第77話「ケスチアへ」
アレスがいる、というそのことがアンシの心に鮮やかな彩りを与えている。
二度と会わないかもしれないと思っていた人である。偶然などではなく、地の神のお引き合わせと信じたい。
馬車が街道を進む。
本来であれば我が馬車にアレスを招き寄せたいところなのだけれど、それは、はしたない振る舞いであるし、そもそもアレスは向こうの馬車の御者を担当しているので、無理であった。
代わりに、何か話があると言っていたゾウンを乗せた。
王女に対する忠誠心からゾウンとトラぶったレニアは、アレスの馬車に。
「話ってのは、故郷にいるオレのジジイのことだ」
ゾウンが言う。
「年甲斐も無く若い女のケツを追いかけるしょうもないエロジジイだが、オレにとっては祖父であり師だ。ジジイに何かあったら、ただじゃおかねえ」
アンシはゾウンの祖父に対して何らの危害を加える気も無い。
「それは分かってるが、問題はグラディだ。アレが、うちのジジイに何かしてやがったら、ただじゃおかねえ。グラディもだが、アンシ、あんたもな。監督責任だ」
アンシは暗然とした気持ちでうなずいた。
ぜんたいグラディはなにが楽しくて勇者パーティを敵に回したのか。アンシは理解に苦しんだ。もしもゾウンの祖父に何かをしていたら、これで勇者パーティの少なくとも二人、マナエルとゾウンを敵に回したことになる。彼ら一人ずつが一個師団にでも相応する破壊力を持っている。グラディは非常に危ない橋を渡っていると言わざるを得ない。なにゆえそんなことをするのか。
――宰相だけは、ナゾですね。
そのミステリアスな男に今後一年間は政務を完全に任せることになるわけだから、どうにも不安であるけれど、いたしかたないところである。
その日の夜、街道脇での野営。
晩御飯を手ずから作る勇者のそばで、王女は訊いた。
「わたくしと結婚する話はどうなりました?」
アレスは、地に膝をつけた格好で、地面に火を起こしてかけておいた鍋に味噌を溶かしながら、
「無効だろ」
答えた。
「なぜです」
「そのせいで殺されかけた」
「でも生きているではありませんか」
「そういう問題じゃない」
「何の問題でしょう」
「身分」
「身分?」
「平民が女王の夫になっちゃ、まずいだろ」
「そのまずさは先王に預けましょう。先王がおっしゃったことですので」
アレスはそこで立ち上がると、王女に向かって頭を下げた。
「先王の御霊が安らかならんことを」
「ありがとう」
「落ち込んでないか?」
「あとで胸を貸して下さい」
「大丈夫そうだな」
「結婚の件ですが、もしも、わたくしと結婚できないのだとしたら、代わりにコウコとそうしてください」
「代わり?」
「はい」
「代わりって何だよ!」
思わず大きくなったアレスの声に周囲の視線が集まる。何でもないよ、とアレスはみなに、取り繕った。
「誰もキミの代わりにはなれないし、もちろんコウコの代わりもいない」
「……ありがとう、と言っていいのかしら」
「事実を言っただけだ。礼を言う筋じゃない」
夜気に香気があらわれる。
「いい匂いですね」
「王女様、腹ペコか?」
「はい」
「はしたないぞ」
「今頃気がついたのですか?」
「いや、随分前から分かってた」
「王女特権で、一番初めにわたくしの器に、そのスープを入れるように」
「つまんないことで特権を作るなよ」
「大事なことです。アレスの手料理を一番初めに食べる権利ですからね」
翌日の昼ごろ、ケスチアに着いた。
空は快晴である。
ケスチアの市門にはがっちりと警備兵がいた。近づいてくる馬車に向かって警戒の色を濃くしている。
市門から少し離れたところで、二乗の馬車は動きを止めた。
アンシは馬車から降りると、門に向かって無造作に歩いて行く。お付きの三人は慌てて、王女の後を追った。
アレスも御者台から降りて、アンシ達の後を追う。
「アンシ・テラ・ファリアが来ました、と市長にお伝えくださいますよう」
警備兵は五人いたわけだが、誰もアンシの言に答えようとする者がいない。
「お伝え下さらないのであれば、押し通りますよ」
それは脅迫ではなくただの事実だった。
事実その通りのことをアンシはしようと思っていた。
こんなところでグダグダやるために、来たわけではないのだ。
それでもなお答え無し。
アンシは一歩、彼らに向かって踏み出した。
五人の兵たちの持つ槍が一斉にアンシに向けられる。
同時に、上方に人の気配。
城門の上に射手が現れた。
「困った時は勇者に頼んでみましょうか」
アンシは下がると、アレスに向かって手の平を向けた。




