたしは殿下の敵です。そのご意志があるのなら、この場で誅殺なさいませ」
ラハルが言う。
アンシは言葉に詰まった。
誅殺……。
殺す?
国を想う者を殺すなんて……。
「おできにならないのですか?」
できなかった。
アンシは、自分が持ちこんだ覚悟というものが、いかに軟弱なものかを知った。
「お帰りください、殿下。次は戦場でお会いしましょう」
その言葉にただ従うしかないアンシは、自分が情けなくて仕方なかった。
説得することも、殺すこともできない。
これでは見限られて当然である。
市庁舎を出たアンシの足は重い。
隣を歩くアレスはずっと無言である。
「わたくしは無力で無能です、アレス」
「自分を憐れみたいなら勝手にすればいい」
それがアレスの答えだった。
それはいかにもアレス的な答えで、しかし、それを受け入れられるほど、今のアンシは強くなかった。相手がアレスであるということもある。
「……冷たいですね」
「慰めて欲しいのか?」
アンシはまともにムッとした。
嫌な言い方だった。
「主義主張はそれぞれだろ。我を通すためには戦うしかない」
「戦って戦って、いつまで戦えばいいのです?」
「それは戦い続けたヤツが言えるセリフだ」
「わたくしはまだまだ戦い足りませんか?」
「足りないね」
「足りませんか」
「ああ、足りない」
アンシは、ふう、と息をついた。
確かにまだまだ戦い足りていないのだろう。
戦えるという今の状態が、戦いの不足を物語っている。
「分かりました。戦うことにします」
「差し当たっての相手がいるぞ、あそこに。イライラをぶつけてみたらどうだ?」
アレスが指差した方向に、見覚えのあるローブ姿をアンシは見た。