第72話「軍無き親征」
ケスチア。
ヴァレンスの北にある地方都市である。
――北ですか……。
北は、ヴァレンスでは聖なる方位。
そこで反乱が起こったという事実には、不吉の色合いがある。
ケスチアから落ちのびてきた兵によると、ケスチア市長自身が乱の首謀者であるという。
まさか、とアンシは耳を疑った。
賊が市を乗っ取って乱を起こしたということであれば、まだしも、中央から市を任されている市長自身が乱を起こすとは。しかも、ケスチア市長は清廉で鳴る人物である。とても、乱を起こすような人ではない。
「どういうことなのです?」
昼夜兼行してきたのだろう、疲労の影が濃いケスチアの兵士に、アンシが訊くと、
「市長は、殿下をお諫めするための義挙である、とおっしゃってました」
との答えが返ってきた。
「わたくしを諌める……?」
謁見が行われている中庭は、曇り空の下である。
「無礼な!」
怒りの声を上げたのはアンシではない。同席していたグラジナである。
グラジナは、思わず大きな声を上げてしまったことに対して、恥じ入るように顔を伏せた。
「具体的に何を諌めるというのです?」
「…………」
「構いません。申しなさい」
兵士は、それでもなおためらったあと、
「……いたずらに無き者を悼み、時を無駄にし、国を危うくする行為について、と」
口を開いた。
アンシは、ふう、と息をついた。喪の期間を一年間取ることについて、ケスチア市長には思うところがあったのだろう。喪の期間を規定通り取ることについて、アンシが持つ理由は、もちろんケスチア市長には分からないことであって、分からなくてもこの国の為に何事かしようと思っていることを分かってもらいたい、と思うのはやはり自分の我がままだろう、とアンシは思った。
「……分かりました。あなたは下がって結構です。……あるいは、ケスチア市長の行いに賛成するのであれば、加わっても良いですよ」
兵士の男は、ハッとした顔で、王女の顔を見上げた。
「下がりなさい」
アンシが答えを待たずに続けると、男は一礼して去って行った。
「さて、どうしますか……」
アンシは、すぐにヴァレンスの国政を司る五人の大臣を謁見室に呼び寄せて、事の次第を説明した。
大臣たちの意見は、即刻討つべし、というものであった。
「わたしが一軍を率いて、討伐して参りましょう」
第一位の大臣であるグラディが言う。
アンシは、首を静かに横に振った。
「喪中に軍を出したとあっては、先王の霊を騒がし申し上げることとなり、また、周辺諸国に良い物笑いの種を提供することになります」
「では、いかようになさいますか?」
「ケスチア市長は、わたくしを諌めたいと申しております。その諫言の言葉を聞けば、市長の気も治まるのではありませんか。聞いたのちに、市長を説得して、この乱を終わらせて参ります」
「それは……すなわち、殿下自らが話し合いにいらっしゃる、と。そういうことでしょうか?」
グラディの目に抑えきれないような笑いの色があるのを、アンシは見てとった。
「その通りです」
「危険です!」
すぐさま、残りの四人の大臣から反対の手が挙がった。
アンシは、座っていた玉座から立ち上がると、
「兵を向ければ、その兵たちが危険を引き受けなければなりません。非才なれど、このアンシ・テラ・ファリアは、下の者に危険を与えておいて、一人王宮でのうのうとしているような臆病者ではないつもりです」
はっきりと言った。
四人の大臣は、感じ入ったように、黙り込んだ。
「話は以上です。なお、この件に関しては、何らの手出しも無用に願います」
この言葉は、主にグラディに向けたものであった。
グラディは、他の四人とともに、重々しくうなずいた。
アンシは、大臣たちを下がらせようとしたが、一人下がらない男がいて、第三位大臣のゴラである。
「どうしました」
アンシが訊くと、お畏れながらと、ゴラは頭を下げてから、
「どうぞ娘を一人お使いください、殿下」
と切り出した。
「ご息女を?」
「はい。サカレと申す娘です。不肖の子ですが、道中、殿下の御髪を梳かす用にでもお使いくだされば、と」
アンシは、下げられたままの大臣の頭を見た。
少し頭頂部が薄くなって来ている。
この大臣は、アンシの見るところ、癖の無い好人物であり、娘をつけると言い出したことについては何かしらの私利私欲があるわけではない、と見た。
アンシは微笑した。
「わたくしのお目付役と言うところでしょうか」
「滅相もございません」
「ご息女をお借りしましょう」
「ありがたき幸せに存じます」
アンシは、すぐに出発できるように、グラジナに準備をさせた。
「ご一緒できない我が身を引き裂きたい気分です」
庭の車寄せで、グラジナが無念極まりない口調で言うのを、アンシは慰めた。
「あなたにはここで色々とやってもらわなければならないから。あなたがいるから安心して行けるのです」
アンシは、グラジナの後ろに、かしこまった少女の姿を見た。
「サカレと申します」
膝をつく少女を立たせて、その目を見る。
少女の瞳に清浄な色があって、アンシは喜んだ。




